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      "name": "アメノミナカヌシ",
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      "historicity_basis": "津田左右吉の記紀批判以来、造化三神は記紀編纂期に体系化された観念的な神格とみられ、歴史的実在は想定されない。九鬼文書がこの神を初代の天皇として置くとする記述は、大本の教義と竹内文書の影響下に成立した近代の偽書によるもので、本文を伝える資料も乏しい。",
      "role": "創造",
      "description": "古事記冒頭で高天原に最初に成った神とされ、独神として身を隠す。以後の物語に一切登場せず、事績を持たない。日本書紀本文には現れず、第一段第四の一書にのみ天御中主尊として名が見え、宇宙の中心という観念を人格神の形で冒頭に置く枠組みの役割を担う。九鬼文書はこの神を最高神ではなく歴代天皇の初代として記すとされるが、同書の本文を伝える資料は乏しく、細部は原本による確認を要する。",
      "worship": "記紀に事績をもたない神でありながら、中世以降に北極星を神格化した妙見菩薩と結び付けられ、妙見社の祭神として広く祀られた。延喜式神名帳にこの神名を冠する社は見えない。明治の神仏分離により、千葉神社・秩父神社・八代神社など各地の妙見社が祭神を天之御中主神と改め、水天宮もこの神を主祭神とする。",
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      "historicity_basis": "日本書紀で天孫降臨を司令するのがアマテラスでなく高皇産霊尊である点から、本来の皇祖神はタカミムスヒであってアマテラスは後に上位に置かれたとする説（岡田精司ら古代王権祭祀研究の系譜）があり、記紀神話が編纂過程で再編された層をなすことの代表的論拠となっている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "造化三神の第2神。天岩戸ではオモイカネの父として策を出させ、国譲りと天孫降臨では派遣する神を選定する司令神として働く。娘のタクハタチヂヒメがアメノオシホミミに嫁ぎ、ニニギの外祖父にあたる。高木神の名で呼ばれる場面が多く、皇統の起点にアマテラスとは別系統の権威を与える。",
      "worship": "延喜式神名帳の冒頭に置かれる宮中神のうち、神祇官の御巫が祀る八神の一座として高御魂神の名で載る。単独で祀る大社は乏しく、東京の高木神社のように、明治の神仏分離で第六天社が祭神を高皇産霊神に改めた例がある。造化三神をまとめて祀る形は、東京大神宮や近代の神道系教団に見られる。",
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      "historicity_basis": "出雲国風土記に神魂命として頻出し、出雲側の祖神観念と結びつくことから、高天原系のタカミムスヒと対をなす出雲系の産霊神とみる整理が通説である。津田左右吉以来、造化三神の体系そのものが編纂段階の構成物とされ、実在は問題とされない。",
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      "description": "造化三神の第3神。古事記ではオオクニヌシが八十神に殺された際にキサガイヒメ・ウムギヒメを遣わして蘇生させ、またスクナビコナの親神として国作りを援ける。高天原の神でありながら出雲系の神々を庇護する位置にあり、出雲国風土記では神魂命として多くの神の祖に置かれる。",
      "worship": "延喜式神名帳の宮中神に、神祇官の御巫が祀る八神の一座として神魂神の名で載る。出雲国造家が神火相続式などの重い儀を行う松江の神魂神社は、出雲国風土記に神魂命を伝えながら延喜式神名帳には記載がなく、式外社である。同社本殿は現存最古の大社造として国宝に指定されている。",
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      "historicity_basis": "葦の芽の萌え出る力を神格化した観念神であり、事績を一切持たない。津田左右吉以来、記紀冒頭の神々は伝承としての実質を欠く編纂上の構成とみられている。",
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      "description": "国土が水に浮く脂のように漂っていたとき、葦の芽のように萌え騰がるものによって成った神。別天津神の第4神で、独神として身を隠す。生命力の発生そのものを人格化した神格であり、以後の物語には登場しない。",
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      "description": "別天津神5柱の最後に成った独神。天が永久に立ち続けることを神格化した名であり、身を隠して以後の物語に関与しない。国之常立神と対句をなす。",
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      "role": "創造",
      "description": "神世七代の最後にイザナミとともに成り、天の沼矛で大八島国を生み、続いて多くの神を生む。イザナミの死後、黄泉国を訪ねて決別し、帰還後の禊によって三貴子を得て統治領域を分配する。出雲国風土記にも伊佐奈枳命の名で現れ、国土と神々と秩序の起点を一身に担う。黄泉国訪問を古事記が本文で詳述するのに対し、日本書紀は第五段の一書にのみ収める。",
      "worship": "淡路国一宮の伊弉諾神宮は延喜式神名帳に淡路伊佐奈伎神社として名神大に列し、明治に官幣大社となった。近江の多賀大社は延命長寿の信仰を集め、近世には不動院などの別当寺が置かれ、本地を阿弥陀如来とする例がある。熊野速玉大社の主神も伊弉諾に比定され、その本地を薬師如来とする説が行われた。",
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      "historicity_basis": "死の起源と生者・死者の境界を説く起源譚の登場神であり、実在は想定されない。比婆山・有馬村などの葬地伝承は、記紀の記述を各地が受け止めた後代の定着とみるのが通説である。",
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      "description": "イザナキとともに国生み・神生みを行い、火の神カグツチを生んで死ぬ。黄泉国でイザナキに変わり果てた姿を見られたことを恥じて追い、千引石を挟んで決別し、一日千人を殺すと宣言する。出雲国風土記にも伊奘弥命の名が見え、葬地を古事記は出雲と伯伎の境の比婆山、日本書紀の一書は紀伊の熊野の有馬村とする。死と再生の対抗が人の生死の起源として語られる。",
      "worship": "熊野那智大社の主神である熊野夫須美大神は伊弉冉に比定され、本地を千手観音とする説が一般に行われた。日本書紀の一書が葬地とする紀伊の有馬村には花窟神社があり、社殿をもたず巨岩そのものを拝する形をとる。明治の神仏分離で熊野三山の仏教施設の多くが失われたなかで、那智の如意輪堂は青岸渡寺として寺のまま存続した。",
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      "form_nihonshoki": "天照大神（一書に大日孁貴）",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "津田左右吉は皇祖神アマテラスを含む神代の物語を6世紀ごろの皇室支配正当化のための構成とみた。加えて日本書紀で天孫降臨を司令するのが高皇産霊尊である点から、本来の皇祖神はタカミムスヒで、アマテラス=伊勢の日神を皇祖神とする体制は7世紀後半（天武・持統朝の伊勢神宮整備）に確立したとする説が、岡田精司ら古代王権祭祀研究で有力に唱えられている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "イザナキの禊で左目から成り、高天原を治める。スサノオの乱暴に対して天岩戸に隠れて世界を暗黒にし、招き出されて光を回復する。国譲りと天孫降臨を命じ、八咫鏡を自らの御魂として孫ニニギに授けることで皇統の起点となるが、日本書紀本文は降臨の司令神を高皇産霊尊とし、アマテラスは後退する。ホツマツタヱは対応する存在を男神アマテルとして記すため、本データベースでは別項を立て、対応人物欄で結んでいる。",
      "worship": "伊勢神宮内宮は延喜式神名帳に大神宮として載り、近代社格制度では社格の外に置かれて全神社の本宗とされた。中世の両部神道では本地を大日如来とする説が広く行われる一方、神宮では僧の参宮や仏教語の使用が忌避され、仏を中子と言い換える忌詞が定められていた。明治の神仏分離で神宮周辺の仏教施設は廃され、伊勢は国家祭祀の中心に位置づけ直された。",
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      "name_en": "Tsukuyomi",
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      "form_nihonshoki": "月夜見尊／月弓尊／月読尊",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "日月を対にする観念に基づく神格で、独自の伝承がほとんど残らない。記紀神話を編纂期の構成とみる津田左右吉以来の理解の枠内にある。",
      "role": "秩序化",
      "description": "三貴子の一柱でイザナキの右目から成り、夜の食国（または滄海原）の統治を委ねられる。以後ほとんど物語に登場せず、事績はウケモチ殺害の一件に限られる。日と夜を対置する構図を成立させるための位置を占める。",
      "worship": "事績をほとんどもたないにもかかわらず祭祀上の格は高く、伊勢神宮には内宮別宮の月讀宮と外宮別宮の月夜見宮が置かれる。延喜式神名帳には山城国葛野郡の月読神社（松尾大社摂社）と壱岐の月読神社が、いずれも名神大として載る。記紀の記述の薄さと祭祀の格の高さのずれが最も目立つ神の一つである。",
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      "kind": "神格",
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      "form_nihonshoki": "素戔嗚尊",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "出雲国風土記に神須佐能袁命として現れる一方、風土記の記す事績は記紀の八岐大蛇譚とほとんど重ならず、記紀の造形が編纂側の構成であることの傍証とされる。日本書紀一書第四の新羅・曽尸茂梨降臨記事から渡来系の神格を想定する説もあるが定説には至っていない。",
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      "description": "三貴子の一柱で、海原の統治を委ねられながら母を慕って泣き荒れ、高天原で乱暴を働いて追放される。出雲に降って八岐大蛇を退治しクシナダヒメを得、須賀に宮を建てて歌を詠む。出雲国風土記には神須佐能袁命として現れるが、そこに記される事績は記紀の八岐大蛇譚とほとんど重ならない。破壊者から国土の秩序をもたらす者へ反転する構造をもち、出雲系神統譜の起点となる。",
      "worship": "出雲の須佐神社は延喜式神名帳に飯石郡の社として載る。一方、京都の祇園社をはじめ全国の祇園社・天王社は牛頭天王を祀り、その本地を薬師如来とする説が一般に行われたが、祇園社は延喜式神名帳に記載がない。明治の神仏分離で祇園社は八坂神社と改称して祭神を素戔嗚尊とし、各地の天王社も同様に祭神を書き換えて八坂神社・須賀神社などと改称した。",
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      "historicity_basis": "猿女君・稗田氏が祖神として奉じる氏族神であり、宮廷の鎮魂祭・神楽の職掌の由来を語る起源譚に属する。津田左右吉以来、氏族の職能を神代に投影した造作とみる整理が通説である。",
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      "description": "天岩戸の前で桶を踏み鳴らし胸乳をあらわにして舞い、神々の哄笑を引き起こしてアマテラスを外へ誘い出す。天孫降臨では道を塞ぐサルタヒコの前に立ってその名と意図を問い、後に猿女君の祖とされる。危険な他者と交渉する媒介者の役割を一貫して負う。",
      "worship": "伊勢の猿田彦神社境内の佐瑠女神社に祀られ、猿女君の祖とされる。芸能の神としての性格が前面に出るのは近代以降で、京都の車折神社芸能神社のように20世紀に設けられた社もある。",
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      "role": "秩序化",
      "description": "タカミムスヒの子で、天岩戸に際して神々を集め、常世の長鳴鳥を鳴かせ鏡と勾玉を掛けるという段取りを立案する。国譲りで派遣する神の選定にも加わり、天孫降臨には随伴する。危機に対して手順を設計する知の機能を担う。",
      "worship": "信濃の阿智神社は延喜式神名帳に伊那郡の社として載り、思兼命を祀る。戸隠神社中社の祭神も天八意思兼命だが、戸隠は近世まで戸隠山顕光寺と称する天台・修験の霊場であり、明治の神仏分離で僧が還俗して神社となり、祭神が記紀の神名で定め直された。",
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      "role": "秩序化",
      "description": "天岩戸の脇に隠れて立ち、アマテラスが戸を細く開けて外を覗いた瞬間にその手を取って引き出す。天孫降臨に際しては三種の神器に添えられて随伴し、伊勢国佐那県に鎮まったとされる。閉じられた秩序を物理的に開く力の役割を担う。",
      "worship": "伊勢国多気郡の佐那神社は延喜式神名帳に載り、古事記がこの神の鎮座地とする佐那県に比定される。戸隠神社奥社も天手力雄命を祭神とするが、戸隠は近世まで修験の霊場であり、記紀の神名による祭神の確定は神仏分離を経た近代のことである。",
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      "description": "天岩戸に際してアメノコヤネとともに太占を行い、勾玉と鏡と幣を掛けた榊を捧げ持つ。アマテラスが出た後に注連縄を張って還御を防ぐ。天孫降臨に随伴する五伴緒の一柱で、忌部氏（斎部氏）の祖神とされる。",
      "worship": "安房国一宮の安房神社は延喜式神名帳に安房坐神社として名神大に列し、忌部氏の祖神を祀る社として明治に官幣大社となった。阿波の忌部神社は、延喜式神名帳に載る同名社の所在地比定をめぐって明治初年に複数の候補地が争い、最終的に徳島市に社地が定められた経緯をもつ。",
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      "historicity_basis": "中臣氏・藤原氏の祖神であり、藤原氏の政治的優位が確立した8世紀の編纂事情を反映するとみられる。九鬼文書が九鬼家をその後裔とする主張は三浦一郎『九鬼文書の研究』（1941年）を通じて公表されたもので、同書が典拠とする神代文字は近世以降の作とするのが学界の通説である。",
      "role": "始祖",
      "description": "天岩戸に際して祝詞を奏上し、太占を行う。天孫降臨に随伴する五伴緒の筆頭格で、中臣氏・藤原氏の祖神とされ、後に春日大社・枚岡神社の祭神となる。祭祀言語を司る職掌の起源を体現するが、忌部氏の立場から書かれた古語拾遺は太玉命を主役に据え直し、記紀の配分を訂正するよう求める。九鬼文書はこの神を九鬼家の遠祖とし、その時代に神代文字で記された原記録を藤原不比等が漢字に改め九鬼氏が保管したと記す。",
      "worship": "春日大社と河内の枚岡神社はいずれも延喜式神名帳に名神大として載り、ともに明治に官幣大社となった。春日社は興福寺と一体の組織をなし、春日曼荼羅では第三殿の天児屋根命の本地を地蔵菩薩とするのが一般的であった。明治の神仏分離で両者は切り離され、興福寺は境内地の多くを失った。",
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      "historicity_basis": "鏡作連の祖神とされ、鏡作りという技術職掌の起源を神代に置く氏族起源譚に属する。津田左右吉以来、この種の職掌起源譚は氏族の由緒主張の産物とみられている。",
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      "description": "天岩戸に際して八咫鏡を鋳造した神。天孫降臨に随伴する五伴緒の一柱で、鏡作連の祖神とされる。金属加工と鏡作りの技術の由来を担う。",
      "worship": "大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社は延喜式神名帳に載り、石凝姥命を祀る社として鏡作りの由来と結びつけられる。紀伊の日前神宮・國懸神宮も、この神が鋳た鏡を神体とする伝承をもつ。",
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      "kind": "神格",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "名が稲田の神格化を示すとする理解が通説で、八岐大蛇退治譚を治水または製鉄と稲作をめぐる起源譚と読む解釈が広く行われている。歴史的実在は想定されない。",
      "role": "犠牲",
      "description": "八岐大蛇の生贄に供されようとしていたところをスサノオに救われ、その妻となる。古事記ではスサノオによって湯津爪櫛に変えられ、髪に挿されて戦いに臨まれる。出雲国風土記には久志伊奈太美等与麻奴良比売命の名が見える。犠牲となるはずの者が救出されて婚姻に転じ、出雲系の系譜の起点をなす。",
      "worship": "出雲の八重垣神社・須我神社に素戔嗚尊とともに祀られ、武蔵の氷川神社では三祭神の一に数えられる。京都の祇園社では牛頭天王の后である頗梨采女が祀られていたが、明治の神仏分離に伴う祭神の整理で櫛稲田姫命に改められた。",
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      "name": "オオクニヌシ",
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        "大穴牟遅神",
        "大己貴命",
        "葦原色許男",
        "八千矛神",
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        "大己貴",
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      "form_kojiki": "大国主神（大穴牟遅神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神）",
      "form_nihonshoki": "大己貴神（大国主神・大物主神・国作大己貴命などを一書に列挙）",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "出雲国風土記には所造天下大神として国土形成の主体が記される一方、記紀の国譲り譚は大和王権による出雲の服属を神話化したものとみるのが通説である。荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の大量青銅器は出雲に独自の祭祀圏が存在した事実を示し、神話の背後にある政治史的関係が論じられている。",
      "role": "創造",
      "description": "因幡の白兎を助け、八十神に2度殺されて蘇り、根の国でスサノオの試練を経て地上の主となる。スクナビコナと国作りを行い、後に天つ神の使者に対して国土を譲り、大きな宮を建てることを条件に幽事に退く。出雲国風土記は所造天下大神として国土形成の主体に置き、記紀とは別系統の造形を伝える。ホツマツタヱはオオナムチの名で記し、国譲りの後を幽事への退隠ではなく日隅国すなわち津軽への国替えと再興として描く。",
      "worship": "出雲大社は延喜式神名帳に杵築大社として名神大に列し、明治に官幣大社となった。中世には鰐淵寺が深く関与し、杵築大社の祭神を素戔嗚尊とする説が有力であった時期があるほか、大国の字が大黒天と音を通じて習合し、福神としての受容が広まった。近世の寛文の造営で仏教的な建物が境内から除かれ、明治には千家尊福が出雲大社教を興し、祭神論争を通じて伊勢と並ぶ位置を主張した。",
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      "name": "スクナビコナ",
      "name_en": "Sukunabikona",
      "aliases": [
        "少名毘古那神",
        "少彦名命",
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        "天少彦根命"
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      "kind": "神格",
      "form_kojiki": "少名毘古那神",
      "form_nihonshoki": "少彦名命",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "出雲国風土記・播磨国風土記・伊予国風土記逸文にも現れ、小さ子神の伝承として広い分布をもつが、いずれも起源譚であり歴史的実在は想定されない。",
      "role": "創造",
      "description": "海の彼方から蘿摩の実の船に乗って来訪する小さな神で、オオクニヌシと兄弟の契りを結んで国作りを行う。医薬・禁厭・酒造などの技術をもたらし、事業の途中で常世国へ去る。出雲国風土記に須久奈比古命として国作りの相方に置かれるほか、播磨国風土記・伊予国風土記逸文にも現れる。親神を古事記は神産巣日神、日本書紀は高皇産霊尊とし、出雲系と高天原系のどちらに接続するかで両書が食い違う。",
      "worship": "常陸の2社は延喜式神名帳に大洗磯前薬師菩薩神社・酒列磯前薬師菩薩神社の名で名神大として載り、927年の官の帳簿に記された社名そのものに仏の名が含まれている。医薬の神としての性格から、大阪道修町の少彦名神社が薬種商の守護として近世に勧請され、中国の神農と併せ祀られている。",
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      "id": "FIG-0020",
      "name": "コトシロヌシ",
      "name_en": "Kotoshironushi",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "名は神託を「言」で示す神格を意味し、宮廷の託宣祭祀（宮中八神殿に祀られる）と結びつく。国譲り譚を大和による出雲服属の神話化とみる通説の枠内で、その承諾役として構成された位置を占める。",
      "role": "媒介",
      "description": "オオクニヌシの子で、美保ヶ崎で釣りをしていたところを問われ、国譲りを承諾する。船を踏み傾け天の逆手を打って青柴垣に変え、その中に隠れる。父の決断を代行して国譲りを成立させる決定的役割を担い、後に神武天皇の皇后ヒメタタライスズヒメの父とされる。",
      "worship": "出雲国島根郡の美保神社は延喜式神名帳に載り、事代主神を祀る。中世以降えびす神と習合し、えびすの本体を蛭子とする西宮神社系と、事代主とする美保神社系の2系統が並び立った。延喜式神名帳の宮中神にも、八神の一座として事代主神が名を連ねる。",
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      "historicity_basis": "日本書紀に一切登場せず、諏訪の在地神ミシャグジ信仰の上に記紀神話が接続された結果とみる見方が有力である。古事記の力競べ譚を諏訪社の由緒に結びつける後代の縁起（諏訪大明神絵詞など）との層の違いが指摘される。",
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      "description": "オオクニヌシの子で、国譲りに際してタケミカヅチに力競べを挑み、手を氷の刃・剣に変えられて敗れる。科野国の州羽海（諏訪）まで逃げてそこから出ないことを誓い、国譲りを承認する。抵抗し敗れることで服属を確定させる役を負う。",
      "worship": "諏訪大社は延喜式神名帳に信濃国諏訪郡の南方刀美神社二座として名神大に列し、明治に官幣大社となった。中世には諏訪大明神として武神の信仰を集め、上社の本地を普賢菩薩とする説が広く行われた。明治の神仏分離で上社の神宮寺や鉄塔が取り払われ、生き神とされた大祝の職も廃された。",
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      "historicity_basis": "鹿島神宮の祭神で、中臣氏・藤原氏の氏神として春日大社に勧請された。国譲りの主役を経津主神から武甕槌神に移す記述の変化は、物部氏に代わる中臣氏の政治的台頭を神話に反映したものとする説が広く唱えられている。",
      "role": "征服",
      "description": "イザナキがカグツチを斬った剣（天之尾羽張）に付いた血から成った神。国譲りの使者として出雲の伊那佐の小浜に降り、剣を波頭に逆さに立ててその切先に胡坐をかき、オオクニヌシに国土の返還を迫る。建御名方を屈服させて国譲りを完成させ、神武東征では布都御魂剣を降して危機を救う。",
      "worship": "常陸の鹿島神宮は延喜式神名帳に名神大として載り、伊勢・香取とともに古代に神宮号を用いた3社の一つで、明治に官幣大社となった。奈良時代に春日大社へ勧請されて第一殿の祭神となり、春日曼荼羅ではその本地を不空羂索観音とするのが一般的であった。",
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      "historicity_basis": "古事記に登場せず日本書紀にのみ現れる神で、もと物部氏の祭神・祖神であったものが、台頭する中臣氏の祭神である武甕槌神にその神格を奪われたとする説がある。記紀の神格配置が氏族の政治的消長を映すことの代表例とされ、常陸国風土記には普都大神の名が見える。",
      "role": "征服",
      "description": "日本書紀本文の葦原中国平定において主たる使者として派遣され、武甕槌神を伴って出雲に降り、大己貴神に国譲りを迫る。石上神宮の布都御魂剣と結びつき、物部氏の武の神格を体現する。香取神宮の祭神として鹿島の武甕槌神と対で扱われ、常陸国風土記には普都大神の名が見える。古事記に全く登場せず、平定の主役が記では建御雷神である点は、氏族の勢力関係の変化が最も明瞭に読み取れる差異とされる。",
      "worship": "下総の香取神宮は延喜式神名帳に名神大として載り、鹿島とともに神宮号を用いた。大和の石上神宮はこの神と結びつく布都御魂剣を祀り、近世まで本殿をもたず禁足地を拝する形をとっていたが、1874年（明治7年）に禁足地が発掘されて剣身が出土し、これを神体として本殿が建てられた。古事記に一切登場しない神が式内の大社として東国に大きな祭祀圏をもつ点は、記紀の記述と信仰の分布のずれを示す。",
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      "historicity_basis": "出雲国造・土師氏の祖神であり、出雲国造神賀詞（延喜式所収）はこの神を出雲支配の由来として語る。出雲国造家が大和王権に服属する立場を神話化した氏族起源譚とみるのが通説である。",
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      "description": "アマテラスとスサノオのうけひで生まれた5男神の第2子。葦原中国の平定のために最初に派遣されるが、オオクニヌシに心服して3年間復命しない。出雲国風土記には天乃夫比命の名で現れ、その子タケヒラトリが出雲国造・土師氏の祖とされる。使命に背いた神が出雲祭祀家の祖となるという構成は記紀に共通する。",
      "worship": "出雲国造家（千家・北島両家）の祖神とされ、出雲大社の祭祀を世襲的に担う根拠となった。この神自身を主祭神とする社は多くないが、出雲大社の祭祀組織そのものが受容の実質をなしている。土師氏を経て菅原氏の祖に連なるとする系譜も、後世に整えられたものである。",
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        "大物主神",
        "大物主大神",
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      "historicity_basis": "三輪山を神体とする大神神社の祭神で、山そのものを対象とする古い祭祀形態を残す。崇神紀の疫病鎮圧説話は王権が在地の三輪山祭祀を取り込む過程を語るとみるのが通説で、岡田精司らの古代王権祭祀研究がこの線で論じている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "三輪山に鎮まる神。崇神天皇の代に疫病が起こったとき夢に現れ、オオタタネコに自らを祀らせよと告げ、そのとおりにすると疫病が止む。夜ごと通う小蛇の姿を倭迹迹日百襲姫命に見られる話と、箸墓の由来譚を伴う。王権が在地の神を祀ることで秩序を回復する構図を担う。",
      "worship": "大和の大神神社は延喜式神名帳に大神大物主神社として名神大に列し、本殿をもたず三輪山を拝する古い形を伝え、明治に官幣大社となった。中世には大御輪寺・平等寺などの神宮寺が置かれ三輪流神道が展開したが、明治の神仏分離で大御輪寺は解体され、その十一面観音像は聖林寺へ移された。讃岐の金毘羅大権現も、神仏分離により祭神を大物主神と定めて金刀比羅宮と改められた。",
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        "淤美豆奴神（同一視される古事記の神名）"
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      "historicity_basis": "出雲国風土記（733年成立）意宇郡の冒頭に置かれる国引き神話の主体で、出雲側が独自に伝えた国土形成譚の神格である。古事記の淤美豆奴神（オオクニヌシの祖父の世代）と同一視する説があるが、国引きの物語自体は記紀のいずれにもない。",
      "role": "創造",
      "description": "出雲国風土記の国引き神話で、出雲の国が細長く造り足りないと述べ、志羅紀・北門佐伎・北門良波・高志の四つの余った土地を三身の綱で引き寄せて縫い合わせ、島根半島を成したとされる。作業を終えて意宇の杜に杖を突き立て「おえ」と唱えたことが意宇郡の名の由来とされる。土地そのものを引いて国を造るという、記紀の国生みとは異質な創造の型を示す。",
      "worship": "出雲市の長浜神社が国引きの神として八束水臣津野命を祀り、綱を引く所作にちなんで勝負事の信仰を集める。出雲国風土記が国土形成の主体として大きく語る神でありながら、記紀にはこの名の事績が記されない。",
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        "正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊",
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        "天忍骨命"
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      "kind": "神格",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "うけひによる出生と降臨の辞退という筋は、皇統をアマテラスに接続するための系譜上の中継として構成されたとみられる。津田左右吉以来の記紀批判の枠内で、歴史的実在は想定されない。",
      "role": "媒介",
      "description": "アマテラスとスサノオのうけひによって生まれた5男神の長子で、アマテラスの子とされる。葦原中国を治めるよう命じられるが、天の浮橋から下界を見て騒がしいとして引き返し、その間に生まれた子ニニギを代わりに降すよう申し出る。降臨を一世代先送りすることで天孫の系譜を成立させる。",
      "worship": "豊前の英彦山は天忍穂耳尊を祀り、近世まで英彦山権現・霊仙寺と称する修験の一大拠点であった。明治の神仏分離で英彦山神社となって座主以下の修験組織が解体され、1975年に神宮号を称した。",
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        "天津彦彦火瓊瓊杵尊",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "天孫降臨譚は王権の由来を天に求める起源神話であり、津田左右吉は6世紀ごろの皇室支配正当化の構成とみた。高千穂の降臨地比定（宮崎県高千穂町と霧島の二説）が古来定まらないことも、地理的実体を欠く物語であることの傍証とされる。",
      "role": "始祖",
      "description": "アマテラスの孫。三種の神器と五伴緒を伴って高天原から日向の高千穂峰に降り、葦原中国の統治を始める。サルタヒコの先導を受け、コノハナサクヤビメと結ばれてホデリ・ホスセリ・ホオリを得る。天と地を接続し、皇統を地上に定着させる始祖の役を担う。",
      "worship": "霧島神宮と薩摩国一宮の新田神社が主要な祭祀地で、いずれも明治に官幣大社となった。霧島は近世まで霧島六所権現と称して天台系の別当寺を伴ったが、神仏分離で仏教的な要素が除かれた。1874年（明治7年）に瓊瓊杵尊の可愛山陵が新田神社の地に治定され、神代の墓が近代の陵墓制度に組み込まれた。",
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      "name": "サルタヒコ",
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      "historicity_basis": "伊勢の在地神が天孫降臨譚に取り込まれたとみる理解が通説で、猿女君の職掌起源譚と結びつく。歴史的実在は想定されない。",
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      "description": "天の八衢に立って上は高天原、下は葦原中国を照らし、降臨する天孫の一行を先導する国津神。アメノウズメの問いに応じて名を明かし、道案内を務めた後に伊勢の狭長田五十鈴川上へ帰る。阿邪訶の海で漁をしていて比良夫貝に手を挟まれ溺れ、その際に3柱の神が生まれる。境界に立って外来者を迎え入れる媒介者である。",
      "worship": "伊勢の猿田彦神社は宇治土公氏が代々奉仕し、鈴鹿の椿大神社もこの神を祀る。道の神という性格から道祖神と重ねられ、猿の字を介して庚申信仰とも習合し、白鬚明神と同一視されて近江の白鬚神社などに祀られる例も広く見られた。",
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        "大山祇神",
        "大山積神",
        "和多志大神",
        "酒解神"
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      "historicity_basis": "山を司る神格で、大三島の大山祇神社を中心に瀬戸内の海人・水軍の信仰を集めたことから、山と海の両面をもつ在地神が記紀の系譜に組み込まれたとみられる。歴史的実在は想定されない。",
      "role": "媒介",
      "description": "イザナキ・イザナミの神生みで生まれた山の神。クシナダヒメの祖父にあたり、コノハナサクヤビメとイワナガヒメの父として天孫と地上の系譜を結ぶ。伊予国風土記逸文には大山積神として現れ、大三島の大山祇神社を中心に瀬戸内の海人の信仰を集めた。出生を日本書紀はイザナキが軻遇突智を斬った際に生じたとし、古事記の神生みとは経緯が異なる。",
      "worship": "伊予の大山祇神社は延喜式神名帳に大山積神社として名神大に列し、瀬戸内の水軍・海人の信仰を集め、明治に国幣大社となった。伊豆の三嶋大社は祭神を大山祇神とするか事代主神とするかで説が分かれ、明治に一方に定められたのち、現在は両神を併せて祀る形に落ち着いている。",
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      "description": "オオヤマツミの娘でイワナガヒメの妹。ニニギに見初められて妻となるが、一夜で身ごもったことを疑われ、天つ神の子であるなら無事であろうと言って戸のない産屋に火を放ち、その中でホデリ・ホスセリ・ホオリを生む。潔白を火によって証す試練の型を担い、皇統の母系の起点となる。",
      "worship": "富士山本宮浅間大社は延喜式神名帳に駿河国富士郡の浅間神社として名神大に列し、明治に官幣大社となった。浅間大神をこの女神に比定するのは平安後期以降のことで、記紀に富士山との結びつきは記されない。中世以降は浅間大菩薩として本地を大日如来とする説が行われ、明治の神仏分離で山頂の仏像や仏堂が撤去された。",
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      "description": "オオヤマツミの娘でコノハナサクヤビメの姉。ニニギに妹とともに差し出されるが、容姿を理由に返される。父は、石長比売を留めれば天孫の命は岩のように永らえ、木花之佐久夜毘売によって花のように栄えるはずだったと述べ、返されたことにより天皇の寿命は木の花のように短くなったと語られる。永生の可能性が失われる契機を体現する。",
      "worship": "大山祇神社に妹とともに祀られるほか、京都の貴船神社結社が磐長姫命を祀り、縁結びの信仰を集める。伊豆の雲見浅間神社のように、富士を祀る浅間社に対して姉のほうを祀るとする社もあり、姉妹の対比が土地の由来として語られる例がある。",
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      "name": "ホデリ",
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      "role": "犠牲",
      "description": "コノハナサクヤビメが火中で生んだ子の一人で、海の漁を得意とする海幸彦。弟ホオリと道具を交換して釣針を失われ、代替を拒んで争ううちに、海神から得た潮満珠・潮乾珠に屈して弟に服従を誓う。隼人の祖として、朝廷に仕える姿勢の由来を体現する。",
      "worship": "日向の潮嶽神社が火照命を主祭神とし、この神を主神とする数少ない社として知られる。隼人の祖とされながら、祀られた形跡は弟のホオリに比べて著しく乏しい。",
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      "name": "ホオリ",
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        "山幸彦",
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        "火折尊"
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "海神の宮訪問譚は他界訪問の類型に属する起源神話で、皇統に海神系の血を接続する機能をもつ。津田左右吉以来、歴史的事実の反映とはみられていない。",
      "role": "媒介",
      "description": "兄ホデリの釣針を失い、シオツチノオジの導きで海神の宮に至る。トヨタマビメと結ばれて3年を過ごし、釣針と潮満珠・潮乾珠を得て帰り、兄を屈服させる。天孫の系統に海神の力を取り込み、ウガヤフキアエズを経て神武へ至る系譜を成立させる。",
      "worship": "大隅の鹿児島神宮は延喜式神名帳に大社として載り、明治に官幣大社となった。近世まで大隅正八幡宮と称して八幡神と習合し、八幡の本源をめぐって宇佐と争った経緯をもつ。宮崎の青島神社もこの神を祀り、海幸山幸の伝承地とされる。",
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      "name": "ワタツミ",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "安曇連の祖神とされ、志賀海神社を中心とする北部九州の海人集団の信仰を背景にもつ。氏族の始祖伝承が記紀の系譜に組み込まれたとみるのが通説である。",
      "role": "媒介",
      "description": "海を司る神。イザナキの神生みで生まれ、また禊で底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三神が成る。海神の宮の主としてホオリを迎え、失われた釣針を魚から取り出し、潮満珠・潮乾珠を与えて娘トヨタマビメを娶わせる。子のウツシヒガナサク（穂高見命）は安曇連の祖とされる。",
      "worship": "筑前の志賀海神社は延喜式神名帳に志加海神社三座として名神大に列し、阿曇氏が奉斎した。播磨の海神社も同じく名神大で載り、内陸の信濃には安曇氏の移動を示すとされる穂高神社がある。",
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      "historicity_basis": "見るなの禁と本性の露見による離別という広く分布する説話類型に属し、海人集団（安曇氏など）の始祖伝承が皇統譜に接続されたとみられる。歴史的実在は想定されない。",
      "role": "犠牲",
      "description": "海神の娘でホオリの妻。地上の渚に産屋を建て、本来の姿に戻るので見ないでほしいと告げるが、ホオリに覗かれる。恥じてウガヤフキアエズを残して海坂を塞いで去り、代わりに妹タマヨリビメを遣わして養育させる。出産時の姿を古事記は八尋和邇とし、日本書紀本文は龍、一書は八尋大熊鰐とする。禁忌の侵犯によって海と陸の通路が閉ざされる契機を担う。",
      "worship": "対馬の和多都美神社が彦火火出見尊とともに豊玉姫命を祀り、海中に立つ鳥居で知られる。安産の神としての受容が近世以降に広まったが、単独で祀られる例は多くない。",
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        "天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命",
        "鸕鶿草葺不合尊",
        "彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊"
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      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "神格",
      "form_kojiki": "天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命",
      "form_nihonshoki": "彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "日向三代の最後として神代と人代を接続する系譜上の位置を占めるが、独自の事績をほとんど持たず、系譜の接合点として構成されたとみられる。この名を冠する王朝を神武以前に置く竹内文書・上記・宮下文書はいずれも近世以降の偽作とされ、学界でその実在は認められていない。",
      "role": "媒介",
      "description": "鵜の羽で葺いた産屋が葺き終わらないうちに生まれたことから名を得る。母トヨタマビメが去った後、養育に来た叔母タマヨリビメを妻とし、イツセ・イナヒ・ミケヌ・神武の4子を得て、神代から人代へ移る接合点に置かれる。記紀では一代の神名であるが、古史古伝はこれを長大な王朝の名へ読み替え、その代数は典拠ごとに食い違う。竹内文書は不合朝73代とし（同じ竹内文献を72代と数える整理もある）、上記は神武天皇を第73代としつつ王朝が74代続いたとする記述も併存させ、宮下文書は51代とする。",
      "worship": "日向の鵜戸神宮が主要な祭祀地で、近世までは鵜戸山大権現・仁王護国寺と称する天台系の霊場であった。明治の神仏分離で寺は廃され、鵜戸神宮として官幣大社に列した。",
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      "name": "タマヨリビメ",
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      "confidence": "B",
      "confidence_label": "有力だが異説あり",
      "kind": "巫女・祭祀者",
      "form_kojiki": "玉依毘売命",
      "form_nihonshoki": "玉依姫",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "タマヨリヒメは「霊（タマ）の依る姫」を意味する普通名詞的な呼称で、神の依り代となる巫女一般を指す語と解されている。同名の女神が各地の伝承に複数存在することから、固有名というより職能名が人格化したものとみられる。",
      "role": "媒介",
      "description": "海神の娘でトヨタマビメの妹。姉に代わって甥ウガヤフキアエズを養育し、後にその妻となって神武天皇らを生む。神の子を宿し育てる依り代としての機能を負い、皇統の母となる。タマヨリヒメの名は山城国風土記逸文の賀茂伝承にも現れ、固有名というより神の依り代となる巫女一般を指す職能名が人格化したものとみられる。",
      "worship": "賀茂御祖神社（下鴨神社）の西殿に玉依媛命が祀られ、延喜式神名帳に賀茂御祖神社二座として名神大に列する。ただしこの玉依媛は賀茂別雷神の母とされる山城の神であり、海神の娘とは本来別の存在で、依り代となる巫女の職能名が同名の神を各地に生んだとみられる。",
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    {
      "id": "FIG-0039",
      "name": "神武天皇",
      "name_en": "Emperor Jimmu",
      "aliases": [
        "神倭伊波礼毘古命",
        "若御毛沼命",
        "豊御毛沼命",
        "神日本磐余彦天皇",
        "始馭天下之天皇",
        "彦火火出見"
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      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "伝承上の天皇",
      "form_kojiki": "神倭伊波礼毘古命（若御毛沼命・豊御毛沼命）",
      "form_nihonshoki": "神日本磐余彦天皇",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "那珂通世は1897年の『上世年紀考』で、即位を紀元前660年辛酉に置くのは中国の讖緯説に基づく編者の逆算であり、推古9年（601年）辛酉から1,260年遡らせた作為だと論じた。津田左右吉は神代から仲哀までの記述を皇室支配の正当性を与えるための造作とみたが、東征の物語を全面的に否定することも困難とする慎重な立場も残る。",
      "role": "征服",
      "description": "日向から兄イツセらと東へ向かい、浪速で長髄彦に敗れて兄を失い、迂回して熊野から大和へ入る。タケミカヅチの布都御魂剣と八咫烏の導きを得てナガスネヒコを破り、畝傍山東南の橿原宮で即位する。天孫の系譜を大和の地上支配に接続する建国の起点として置かれる。",
      "worship": "延喜式神名帳に神武天皇を祀る社の記載はなく、古代に神として祀られた形跡は確認されない。幕末の文久の修陵で畝傍山東北陵が治定され、1890年（明治23年）に橿原宮の伝承地へ橿原神宮が創建されて官幣大社に列した。1873年の紀元節制定と1940年の皇紀2600年の記念事業により、この天皇をめぐる祭祀は近代を通じて拡張された。",
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      "description": "ウガヤフキアエズの長子で神武の兄。東征を率いて浪速に至るがナガスネヒコの矢に手を負い、日の神の子が日に向かって戦ったのが誤りだと述べて南へ回る策を示す。紀国の男之水門で傷が悪化して死ぬ。兄の犠牲によって弟の東征に正当性と方位の転換をもたらす。",
      "worship": "紀伊の竈山神社は延喜式神名帳に名草郡の小社として載り、隣接する竈山墓が五瀬命の墓に治定されている。近代の社格制度では1915年（大正4年）に官幣大社へ列格し、古代の小社が神武の兄という系譜上の位置によって最高の社格を得た例となった。",
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      "description": "熊野から大和へ向かう神武の軍を先導する大烏。険路で行き悩む一行の前に現れて道を示し、宇陀へ導く。山城国風土記逸文の賀茂伝承に見える賀茂建角身命の化身とされ、賀茂県主の祖に結びつけられる。遣わす主体を古事記は高木大神、日本書紀は天照大神とし、三本足という属性は記紀のいずれにもない後代の付加である。",
      "worship": "熊野三山では神使とされ、烏の文字を組んだ熊野牛王宝印が起請文の料紙として広く用いられた。山城では賀茂建角身命と同一視され、賀茂御祖神社の祭祀に結びつく。大和国宇陀郡の八咫烏神社は延喜式神名帳に載る。",
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        "櫛玉饒速日命",
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      "historicity_basis": "物部氏の祖神で、先代旧事本紀「天孫本紀」がその降臨と系譜を独自に詳述する。同書は序文を後世の偽作としつつ本文を9世紀の編纂物として史料価値を認めるのが鎌田純一以来の通説であり、物部氏系譜は他に代え難い情報を含むと評価される。",
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      "description": "神武の東征以前に天磐船に乗って大和に天降っていたとされる神。ナガスネヒコの妹を妻とし、その勢力の後ろ盾となるが、神武が天孫であることを知って帰順する。子のウマシマヂが物部氏の祖とされ、皇統とは別系統の天孫降臨伝承を体現する。先代旧事本紀「天孫本紀」では物部氏の祖として格段に大きく扱われ、天火明命と同一神とされたうえで降臨と後裔の系譜が歴代にわたり詳述される。",
      "worship": "河内の石切剣箭神社が饒速日命と子の可美真手命を祀り、交野の磐船神社は天磐船とされる巨岩を神体とする。物部氏の祖神でありながら、その祭祀は氏族の勢力が衰えた後も在地の信仰として続いた。",
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      "historicity_basis": "東征譚そのものを後世の造作とみる津田左右吉の史料批判の下では、その敵役も歴史的人物とはみなされず、名は「長い脛の男」を意味する異形の呼称で、服属させられた在地勢力の類型的形象とみるのが一般的である。東北へ落ち延びたとする東日流外三郡誌の続篇は、和田喜八郎による戦後の偽作であることが青森県教育庁の報告書等により確定している。",
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      "description": "大和の登美を本拠とし、東征してきた神武の軍を浪速の孔舎衛坂で破り、イツセを致命傷に至らせる。天孫の証を示し合った後もなお抗い、最後は敗れる。最期の扱いは三書で異なり、日本書紀では主君の饒速日命が自ら殺すが、古事記に殺害の場面はなく、先代旧事本紀ではウマシマヂが殺す。東日流外三郡誌では兄・安日彦とともに東北へ落ち延びたとされ、その子孫が荒羽吐族として津軽を統治したと記される。",
      "worship": "敗者として描かれる人物であり祀られた形跡は乏しいが、大和国添下郡の添御県坐神社が長髄彦を祭神に含むとする伝えもある。東北では、東日流外三郡誌が20世紀後半に流布するなかで、津軽の始祖として語られる受容が生じた。",
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      "description": "日本書紀の神武東征で、筑紫の菟狭に至った際に天皇の命でウサツヒメを妻とする中臣氏の遠祖。天罪・国罪を祓う祭祀を担ったと伝えられ、後に中臣氏の職掌の由来に位置づけられる。古事記には登場せず、日本書紀のみが東征の行程に配し、先代旧事本紀・古語拾遺がこれを承ける。先代旧事本紀は天児屋根命の後裔とするが、両者の世代関係は資料により定まらない。",
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      "historicity_basis": "津田左右吉は、この八代が帝紀由来の系譜のみを伝え旧辞にあたる事績を欠くこと、「ヒコ」「ヤマトネコ」といった称号要素が7世紀後半の天皇の和風諡号と共通することなどから、皇統を古く見せるための後世の造作とみた。他方、坂本太郎は、后妃がいずれも大和周辺の小豪族から出ており後世の造作なら有力豪族を結びつけたはずだとして、系譜は古い伝承として尊重すべきだと反論した。",
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      "description": "神武天皇の子で第2代とされる。異母兄タギシミミが弟たちを害して皇位を奪おうとしたとき、怖じた兄カムヤイミミに代わって自ら矢を放ってタギシミミを討ち、葛城の高丘宮で即位したと伝えられる。欠史八代のなかで唯一まとまった事績説話をもつが、それも皇位継承の正当化に集中している。",
      "worship": "延喜式神名帳に綏靖天皇を祀る社の記載はなく、欠史八代の天皇はいずれも古代に神社の祭神として確認されない。幕末の文久の修陵と明治の陵墓治定によって桃花鳥田丘上陵が定められ、宮内省の管理下に置かれた。",
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      "description": "第3代とされる天皇。片塩浮穴宮で即位したと伝えられるが、記紀ともに系譜のほかに事績の記載がほとんどない。和風諡号のうち「しきつひこ」は後世に付加された美称で、本来の名は「たまてみ」の部分とみられている。",
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      "description": "第4代とされる天皇。軽の曲峡宮で即位したと伝えられるが、記紀ともに系譜以外の事績を欠く。名に含まれる「鉏友（すきとも）」から、農具にかかわる神格が天皇に転じたものとする説もある。",
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      "role": "始祖",
      "description": "第5代とされる天皇。掖上池心宮で即位したと伝えられる。記紀ともに系譜記載に限られ事績を伝えない。子のアメオシタラシヒコが和珥氏など多くの氏族の祖とされ、系譜の分岐点として機能する。",
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      "historicity_basis": "津田左右吉は、この八代が帝紀由来の系譜のみを伝え旧辞にあたる事績を欠くこと、「ヒコ」「ヤマトネコ」といった称号要素が7世紀後半の天皇の和風諡号と共通することなどから、皇統を古く見せるための後世の造作とみた。他方、坂本太郎は、后妃がいずれも大和周辺の小豪族から出ており後世の造作なら有力豪族を結びつけたはずだとして、系譜は古い伝承として尊重すべきだと反論した。",
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      "description": "第7代とされる天皇。黒田廬戸宮で即位したと伝えられる。事績は伝えられないが、子として倭迹迹日百襲姫命と吉備津彦命（彦五十狭芹彦命）を置く点で、崇神朝の説話群への系譜上の橋渡しとなっている。",
      "worship": "伯耆の日野郡一帯には孝霊天皇を主祭神とする楽楽福神社が複数あり、製鉄と鬼退治の伝承を伴って祀られている。記紀が事績を伝えない天皇が、特定の地域でのみ厚く祀られる例である。",
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      "role": "始祖",
      "description": "第8代とされる天皇。軽境原宮で即位したと伝えられる。事績は伝えられないが、子に大彦命、孫の系統に武内宿禰を置き、阿倍氏・葛城氏・蘇我氏など有力氏族の系譜の起点として機能する。",
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      "role": "始祖",
      "description": "第9代とされる天皇。春日率川宮で即位したと伝えられる。事績を欠く点は他の七代と同じだが、子に崇神天皇を置き、欠史八代と実在の可能性が論じられる崇神朝との接合点にあたる。父の后であったイカガシコメを妻とする継承のあり方が、系譜の作為性を論じる際に取り上げられる。",
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      "historicity_basis": "井上光貞は崇神を実在を確かめうる最初の天皇とみ、水野祐は1954年に崇神を古王朝（三輪王朝）の創始者とする三王朝交替説を唱えた。古事記が崩年干支を戊寅と記すことから258年説と318年説が併存するが、いずれも文献内部の推定にとどまり、同時代の外部史料や金石文による確認はない。",
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      "description": "疫病と反乱に見舞われた際、夢に現れた大物主の託宣に従いオオタタネコに三輪山を祀らせて事態を鎮める。四道将軍を派遣して各地を平定し、初めて課役を定めたとされ、記紀ともに「初めて国を治めた天皇」の称を与える。常陸国風土記には美麻貴天皇の名で現れる。古事記の記す崩年干支の戊寅を258年とするか318年とするかで議論が続き、いずれとも断定されていない。",
      "worship": "記紀が伝える宮中からの天照大神の遷座と大和神社の創祀の説話は、伊勢神宮および大和国山辺郡の大和坐大国魂神社（名神大）の起源譚として受け継がれた。天皇自身を祭神とする社は乏しく、幕末に山辺道勾岡上陵が現在の行燈山古墳に治定された。",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "大物主の神託を伝える巫女的性格から卑弥呼に比定する説が畿内説の一部で唱えられてきたが、宮内庁が墓に治定する箸墓古墳は墳丘長約280メートルで、魏志倭人伝の記す「径百余歩」の規模と合わず、崇神朝より前の世代に置かれる系譜上の位置とも整合しない。畿内説の論者のあいだでも近年は具体的比定を避ける傾向が強い。",
      "role": "媒介",
      "description": "孝霊天皇の皇女で、崇神天皇の代に大物主の言葉を伝える巫女として現れ、疫病の原因と反乱の予兆を告げる。夜ごと通う大物主の正体が小蛇であるのを見て驚き、箸で陰部を突いて死んだと伝えられ、これが箸墓の由来とされる。神と王を媒介する巫女の型を体現する。",
      "worship": "箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓として宮内庁の管理下にあり、学術的な発掘が行われない。讃岐では一宮の田村神社（名神大）や水主神社がこの皇女を祭神としており、大和の説話上の人物が遠隔の地で厚く祀られている。",
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      "historicity_basis": "記紀の伝える事績は伊勢神宮の鎮座、埴輪の起源、相撲の起源といずれも起源譚の性格が強く、史実の記録とは考えにくいとされてきた。他方、水野祐の三王朝交替説は崇神・垂仁・景行を「イリ」の名をもつ古王朝の系列として一括するが、外部史料による確認はない。",
      "role": "秩序化",
      "description": "皇后サホビメが兄サホビコの反乱に加わり、兄とともに死ぬ悲劇が語られる。皇女ヤマトヒメに天照大神の祭祀を託し、ヤマトヒメが各地を巡って伊勢に鎮座させたと伝えられる。野見宿禰が当麻蹴速を破った話と、殉死に代えて埴輪を立てさせた話をもつ。祭祀と葬制の由来を集める代である。",
      "worship": "伊勢神宮の起源を語る倭姫命の巡行伝承の中心に置かれる天皇である。倭姫命自身は1923年（大正12年）に内宮別宮の倭姫宮が創建されて初めて社をもった。天皇自身を祭神とする社は乏しく、この代に集められた祭祀・葬制の起源譚が後代の制度の根拠として繰り返し参照された。",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "「タラシヒコ」という称号要素が7世紀の舒明・皇極らの和風諡号と共通することから後世の造作とみる指摘がある一方、「オシロワケ」の部分は固有名らしいとして古い伝承を認める見方もある。水野祐の三王朝交替説では古王朝の末期に位置づけられるが、同時代の外部史料はない。",
      "role": "征服",
      "description": "ヤマトタケルの父。日本書紀では自ら九州に遠征して熊襲・土蜘蛛を討ち、東国の平定を子に命じる。多数の皇子女をもち、各地の国造の祖に系譜を分岐させる。常陸国風土記・豊後国風土記・肥前国風土記にはこの天皇の巡幸として語られる地名起源譚が多く収められる。九州巡幸を古事記は一切記さず、遠征の物語をすべてヤマトタケルに集約する点が最大の相違である。",
      "worship": "常陸・豊後・肥前などの風土記に巡幸伝承が多数残り、各地の地名起源として語り継がれた一方、この天皇自身を祭神とする社は限られる。伝承の広がりと祭祀の薄さが対照をなす。",
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        "日本武尊",
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      "form_nihonshoki": "日本武尊（初名 小碓尊、日本童男）",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "古事記の伝える景行天皇との親子関係が系図上矛盾することなどから、4世紀から7世紀ごろの複数のヤマトの英雄を統合した架空の人物とする説が有力である。他方、宋書倭国伝が伝える倭王武の478年上表文の「東は毛人を征すること五十五国」という文言が四道将軍やヤマトタケル説話に対応するとみて、5世紀前期にはこの説話が成立していたと推定する立場もある。",
      "role": "征服",
      "description": "父の命で熊襲を討ち、その首長から「タケル」の名を贈られる。続いて東国に遣わされ、草薙剣と火打石で野火の難を逃れ、走水の海ではオトタチバナヒメの入水によって渡海する。帰路、伊吹山の神に敗れて能煩野で死に、白鳥となって飛び去る。常陸国風土記は倭武天皇の名で巡行を語り、古事記が悲劇の主人公として描くのに対し日本書紀は国家的必要に基づく派遣として描く。",
      "worship": "尾張の熱田神宮は延喜式神名帳に名神大として載り、草薙剣を神体とする。中世以来、熱田大神を天照大神とするか日本武尊とするかで説が分かれ、近代に熱田大神を草薙剣に宿る天照大神とし、日本武尊を相殿神とする整理が定着した。和泉の大鳥大社は白鳥伝承にちなむ名神大社で、近江一宮の建部大社とともに近代の社格制度で官幣社に列した。",
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      "name": "成務天皇",
      "name_en": "Emperor Seimu",
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        "稚足彦天皇"
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      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "記紀の伝える事績は国郡・県邑を定め造長・稲置を任じたという一事に尽き、これは4世紀の実態とは考えにくい後代の律令的行政区画の投影とみられている。「タラシヒコ」型の称号が7世紀の天皇と共通する点も後世の造作を示す論拠とされ、実在性の低い天皇の一人に数えるのが戦後史学の大勢である。",
      "role": "秩序化",
      "description": "ヤマトタケルの異母兄弟で、志賀高穴穂宮で即位したと伝えられる。諸国に令して国郡・県邑の境を定め、造長・稲置を置いたとされるが、それ以外の事績を欠く。地方行政の起源を過去に投影する位置を占める。",
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      "name": "仲哀天皇",
      "name_en": "Emperor Chūai",
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        "帯中日子天皇",
        "足仲彦天皇",
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      "form_nihonshoki": "足仲彦天皇",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "父をヤマトタケルとする系譜自体が伝説的であり、成務からの継承にも世代上の不整合がある。津田左右吉は神代から仲哀までを史実としての資料的価値を欠くとし、その結論は戦後史学の基礎となった。",
      "role": "犠牲",
      "description": "ヤマトタケルの子とされ、熊襲討伐のため筑紫に赴く。神が皇后に憑いて新羅を討てと告げるが、これを信じずに琴を弾くのをやめ、まもなく急死する。神託を拒んだ王が斃れ、その死が皇后による渡海の前提となる構図を担う。",
      "worship": "筑前の香椎宮は延喜式神名帳に載らず、神社ではなく香椎廟として朝廷の奉幣を受ける別格の扱いを与えられた。明治に官幣大社に列し、神功皇后とともに祀られる。八幡宮では応神・神功と並んで祭神に加えられる例が多い。",
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      "historicity_basis": "津田左右吉は三韓征伐の物語を6世紀ごろに形成された伝説とみ、直木孝次郎は斉明天皇や持統天皇を造形の下敷きとする説を唱えた。日本書紀が神功紀に魏志倭人伝の記事を引いて暗に卑弥呼に重ねる点は、紀年を中国史書に合わせるための編纂上の措置とみるのが現在の通説である。",
      "role": "媒介",
      "description": "仲哀天皇の后。神託を受けて夫の死後に軍を率い、身重のまま海を渡って新羅を降し、百済・高句麗も従えたと伝えられ、帰還後に応神を生んで長く政を執る。日本書紀は神功に一巻を与えて摂政として紀年を立て、歴代に準じて扱う。一方でその造形の核は、神の言葉を受けて託宣を告げる巫女的な性格にある。肥前国風土記にも息長足比売命の名で巡行の記事が見える。",
      "worship": "住吉大社の第四本宮と宇佐神宮の第三殿に祀られ、八幡信仰の中核をなす祭神の一に数えられる。1881年（明治14年）に日本で最初の肖像入り紙幣の図柄に採られ、近代の国民的な図像となった。1926年（大正15年）の皇統譜令により歴代天皇から外され、日本書紀が一巻を与えた扱いと近代の位置づけとが分かれることになった。",
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      "historicity_basis": "景行から仁徳までの五代に仕えたとされ没年齢を280歳から360歳余とする諸伝があるなど、単独の人物としての実在は成り立たず、蘇我・葛城・巨勢・平群・紀など有力氏族の共通の祖として7世紀後半ごろに造形された人物とする説が有力である。竹内文書がこの人物を家の由来に据える点は、狩野亨吉の鑑定以来、文書の権威づけの装置とみられている。",
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      "description": "5代の天皇に仕えたとされる大臣。神功皇后の渡海を助け、応神の養育にかかわり、弟ウマシウチノスクネの讒言を退ける盟神探湯の説話をもつ。古事記によれば27氏の祖とされ、複数の有力氏族の系譜を一点に束ねる結節点として機能する。竹内文書は、その孫の平群真鳥が神代文字の原文を漢字に改め、子孫である竹内家が伝えたと記し、この人物を文書の伝来を保証する起点に据える。",
      "worship": "因幡国一宮の宇倍神社は延喜式神名帳に名神大として載り、武内宿禰を祭神としてその終焉の地とする伝承をもつ。越前の気比神宮にも配祀される。明治期以降、この人物の肖像は複数の紙幣の図柄に用いられ、宇倍神社の社殿が描かれた券種もある。",
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        "誉田天皇",
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      "role": "始祖",
      "description": "母神功皇后の渡海中に胎内にあり、帰還後に筑紫で生まれたと伝えられる。百済からの渡来と技術・文物の受容にかかわる記事が集中し、河内に宮と陵を営む。播磨国風土記には品太天皇の名で巡行の記事が多く見える。応神以前と以後で王権の性格が変わるとみる王朝交替説の分節点に置かれる天皇である。",
      "worship": "平安期までに八幡神と同一視され、豊前の宇佐神宮を本源として石清水八幡宮・鶴岡八幡宮など全国に八幡宮が広がった。八幡神は八幡大菩薩と称されて神仏習合の典型をなし、その本地を阿弥陀如来とする説が一般に行われた。明治の神仏分離で石清水では男山の護国寺以下の仏教施設が全廃され、社僧は還俗し、八幡大菩薩の称も公には用いられなくなった。",
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      "historicity_basis": "津田左右吉・直木孝次郎は民のかまどに代表される仁政説話を中国の聖王伝説に由来する潤色とみるが、宋書倭国伝の倭王讃または珍に比定する説があり、5世紀前半の大王としての実在は否定されない。陵に治定される大仙陵古墳は墳丘長525メートルで5世紀中葉の築造とされ、被葬者の確証はないもののこの時期に巨大な王権が存在したことは考古学的に確かである。",
      "role": "秩序化",
      "description": "難波高津宮に都し、民の竈から煙が立たないのを見て3年間課役を止めたと伝えられる。茨田堤の築造など治水・開発の記事をもち、皇后イワノヒメの嫉妬をめぐる歌物語で知られる。播磨国風土記には大雀天皇の名が見える。民のかまどの説話を日本書紀が仁政の範型として整えるのに対し、古事記は人間的な葛藤の側から描く。",
      "worship": "大阪の高津宮が仁徳天皇を祀り、難波の宮の伝承地とされる。各地の若宮八幡宮は、応神の子として大鷦鷯尊を祭神とする例が多い。堺の大仙陵古墳は仁徳天皇陵として治定されているが被葬者は確定しておらず、近年は大山古墳などの考古学上の名称が併記される。",
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      "historicity_basis": "三国志魏書東夷伝倭人条（魏志倭人伝）が同時代の外部史料として、239年の遣使と親魏倭王の金印紫綬の授与、247年の狗奴国との抗争、247年から248年ごろの死と径百余歩の冢の造営を記す。記紀は卑弥呼の名を一切記さないが、日本書紀は神功皇后紀に魏志の記事を引用して暗に重ねている。",
      "role": "媒介",
      "description": "魏志倭人伝が伝える邪馬台国の女王。鬼道を事として衆を惑わし、姿を見せず、弟が補佐して国を治めたとされ、魏に遣使して親魏倭王の称号を受けた。古事記・日本書紀はいずれも卑弥呼の名を記さないが、日本書紀は神功皇后紀の分注に魏志の記事を引き、名を挙げないまま神功の治世を魏の年号に対応させている。この引用は紀年を中国史書に合わせるための編纂上の措置とみられ、記紀の紀年操作を検討する際の主要な材料となっている。",
      "worship": "記紀に名がなく、神社に祀られた形跡もない。近代以降、天照大神・神功皇后・倭迹迹日百襲姫命などに比定する説が繰り返し提出されたが、いずれも定説となっていない。祭祀の対象ではなく比定の対象として受容されてきた人物である。",
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      "name": "雄略天皇",
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      "historicity_basis": "埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「獲加多支鹵大王」とあり、辛亥を471年とみて記紀の伝えるワカタケル（大長谷若建命／大泊瀬幼武）に比定するのが通説である。熊本県江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀の読みもこれに合わせて改められ、宋書倭国伝の倭王武との比定も整合的で、同時代の金石文と外部史料の双方が一致する数少ない例である。",
      "role": "征服",
      "description": "記紀は兄弟や従兄弟を次々に討って皇位に就いた強暴な大王として描き、日本書紀は大悪天皇と有徳天皇の2つの評語を並べて記す。宋書の伝える倭王武の上表文は東西と海北への征服を誇り、5世紀後半の広域支配の実像を伝える。関東と九州から同一の大王名を刻む金石文が出たことにより、記紀の伝承と同時代史料が結び付いた分節点にあたる。播磨国風土記にも大泊瀬天皇の名で記事が見える。",
      "worship": "この天皇自身を祭神とする社は乏しい。葛城で一言主神と遭遇する説話は大和国葛上郡の葛木坐一言主神社（名神大）の縁起と結びつき、続日本紀や日本霊異記が一言主を土佐へ流されたと伝えることから、土佐国の都佐坐神社の祭神をめぐる伝承にもつながっている。",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "水野祐は1954年に継体を新王朝（越前王朝）の創始者とする三王朝交替説を提示し直木孝次郎らが支持したが、1960年代に坂本太郎らが『上宮記』逸文の史料性を根拠に反論した。陵に治定される太田茶臼山古墳ではなく6世紀前半最大級の今城塚古墳を真の継体陵とみるのが歴史学・考古学界の定説であり、この点では実在と年代がほぼ確かめられている。",
      "role": "簒奪",
      "description": "武烈天皇に後嗣がなく、越前（または近江）から迎えられて即位したと伝えられる。河内の樟葉宮で即位した後、筒城宮・弟国宮を経て、即位から19年を経てようやく大和の磐余玉穂宮に入る。先帝の姉妹にあたる手白香皇女を皇后として皇統への接続を確保する。血統の連続が最も薄い箇所で王位が継承された事例として、万世一系の議論の焦点に立つ。",
      "worship": "越前では福井の足羽神社や坂井の三国神社が継体天皇を祀り、治水開発の伝承と結びついて在地の信仰を集めた。陵は大阪の太田茶臼山古墳に治定されているが、考古学的には近接する今城塚古墳を実際の墓とみる説が有力で、治定を外れた今城塚は発掘調査が可能な大王墓として資料を提供している。",
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      "name": "厩戸皇子",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘（623年の紀年をもつ）や天寿国繡帳銘など近接時期の資料が上宮法皇の存在を伝え、人物の実在自体は疑われていない。大山誠一は1999年以降、事績の大半と聖人化が日本書紀編纂を通じて造作されたとする説を提起したが、これは実在の否定ではなく事績と信仰の後代形成を論じるもので、賛否が続いている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、仏教興隆を担ったと日本書紀は伝える。古事記は推古段に上宮之厩戸豊聡耳命の名を系譜として挙げるにとどまり、事績を記さない。実在は近接時期の金石・工芸資料により裏づけられるが、聖徳太子という像は751年成立の懐風藻を初見とする呼称を含めて後世に形成されたものである。記紀の人物像がどこまで同時代の実像かを問う試金石にあたる。",
      "worship": "法隆寺の聖霊院と四天王寺の聖霊会を中心に太子信仰が展開し、中世には救世観音の垂迹とする理解が広まった。河内の叡福寺は磯長墓を守る太子廟として近世に諸宗の参詣を集め、大工・木工などの職人は太子を祖神とする太子講を営んだ。1930年の百円券から1984年まで7種の紙幣に肖像が用いられ、近代を通じてもっとも広く流通した歴史上の人物像となった。",
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      "name": "天地身一大神",
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      "historicity_basis": "狩野亨吉が1935年に鑑定を依頼された5点をすべて偽造と判定し、1936年6月号『思想』（岩波書店）に「天津教古文書の批判」を発表して以来、竹内文書の神統譜は近代の造作とみるのが学界の判断である。原田実・長谷川亮一らは、この神統譜が19世紀末以降の西洋オカルト文献（ムー大陸説など）の知識を前提とする点を近代成立の指標とする。",
      "role": "創造",
      "description": "竹内文書が宇宙開闢の最初に置く神で、皇祖皇太神宮は「宇宙開闢の神皇 天地身一大神（元無極體主王御神）」と記す。この神から天神七代が展開し、以後の天皇系列へ接続するという枠組みをとる。記紀の造化三神に相当する位置を占めるが、名称・性格ともに記紀とは別系統の語彙で構成される。",
      "worship": "竹内巨麿が茨城県磯原に開いた皇祖皇太神宮が神統譜の首位に置く神で、記紀系の神社にこの神名を祀る例はない。1936年の不敬罪起訴に伴う捜索で神宝や文書の多くが押収され、戦災も加わって原資料の大半は現存しない。1944年に無罪が確定したのち、戦後も同宮で祭祀が続けられている。",
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    {
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      "name": "天日豊本葦牙気皇主身光大神",
      "name_en": "Amehi-Toyomoto-Ashikabi-Kiminushi-Mihikari-no-Ōkami",
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        "天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇",
        "あめひとよもとあしかびきみぬしみひかりおおかみ"
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      "historicity": "創作された存在",
      "historicity_basis": "狩野亨吉「天津教古文書の批判」（『思想』1936年6月号）による偽造判定と、使用される神代文字が上代特殊仮名遣（橋本進吉が1917年に石塚龍麿『仮名遣奥山路』を再評価して学界に知らせた甲乙の書き分け）を反映しない事実が、近代の造作とする判断の中心的根拠である。",
      "role": "始祖",
      "description": "竹内文書における天神七代の最終代とされる神で、皇祖皇太神宮の由来書は「天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇」と天皇号を付して記す。同宮はこの神から26朝1,168代を経て神武朝の現代の天皇に至ると説明する。神名は記紀の生成神ウマシアシカビヒコヂの「葦牙」と、竹内文書に頻出する「身光」の語を接合した長大な尊号である。竹内文書は神代を天神七代・上古25代・不合朝73代・神倭朝の四段に区分し、これをいずれも天皇号をもつ統治者の系列として記す。",
      "worship": "皇祖皇太神宮の由来書が天皇号を付して記す神で、同宮の神統譜のほかに祭祀の場をもたない。竹内文書が説く超古代の天皇系列は1930年代に酒井勝軍・山根キクらの著作を通じて一定の読者を得たが、狩野亨吉が1936年に発表した批判をはじめ、学界では早くから偽作とみられてきた。",
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      "name": "伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇",
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        "上古第21代天皇"
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      "historicity": "創作された存在",
      "historicity_basis": "竹内文書全体に対する狩野亨吉の偽造判定（1936年）が及ぶ。記紀の神名を天皇号に転写する手法そのものが、記紀を前提として後から組み立てられたことを示すと原田実らは指摘する。",
      "role": "始祖",
      "description": "竹内文書が上古25代の第21代として記す天皇で、記紀のイザナキに相当する位置に置かれる。その子として月向津彦月弓命や須佐之男命が挙げられ、記紀の神々が歴代天皇の皇子女として系列に組み込まれる。上古25代はいずれも「身光天津日嗣天日天皇」型の長大な尊号をもち、第10代を高皇産霊身光天津日嗣天皇、第24代を天仁仁杵身光天皇とするなど、記紀の神名を天皇号に組み替えた名が並ぶ。神話を王朝史として読み替える竹内文書の方法が、もっとも明瞭に現れる箇所である。",
      "worship": "祀られる例はなく、皇祖皇太神宮の由緒と竹内文書の刊本の中にのみ現れる。1930年代の流布ののち天津教への弾圧で退潮し、1970年代の超古代史ブームで再び出版市場に流通した。記紀の神名を天皇の尊号へ組み替える手法は、以後の古史古伝の紹介書でくり返し引用されている。",
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      "name": "万国巡知彦尊",
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      "historicity": "創作された存在",
      "historicity_basis": "竹内文書に固有の人物で他史料に対応がなく、同書全体に対する狩野亨吉の偽造判定（1936年）が及ぶ。",
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      "description": "竹内文書は、不合朝64代の時代に74人の皇子女が世界を巡幸したと記し、その長を万国巡知彦尊とする。同書はこの人物を桃太郎説話の原型と説明する。近世以来の昔話を超古代の史実へ遡らせる操作の一例である。",
      "worship": "祭祀は行われていない。世界を巡幸した皇子女という設定は戦前の竹内文書の講演・出版で語られ、桃太郎の原型とする説明は戦後の超古代史関係の書物に受け継がれた。吉備津彦を桃太郎に結ぶ岡山の伝承とは系統を異にする。",
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      "name": "イスキリス・クリスマス",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "ナザレのイエスの歴史的実在は、タキトゥス『年代記』やヨセフスなど近接時代の外部史料により、歴史学上ほぼ争われていない。ただし竹内文書が記す来日と青森県での埋葬は、狩野亨吉の鑑定（1936年）以来の偽作判定の対象であり、これを裏づける史料は存在しない。",
      "role": "媒介",
      "description": "竹内文書は、イエス・キリストは十字架で死なず日本へ渡り、青森県の十来塚がその墓であると記す。同書は世界の宗教指導者がいずれも来日して天皇に仕えたとする体系をとり、その一例としてこの人物を置く。世界の宗教史を日本の天皇統治の下に位置づける枠組みが、この記述の機能である。",
      "worship": "青森県新郷村（旧戸来村）の十来塚は、1935年に竹内巨麿が同村の大石神社を訪れた際にキリストの墓と認定したことに始まる。村は1964年に一帯をキリストの里公園として整備し、毎年6月のキリスト祭は宗教行事というより地域の年中行事として続いている。20世紀に外から与えられた由緒が在地の祭りとして定着した例にあたる。",
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      "name": "モーセ",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "旧約聖書外の同時代史料がなく、歴史的実在の検証手段を欠くとするのが現在の聖書学・古代オリエント史の一般的な立場である。竹内文書が記す来日と石川県での埋葬については、狩野亨吉の鑑定以降、裏づけとなる史料は確認されていない。",
      "role": "媒介",
      "description": "竹内文書は、モーセが来日して天皇から十戒の石板を授かり、石川県に墓があると記す。皇祖皇太神宮は「モーセの神石」と称する品の写真を公開している。世界の律法の起源を日本の天皇に帰する記述であり、イエスやほかの教祖の来日伝承と同じ枠組みに置かれる。",
      "worship": "石川県宝達志水町の三ツ子塚古墳群の一つがモーゼの墓とされ、1960年代に地元が公園として整備した。竹内文書の記述を受けて後から与えられた由緒であり、古墳そのものは在地の埋葬遺構である。皇祖皇太神宮はモーセの神石と称する品を伝えると説明する。",
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      "name": "釈迦",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "ゴータマ・シッダールタの実在は、初期仏教文献と阿育王碑文などの傍証により仏教学上ほぼ承認されている。竹内文書が記す来日は、同書全体に対する狩野亨吉の偽造判定の範囲に含まれ、裏づけとなる史料はない。",
      "role": "媒介",
      "description": "竹内文書は釈迦が来日して天皇に仕えたと記す。皇祖皇太神宮の説明では、イエス・釈迦・マホメット・老子・孔子ら世界の宗教の祖がいずれも古代日本の天皇のもとを訪れたとされる。個々の教祖の伝記ではなく、世界の諸教が日本を源とするという主張の一部として置かれている。",
      "worship": "日本では釈迦如来として古代以来ひろく造像・供養されてきたが、竹内文書が記す来日した釈迦はそれとは別の枠組みに属し、皇祖皇太神宮の由緒書の中にのみ現れる。この人物としての個別の祭祀の場はない。",
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      "name": "マホメット",
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        "ムハンマド"
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "ムハンマドの実在は、7世紀の非イスラーム側史料を含む複数系統の記録により歴史学上承認されている。竹内文書の来日記事については裏づけとなる史料がなく、同書全体に対する偽作判定の対象である。",
      "role": "媒介",
      "description": "竹内文書は、マホメットもまた来日して天皇のもとを訪れたと記す。皇祖皇太神宮が挙げる来訪者の一覧に含まれる一人であり、五色人（黄人・赤人・青人・黒人・白人）という世界人類の区分とあわせて、日本を世界の中心に置く体系の一部をなす。",
      "worship": "祭祀は行われていない。世界の宗教の祖がいずれも来日したとする竹内文書の記述の一部として名が挙がるにとどまり、1930年代の流布と1970年代の再刊を通じて紹介されてきた。",
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      "name": "平群真鳥",
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      "kind": "氏族祖",
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      "form_nihonshoki": "平群臣真鳥",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "日本書紀は雄略・仁賢朝の大臣とし武烈即位前紀に一族の滅亡を記すため、6世紀前後の大臣層の一人としての実在は想定されうるが、同時代の金石文による確認はない。竹内文書がこの人物を神代文字文書の翻訳者とする点については、神代文字そのものが近世以降の作とするのが学界の通説であり、裏づけを欠く。",
      "role": "媒介",
      "description": "竹内文書は、武烈天皇の勅により武内宿禰の孫である平群真鳥が神代文字の原文を漢字カタカナ交じり文へ翻訳したと記し、竹内家をその子孫とする。日本書紀では雄略・仁賢朝の大臣として権勢を振るい武烈即位前に一族もろとも滅ぼされる人物である。竹内文書はこの実在の可能性がある人物を、文書の伝来を保証する結節点として用いる。偽書がみずからの由来を説明するために、正史の登場人物を接点に選んだ例である。",
      "worship": "日本書紀が記す一族の滅亡以後、この人物を祀る社は知られない。竹内文書は竹内家の系譜の起点にこの人物を置き、皇祖皇太神宮の由緒書は神代文字から漢字交じり文への翻訳者としてその名を掲げる。正史の登場人物を偽書の伝来の保証に用いる構成が、近代の受容においても文書の由緒として機能した。",
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      "name": "アラハバキ",
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        "荒吐神",
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        "荒覇吐",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "東北・関東の複数の社に荒脛巾神を祀る例があり、脛巾の神・足の神、また客人神や塞の神としての性格が近世以前から確認される。他方、アラハバキを縄文の神・蝦夷の神とし遮光器土偶をその姿とする理解は、和田喜八郎による戦後の偽作であることが確定した東日流外三郡誌の刊行以後に広まったもので、同書がその震源とされる。",
      "role": "始祖",
      "description": "東日流外三郡誌は、津軽の諸族が混血して成立した荒羽吐族の神としてアラハバキを記し、遮光器土偶の図を掲げてその姿とする。実際の民俗としては、脛に佩く脛巾の神や客人神・塞の神として東北・関東の各地の社に祀られてきた古い信仰であり、本来は主神であったものが客人神へ転じたとする説もある。アラハバキを縄文の神・蝦夷の神とし遮光器土偶をその姿とする理解は同書の刊行以後に広まったもので、古い信仰の名と戦後の偽書が与えた新しい像とが重なって現在の知名度を形づくっている。",
      "worship": "延喜式神名帳にこの神名を冠する社の記載はなく、宮城県多賀城市の荒脛巾神社のように脚の病に効くとして草鞋を奉納する在地の信仰として伝えられてきた。埼玉県の氷川神社の門客人神社はもと荒脛巾神社と称したと伝わり、主神の位置から客人神へ移った例とされる。縄文の神・蝦夷の神とし遮光器土偶をその姿とする理解は、東日流外三郡誌が1975年の『市浦村史 資料編』に収録されて以後に広まったもので、1990年代の真贋論争を経てなお一般の知名度はこの像に支えられている。",
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      "name": "安日彦",
      "name_en": "Abihiko",
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      "kind": "氏族祖",
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      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "古事記・日本書紀に名がなく、初出は『曽我物語』の「蝦夷の祖を流罪にされた鬼王安日」で、文献学的には「安日長髄彦」という一体の名で同一人物とする記録の方が古い。秋田氏系図や永正年間の藤崎系図が安日彦を祖とするが、これらは『曽我物語』の影響下に書かれた系図とされる。",
      "role": "始祖",
      "description": "東日流外三郡誌は、安日彦を長髄彦の兄とし、大和での戦いに敗れた兄弟が津軽へ落ち延びたと記す。両者は渡来した郡公子一族の娘と婚姻し、その子孫が荒羽吐族として津軽を統治したとされる。中世の『曽我物語』以来の蝦夷始祖伝承を、東北の独自王朝という枠組みへ再編した位置に立つ人物である。記紀に安日彦の名はなく、長髄彦の兄という設定は記紀の敗者に血縁の始祖を追加する操作にあたる。",
      "worship": "記紀に名がなく、古代・中世を通じて祀られた形跡は確認されない。東日流外三郡誌の流布とともに津軽の始祖として語られるようになり、1970年代以降、青森県内では地域の由緒として受け入れる動きと史料批判の立場から退ける動きが並存してきた。",
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      "name": "安倍頼時",
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      "kind": "氏族祖",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "『陸奥話記』および『扶桑略記』など同時代に近い記録に前九年の役の当事者として現れ、実在が確認される。他方、安倍氏を安日彦・長髄彦の子孫とする系譜は中世以降の系図に現れるもので、史料上の裏づけを欠く。",
      "role": "始祖",
      "description": "陸奥国奥六郡の俘囚長として半独立の勢力を築き、1051年に鬼切部で国府軍を破り、天喜5年（1057年）に鳥海柵で没した。子に貞任・宗任らがあり、孫に奥州藤原氏初代の藤原清衡がいる。事績は『陸奥話記』など同時代に近い記録に伝えられる。東日流外三郡誌はこの実在の一族を荒羽吐族の後裔として位置づけ、超古代の系譜と中世東北の政治史を接続する結節点に据える。",
      "worship": "安倍氏を祀る社は乏しいが、岩手県金ケ崎町の鳥海柵跡が国史跡として整備されるなど、前九年の役に関わる遺跡の保存は近年に進んだ。奥州藤原氏へ連なる系譜は中尊寺を中心とする平泉の由緒のなかで語り継がれてきた。東日流外三郡誌はこの実在の一族を荒羽吐族の後裔に位置づけ、20世紀後半の東北の地域史の語りに影響を与えた。",
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      "description": "安倍頼時の次男。父の戦死後に家督を継ぎ、弟宗任とともに源頼義・清原氏の連合軍と戦い、1062年に厨川で討たれた。事績は『陸奥話記』に前九年の役の中心人物として詳しく記される。中央に敗れた東北の代表的人物として後世に語り継がれ、東日流外三郡誌は貞任を荒羽吐族から安東氏へ至る系譜の要に置く。記紀の敗者ナガスネヒコと中世東北の敗者である貞任とを一つの血統に連ねる点が、同書の構成上の核心である。",
      "worship": "岩手県には貞任高原など名を冠する地名が残り、盛岡の厨川一帯には前九年の役の伝承地が伝えられる。中央に敗れた側の武将として東北で語り継がれ、近代以降は地域の顕彰の対象となった。東日流外三郡誌はこの人物を荒羽吐族から安東氏へ至る系譜の要に置き、戦後の東北独自史の語りの中心に据えた。",
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      "description": "安倍貞任の子とされ、津軽に逃れて安東氏の祖になったと系図に記される人物。東日流外三郡誌はこの系譜を採り、安日彦・長髄彦から荒羽吐族、安倍氏、安東氏、十三湊の繁栄へと続く一本の物語を構成する。実在の検証手段を欠く人物が、超古代と中世を橋渡しする位置に置かれている。",
      "worship": "祀られた形跡はなく、中世以来の安東氏系図に祖として名が現れるにとどまる。東日流外三郡誌はこの系譜を採り、超古代と中世東北とを接続する結節点に用いた。",
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      "historicity_basis": "ホツマツタヱは18世紀後半、和仁估安聡による成立とみるのが学界の通説で、江戸期以降の語彙、上代特殊仮名遣に対応しない5母音体系、上代に存在しない撥音「ん」の使用がその根拠である。松本善之助以降の肯定派が主張する記紀原典説は学界では支持されておらず、男神アマテルという人物像は18世紀後半の同書が作り出したものとして扱う。",
      "role": "秩序化",
      "description": "ホツマツタヱは、記紀のアマテラスに相当する存在を8代アマカミのアマテルカミとし、斎名をワカヒトとする男神として記す。外祖父トヨケからアメノミチを学び、ソフキサキ（十二后）の制を定め、暦を改め、カガミを加えてミクサタカラを創設し、晩年にサコクシロへ遷って崩御したとされる。神を統治者として、神話を制度史として書き直す同書の方法が、この人物像に集約されている。記紀の記述を否定するのではなく、記紀がその原型を改変したのだとする主張の形をとる。",
      "worship": "ホツマツタヱを伝える写本は江戸中期のものが最も古く、1966年に松本善之助が古書店で見出して以後、研究会と刊本を通じて読者を広げた。この神名で祭祀を行う社は近代以前には確認されず、現在アマテルの名を掲げる例は同書の受容以後に生じたものである。記紀を否定せず、記紀がこの原型を改変したのだとする主張の形をとる点が、戦後の受容を支えた。",
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      "historicity_basis": "古事記・日本書紀に名がなく、大祓詞に祓戸の神として現れるのが古い所出である。アマテルの正后という位置づけは18世紀後半に成立したホツマツタヱに固有のもので、廣田神社の由緒書など神社側の伝承とは別系統の情報として扱う必要がある。",
      "role": "媒介",
      "description": "ホツマツタヱは、サクラウチの娘ホノコが南の典侍から内宮すなわち正后へ昇り、オシホミミを生んだと記す。名は大祓詞で穢れを大海原へ持ち出す祓戸の神と同一の存在として説明される。記紀が名を挙げない神を、皇統の母という中心に据え直した点にこの人物の位置がある。",
      "worship": "瀬織津比咩は延喜式巻八の大祓詞に祓戸の神として現れ、近江国栗太郡の佐久奈度神社が祓戸の神を祀る社として延喜式神名帳に名神大で載る。伊勢内宮別宮の荒祭宮の祭神をこの神とする説は中世の神道書に見える一方、明治期には各地の社で祭神表記が別の神へ改められた例がある。20世紀後半以降、記紀から消された女神という語り方が広まり、ホツマツタヱの受容と精神世界系の出版とが重なって現在の知名度を形づくっている。",
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      "historicity_basis": "豊受大神は古事記に豊宇気毘売神として、また丹後国風土記逸文に現れる食物神で、伊勢外宮の祭神として中世の伊勢神道が高い位置を与えた経緯がある。5代タカミムスビ・アマテルの外祖父という男神としての位置づけは、18世紀後半に成立したホツマツタヱに属し、記紀には対応しない。",
      "role": "秩序化",
      "description": "ホツマツタヱは、トヨケを5代タカミムスビ、斎名タマキネとし、東の君として統治した男神と記す。娘イサコをタカヒトに配してアマテルが生まれ、トヨケは孫のアマテルにアメノミチを授けた。宮津のマナヰに没し伊勢外宮に祀られるとされ、外宮の祭神を内宮に先立つ教えの源に置く構図をとる。記紀では性別を明示しない食物神である豊宇気毘売神を男神かつアマテルの外祖父とする再解釈であり、外宮を内宮の上位に置く伊勢神道以来の主張と同じ方向を向く。",
      "worship": "伊勢の豊受大神宮（外宮）が主要な祭祀地で、丹後の籠神社と比沼麻奈為神社は外宮の元の鎮座地を称する。鎌倉期以降の伊勢神道（度会神学）は外宮の祭神を内宮に先立つ根源の神とし、外宮先祭の慣行とあわせて内宮に対する地位を主張した。ホツマツタヱがトヨケをアマテルの外祖父かつ教えの授与者とするのは、この主張と同じ方向を向く再構成である。",
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      "historicity": "創作された存在",
      "historicity_basis": "記紀のヒルコは葦船で流される第一子として名のみが記され、その後の物語をもたない。成長・和歌・婚姻の物語は18世紀後半に成立したホツマツタヱに属し、稚日女尊や下照姫といった別系統の神名を一人格に統合した造形である。",
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      "description": "ホツマツタヱは、ツクバのイサ宮で昼に生まれたためヒルコと名づけられ、父母の厄年に当たるため3歳の年にイワクス船で流されたと記す。カナサキ夫妻に拾われて育ち、和歌と八雲琴の名手となり、押草による虫祓いの教えを伝え、アチヒコと結婚してタジカラヲを生む。記紀が捨て子として一行で終える存在に、文化の伝授者としての生涯を与えている。",
      "worship": "蛭子は中世に夷神と同一視され、摂津の西宮神社を本社として全国の恵比須信仰が広がった。稚日女尊は延喜式神名帳に載る摂津の生田神社の祭神であり、紀伊の玉津島神社も和歌の神の一座としてこの名を挙げる。ホツマツタヱが与える和歌の祖という像は、この和歌神としての受容と重なりながら20世紀後半の同書の流布を通じて広まった。",
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      "historicity": "創作された存在",
      "historicity_basis": "天日方奇日方命は先代旧事本紀・新撰姓氏録などに三輪氏系の祖として見える名で、ホツマツタヱはこれを同書前編の編者に充てる。編者を作中の人物に帰する構成そのものは、同書の成立を18世紀後半とみる学界の判断を左右しない。",
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      "description": "ホツマツタヱは、クシミカタマをオオナムチの孫、ツミハとタマクシヒメの子とし、阿波へ向かうワニ船の中で生まれたと記す。オオモノヌシの職を継ぎ、タケヒトすなわち神武の右臣として大嘗の祭に奉仕したとされる。同書は1アヤから28アヤまでの前編をクシミカタマの編とし、29アヤ以下をオオタタネコの編と記して、作中人物を編纂者に据える。先代旧事本紀・新撰姓氏録に三輪氏系の祖として見える天日方奇日方命の名を、編者として引き当てたものである。",
      "worship": "先代旧事本紀と新撰姓氏録は天日方奇日方命を三輪氏・鴨氏の祖に置き、大神神社を奉斎する氏族の系譜の起点とする。ホツマツタヱがこの名を前編の編者に当てるのは、既存の氏族系譜から編纂者を選び出す操作であり、1966年以後の同書の研究のなかで作中人物として論じられてきた。",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "『吾妻鏡』に源頼朝の「無双の寵仁」として現れ、建久7年（1196年）の豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行の任官が記録される実在の御家人である。上記の序が記す貞応2年（1223年）の編纂については同時代の裏づけがなく、実際の偽作者を豊後の吉良義風とする説が有力視されるほか、発見者とされる幸松葉枝尺の関与も論じられる。",
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      "description": "承安2年（1172年）に生まれ貞応2年（1223年）に没した鎌倉初期の御家人で、豊後国守護・鎮西奉行を務め大友氏の祖となった。上記はこの人物が古文書をもとに同書を編纂したと序に記し、豊後という土地の由緒と結びつける。実在の地方領主を編纂者に据える手法は、竹内文書が平群真鳥を用いるのと同型である。同書が用いる豊国文字は学界で認められておらず、1223年の編纂という主張にも同時代の裏づけがない。",
      "worship": "豊後では大友氏の初代として近世以来顕彰され、大分に一族の菩提寺が残る。上記は1837年に幸松葉枝尺が発見したと称して世に出て、1877年の吉良義風『上記鈔訳』により流布し、明治期の国学者の一部が神代文字の実在の証として取り上げた。豊国文字も1223年編纂という主張も学界の支持を得ておらず、現在は近世後期の成立とみるのが通説である。",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "『史記』淮南衡山列伝は、始皇帝に東方三神山の不老不死の薬を進言し、童男童女3000人と百工を率いて船出し平原広沢を得て王となり帰らなかったと記す。日本渡来については学者の見解は懐疑的で、根拠を欠く虚構とする指摘があり、1982年に江蘇省で徐阜村が「徐福村」と呼ばれていたことが判明した件も村おこしとの見方がある。",
      "role": "媒介",
      "description": "宮下文書は、その中核部分を秦から渡来した徐福が筆録したものと記す。同文書系の記述では紀元前219年に始皇帝の命で蓬莱山を目指して出発し熊野に上陸、のち富士山麓の阿祖谷小室家基都に至って古代日本の記録を残したとされる。『史記』淮南衡山列伝は徐福が童男童女を率いて船出し平原広沢を得て王となり帰らなかったと記すが、日本渡来については学者の見解は懐疑的である。中国正史に載る渡来伝説上の人物を記録者として据えることで、文書に外部からの保証を与える構成である。",
      "worship": "和歌山県新宮市の徐福の墓は1736年に紀州藩によって墓碑が建てられ、現在は徐福公園として整備されている。佐賀市の金立神社は徐福を祭神の一に数え、50年に一度の御田祭を伝える。三重県熊野市波田須の徐福ノ宮など渡来伝承地は各地にあり、1980年代以降は日中の地域交流の資源として再編されてきた。",
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      "name": "神農",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "中国古代神話の三皇の一で、農具と五穀を教え百草をなめて医薬を開いたとされる農耕神・医薬神である。歴史的実在を想定する立場は中国史学にも日本史学にもなく、宮下文書が神農氏を日本の高天原の起点に置く記述は、幕末期の成立とみられる同書に固有の構想である。",
      "role": "創造",
      "description": "宮下文書系の記述は、高皇産霊神を諡「天之神農氏神」とし、その子である国狭槌尊が日本に上陸して富士山麓に止まり、そこを高天原としたと記す。以後、代々の天皇の即位式が阿祖山太神宮で行われたとされる。神農は中国古代神話の三皇の一で、農具と五穀を教え百草をなめて医薬を開いたとされる農耕神・医薬神である。中国の農耕神を日本の王権の起点に置くことで、東アジアの神話体系と日本の由緒とを一続きにする構図をとる。",
      "worship": "大阪道修町の少彦名神社は神農炎帝と少彦名命を祀り、薬種商の守護神として11月の神農祭に張子の虎を授ける。的屋・香具師の集団も神農を祖と称してきた。これらは中国由来の医薬・農耕神の信仰であって、宮下文書が高皇産霊神の諡として神農の名を用いる構成とは系統を異にする。",
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      "name": "宇摩志麻治命",
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      "kind": "氏族祖",
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      "historicity_basis": "物部連・穂積臣・采女臣の祖とされる神で、歴史的実在は想定されない。先代旧事本紀の天孫本紀がその事績と系譜をもっとも詳しく記し、鎌田純一以来この巻には他に代え難い氏族系譜の情報が含まれると評価される。",
      "role": "媒介",
      "description": "饒速日命と長髄彦の妹との子で、当初は長髄彦に従っていたが、神武の東征に際して長髄彦を殺して帰順したと記される。即位後は父の遺した十種の天璽瑞宝を献上し、それを用いて天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行い、これが鎮魂祭の起源とされる。日本書紀が長髄彦を殺すのを饒速日命自身とするのに対し、先代旧事本紀ではその子であるこの人物が殺害者となり、物部氏の始祖に帰順の功が集約される。石見国一宮物部神社は、美濃・越の平定ののち同国で没したと伝え、現在も鎮魂祭を伝える。",
      "worship": "石見国一宮の物部神社は延喜式神名帳に石見国安濃郡の社として載り、1871年に国幣小社、1925年に国幣大社へ列した。同社は現在も鎮魂祭を伝え、宇摩志麻治命がこの地で没したとする由緒を掲げる。大和の石上神宮が物部氏の祖神祭祀と武器の管理の中心であったのに対し、氏族の本宗が絶えたのちも石見でこの祖神の祭祀が続いた点に、氏族祭祀と在地信仰の分岐が現れている。",
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      "name": "履中天皇",
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        "伊邪本和気命",
        "去来穂別天皇",
        "大兄去来穂別尊",
        "伊射報和気命"
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      "kind": "伝承上の天皇",
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      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "宋書倭国伝の倭王讃を履中に比定する説が藤間生大らにより唱えられる一方、讃を仁徳または応神とする説も併存し、坂元義種が整理したとおり讃と珍の比定は決着していない。古事記が崩年干支を壬申と記す点も、432年に当たるとする理解を含めて文献内部の推算にとどまる。",
      "role": "継承",
      "description": "仁徳天皇の子で、難波の宮を焼かれて石上に逃れ、弟の住吉仲皇子の乱を鎮めたのち磐余稚桜宮に都したと伝えられる。日本書紀は諸国に国史を置き、蔵の出納を阿知使主らに管理させたと記し、記録と財の管理が王権の機能として現れる最初の記事群をこの代に置く。播磨国風土記には伊射報和気命の名で巡行の記事が見える。仁徳の子3人が相次いで即位する系列の最初に立ち、父子継承ではなく兄弟継承という王位継承の型を示す位置にある。",
      "worship": "陵は堺市の上石津ミサンザイ古墳が百舌鳥耳原南陵に治定されている。考古学的にはこの古墳の築造を仁徳陵とされる大山古墳より先行するとみる説が有力で、父から子へという記紀の順序と治定された陵の前後関係が一致しない。治定は幕末から明治にかけての行政上の判断であり、被葬者を確定する資料に基づくものではない。",
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      "name": "反正天皇",
      "name_en": "Emperor Hanzei",
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        "蝮之水歯別命",
        "瑞歯別天皇",
        "多遅比瑞歯別天皇"
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      "form_nihonshoki": "瑞歯別天皇（多遅比瑞歯別天皇）",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "宋書倭国伝が438年に遣使したと記す倭王珍を反正に比定する説と仁徳に比定する説が並び、藤間生大・坂元義種の検討でもいずれとも定まらない。反正紀は事績をほとんど記さず、津田左右吉以来、系譜の骨格のみが伝えられた天皇とみられている。",
      "role": "継承",
      "description": "履中天皇の同母弟で、丹比柴籬宮に都したと伝えられる。生まれながらに歯が一列にそろって美しかったことを名の由来とする記事のほかに事績はほとんどなく、日本書紀は治世を風雨が時に順い五穀が実った時期と短く記すにとどまる。記紀ともに在位年数と后妃・皇子女の系譜が記述の中心を占める。事績を欠いたまま系譜の連続だけを担い、皇統の物語における接続点として置かれる天皇である。",
      "worship": "陵は堺市の田出井山古墳が百舌鳥耳原北陵に治定されている。大阪府松原市の柴籬神社は丹比柴籬宮の伝承地としてこの天皇を祭神とし、歯が美しかったという記紀の記事にちなんで歯の神としての信仰を近代以降に集めた。事績を欠く天皇が、名の由来の一句によって特定の霊験と結びついた例である。",
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      "name": "允恭天皇",
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        "男浅津間若子宿禰命",
        "雄朝津間稚子宿禰天皇",
        "遠飛鳥宮御宇天皇"
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      "kind": "伝承上の天皇",
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      "form_nihonshoki": "雄朝津間稚子宿禰天皇",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "宋書倭国伝が443年と451年に遣使したと記す倭王済を允恭に比定する説は藤間生大・坂元義種らに支持され、五王のうちでは異論が比較的少ないが、比定そのものは記紀の系譜と宋書の記事を突き合わせた推定であって確証はない。古事記の崩年干支甲午を454年とする理解も文献内部の推算にとどまる。",
      "role": "秩序化",
      "description": "履中・反正の同母弟で、病を理由に固辞したのち群臣に推されて即位し、遠飛鳥宮に都したと伝えられる。氏姓の詐称が横行したため甘樫丘で盟神探湯を行って真偽を正したとする記事は、氏姓秩序の起点を語る説話として置かれる。皇后忍坂大中姫の妹衣通郎姫をめぐる歌物語と、皇太子木梨軽皇子の失脚譚を伴う。倭の五王の済に比定される場合、記紀の伝承と中国史書の記録が接する位置に立つ天皇となる。",
      "worship": "陵は藤井寺市の市野山古墳が恵我長野北陵に治定されている。天皇自身を祭神とする社は乏しく、記紀の歌物語に登場する衣通姫が紀伊の玉津島神社などで和歌の神として祀られる方が、祭祀としては目につく。",
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      "name": "安康天皇",
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      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "宋書倭国伝が462年に安東将軍倭国王に除されたと記す倭王興を安康に当てる説は、済の子で武の兄という関係が記紀の系譜と対応するため比較的支持されるが、坂元義種が指摘するとおり五王の比定はいずれも系譜対応に依る推定である。日本書紀の伝える在位3年という短さと外部史料の年次との整合も論点として残る。",
      "role": "犠牲",
      "description": "允恭天皇の子で、石上穴穂宮に都したと伝えられる。叔父の大草香皇子を讒言により誅してその妻中蒂姫を皇后としたが、連れ子の眉輪王に殺されたと記紀は記す。この事件を契機に弟の大長谷王が競合する皇族を次々に討ち、王位が雄略天皇の系統に絞り込まれる。天皇が臣下ではなく皇族の手で殺されたと記される数少ない記事であり、雄略の即位を導く前段として置かれる。",
      "worship": "陵は奈良市宝来の菅原伏見西陵に治定されているが、この地は古墳ではなく方形の土壇であり、中世の城館の跡とみる説がある。幕末から明治の治定作業は記紀の記す陵の所在地名と現地の地形を手がかりに行われたため、古墳でない遺構が陵に当てられる場合があった。祀られた形跡は確認されない。",
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      "name": "清寧天皇",
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        "白髪王",
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      "form_nihonshoki": "白髪武広国押稚日本根子天皇",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "清寧に関する記述は記紀と先代旧事本紀に限られ、宋書などの外部史料にも金石文にも対応する記事がない。津田左右吉以来、後嗣を欠く天皇を置いて次代の発見譚へ橋渡しするという構成上の位置づけが指摘されており、実在を検証する手段を欠く。",
      "role": "媒介",
      "description": "雄略天皇の子で、生まれながらに白髪であったことを名の由来とすると記紀は記す。星川皇子の乱を鎮めて磐余甕栗宮に都したが、后妃も皇子女もないまま没したと伝えられる。播磨に身を隠していた億計・弘計の兄弟が発見されて宮に迎えられる記事が、その治世に置かれる。皇統が一度途切れかけ、傍系から接ぎ直される場面を用意する天皇である。",
      "worship": "陵は羽曳野市の白髪山古墳が河内坂門原陵に治定されている。天皇自身を祭神とする社は知られない。",
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      "name": "顕宗天皇",
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        "袁祁王",
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      "kind": "伝承上の天皇",
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      "form_nihonshoki": "弘計天皇",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "播磨国風土記の美嚢郡志深里条が針間国での兄弟の潜伏と発見を記し、記紀とは別系統の伝承の存在が確かめられるが、直木孝次郎が論じるようにこれは説話の流布を示すものであって実在の証明ではない。外部史料および金石文に対応する記事はない。",
      "role": "回復",
      "description": "雄略天皇に父の市辺押磐皇子を殺されたため、兄の億計とともに播磨へ逃れ、身分を隠して仕えていたところを発見されて迎えられたと記紀は伝える。兄に譲られて即位し近飛鳥八釣宮に都して、父の遺骨を求めて陵を営み、雄略の陵を毀とうとして兄に諫められる。播磨国風土記は美嚢郡志深里に兄弟の潜伏と新室の宴での名乗りを記し、記紀と重なる伝承を伝える。履中天皇の孫にあたり、雄略に断たれた系統が王位に復するという筋を担う。",
      "worship": "陵は香芝市の傍丘磐坏丘南陵に治定されている。兵庫県三木市志染町の窟屋には記紀と播磨国風土記が伝える潜伏の地とされる石室があり、現在も伝承地として維持されている。中央の陵墓治定とは別に、地方が説話の舞台として場所を保持し続けた例にあたる。",
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      "name": "仁賢天皇",
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        "意富祁王",
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      "kind": "伝承上の天皇",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "記紀と先代旧事本紀のほかには播磨国風土記の美嚢郡条が兄弟の伝承を伝えるにとどまり、坂本太郎が指摘するとおりこの時期の記事は年次も事績も乏しい。外部史料と金石文による確認はない。",
      "role": "秩序化",
      "description": "弘計の兄で、播磨から迎えられたのち弟に位を譲り、その没後に即位して石上広高宮に都したと記紀は伝える。日本書紀は治世を穀物が実り民が富んだ時期として記し、大臣平群真鳥と大連大伴金村が政を担う。皇后は雄略天皇の娘春日大娘皇女とされ、対立した2つの系統が婚姻によって結び直される。履中天皇の孫として弟とともに播磨国風土記にも伝承が伝わる。",
      "worship": "陵は藤井寺市の野中ボケ山古墳が埴生坂本陵に治定されている。弟とともに播磨に伝承をもつが、天皇自身を祭神とする社は乏しい。",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "日本書紀が並べる暴虐の記事は、津田左右吉以来、史記殷本紀の紂王像などに倣って継体の即位を正当化するために構成されたとみる説が有力である。水野祐は1954年の三王朝交替説で武烈を中王朝（河内王朝）の最後に置き継体による新王朝の開始とみたが、坂本太郎らは王朝交替そのものに反対しており決着していない。",
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      "description": "仁賢天皇の子で泊瀬列城宮に都し、平群真鳥・鮪の父子を討って大伴金村を大連に立てたと日本書紀は記す。同書は続けて妊婦の腹を裂くなどの残虐な行為を列挙し、後嗣なくして没したことをもって皇統の断絶を告げる。一方の古事記は宮と陵と在位年数を記すだけで、暴虐の記事を一切もたない。記と紀のこの記述量の差そのものが、この天皇像が日本書紀の編纂意図のもとで形づくられた可能性を示す資料となっている。",
      "worship": "陵は香芝市の傍丘磐坏丘北陵に治定されている。祀られた形跡はなく、日本書紀が列挙する暴虐の記事は、近世から近代にかけて君主の徳を説く議論のなかで悪しき例として引かれることが多かった。古事記が同じ記事をもたないことは、この像が日本書紀の編纂の側で形づくられた可能性を示す論拠として現在も論じられている。",
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      "name": "安閑天皇",
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        "勾大兄皇子"
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      "historicity_basis": "安閑紀の屯倉設置記事は所在地を具体的に列挙しており、吉村武彦らは6世紀前半の王権による直轄地経営の実態を反映するとみる。ただし喜田貞吉・林屋辰三郎が唱えた継体・欽明朝内乱説は安閑・宣化朝と欽明朝の並立を想定しており、日本書紀の記す継承順そのものが論点として残る。",
      "role": "継承",
      "description": "継体天皇の子で勾金橋宮に都し、皇后春日山田皇女ほかを迎えたが後嗣はなかったと伝えられる。日本書紀は各地に多数の屯倉を設けた記事を治世の中心に置き、犬養部の設置もあわせて記す。古事記は宮と陵と系譜を記すのみで屯倉の記事をもたない。継体から欽明へ至る過渡期にあたり、王権の直轄地が列島各地へ広がる過程を示す位置に立つ。",
      "worship": "陵は羽曳野市の高屋築山古墳が古市高屋丘陵に治定されている。中世には蔵王権現をこの天皇とする説が行われ、明治の神仏分離に際して各地の蔵王権現社が祭神を安閑天皇と改める例が生じた。記紀が屯倉の設置以外にほとんど事績を記さない天皇が、権現との対応によって全国に祭神として分布することになった。",
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      "historicity_basis": "宣化紀は在位4年と短く事績も限られるが、那津官家の修造記事は北九州における王権の拠点整備を伝えるものとして吉村武彦らに注目されている。安閑と同じく、喜田貞吉らの継体・欽明朝内乱説のもとでは欽明朝との並立が想定され、日本書紀の継承記事の理解が分かれる。",
      "role": "継承",
      "description": "安閑天皇の同母弟で、檜隈廬入野宮に都したと伝えられる。三河・尾張・播磨などの屯倉の穀を筑紫の那津官家に集めさせ、外交と防衛の拠点を整えたと日本書紀は記す。大伴金村・物部麁鹿火を大連、蘇我稲目を大臣とする体制がこの代に整う。娘の石姫が欽明天皇の皇后となって敏達天皇を生むため、系譜は宣化を経由して次代へ接続する。",
      "worship": "陵は橿原市の鳥屋ミサンザイ古墳が身狭桃花鳥坂上陵に治定されている。天皇自身を祭神とする社は乏しい。",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "日本書紀の欽明紀は百済系の史書である百済本記を引いて年次を記しており、坂本太郎はこの引用によって6世紀中葉の紀年が他の時代より確かめやすいとみた。仏教公伝の年次は日本書紀が552年とするのに対し、上宮聖徳法王帝説と元興寺伽藍縁起は戊午年すなわち538年とし、現在は538年説をとる研究者が多いものの決着してはいない。",
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      "description": "継体天皇の子で磯城島金刺宮に都し、皇后石姫のほか蘇我稲目の娘堅塩媛・小姉君を妃として、以後の天皇の多くがその子孫となる。百済の聖明王からの仏像と経論の伝来を受け、崇仏を主張する蘇我稲目と排仏を説く物部尾輿の対立が始まったと日本書紀は記す。562年に新羅によって任那が滅んだことを、治世の大きな失点として記録する。仏教という外来の体系が皇統の物語に入り込む起点に置かれる天皇である。",
      "worship": "陵は明日香村の梅山古墳が檜隈坂合陵に治定されている。一方、橿原市の見瀬丸山古墳は奈良県最大の後期古墳で、規模と築造年代からこれを欽明陵とみる説が古くから有力であり、宮内庁は同古墳を畝傍陵墓参考地として管理している。治定と考古学的な比定が並存したまま決着していない代表例である。",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "668年の紀年をもつ船王後墓誌が「乎娑陀宮治天下天皇」と記し、これを敏達の訳語田幸玉宮に当てるのが通説で、近接時期の金石文が治世の実在を裏づける。島根県岡田山1号墳出土の鉄刀銘「額田部臣」も6世紀後半における部民制の存在を示し、敏達朝前後の王権の姿と整合する。",
      "role": "継承",
      "description": "欽明天皇と石姫の子で、百済大井宮、のちに訳語田幸玉宮に都したと伝えられる。仏法を信じず、物部守屋と中臣勝海の排仏に同調して寺塔を焼かせたと日本書紀は記す一方、蘇我馬子は仏法を修め続ける。皇后の額田部皇女はのちに推古天皇として即位し、その周辺の系統が7世紀の皇統をかたちづくる。崇仏と排仏の対立が王権の内部で並存した段階を示す治世である。",
      "worship": "陵は大阪府太子町の河内磯長中尾陵に治定され、磯長谷古墳群のなかに置かれる。用明・推古・孝徳の陵とされる古墳や聖徳太子の磯長墓が同じ谷に集まり、近世以来この一帯は王陵の谷と呼ばれてきた。天皇自身を祭神とする社は乏しい。",
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      "historicity_basis": "天寿国繡帳銘に「多至波奈等已比乃弥己等」すなわち橘豊日尊の名が見え、法隆寺金堂薬師如来像光背銘も「池辺大宮治天下天皇」の名で用明に触れるため、近接時期の資料が実在を裏づける。ただし薬師像光背銘の607年という紀年については福山敏男らが後代の作成とみており、資料の年代評価は分かれている。",
      "role": "媒介",
      "description": "欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛の子で、池辺双槻宮に都したと伝えられる。日本書紀は仏法を信じ神道を尊んだと記し、在位2年で病に倒れると仏教への帰依を群臣に諮り、物部守屋の反対のなかで受戒を望んだまま没する。厩戸皇子の父であり、蘇我氏の血を引く最初の天皇にあたる。その没後の後継争いが蘇我氏と物部氏の武力衝突に至り、王権をめぐる勢力配置が組み替えられる。",
      "worship": "陵は太子町の春日向山古墳が河内磯長原陵に治定されている。方墳であり、前方後円墳から方墳へ移る時期の王墓とみられて、治定と考古学的な年代観がおおむね整合する例に数えられる。厩戸皇子の父として、叡福寺を中心とする太子信仰の由緒のなかで言及されてきた。",
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      "historicity_basis": "崇峻朝に始まると日本書紀が記す飛鳥寺の造営は、1956年からの奈良国立文化財研究所による発掘で588年ごろの創建と一塔三金堂の伽藍配置が確かめられ、記事と考古学的所見が対応する。ただし崇峻自身の名を伝える同時代の金石文はなく、実在の直接の裏づけには至っていない。",
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      "description": "欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の子で、蘇我馬子に擁立されて倉梯柴垣宮に都したと伝えられる。百済から僧と工人を迎えて飛鳥寺の造営が始まり、任那復興のための出兵準備も進められる。馬子との対立が深まり、592年に東漢直駒に殺されたと日本書紀は明記する。記紀のなかで天皇が臣下の手で弑されたと記される唯一の例であり、大臣家の権力が王位を左右する段階を示す。",
      "worship": "陵は明治期に桜井市倉橋の小規模な墳丘が倉梯岡陵に治定されたものである。日本書紀が弑逆の当日に葬ったと記すのみで陵の伝承が絶えていたため、治定は地名と記事の照合によって行われた。祀られた形跡は乏しく、同じ桜井市内には別に崇峻天皇の墓と伝える塚もある。",
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      "name": "推古天皇",
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      "historicity_basis": "623年の紀年をもつ法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、天寿国繡帳銘の「等已弥居加斯支移比弥乃弥己等」、668年の船王後墓誌の「等由羅宮治天下天皇」が、近接時期から治世を裏づける。隋書倭国伝は600年と607年の遣使を記しながら王を男性の「阿毎多利思比孤」とし、日本書紀が600年の遣使を記さない点とあわせて、坂本太郎以来この齟齬の解釈が論じられている。",
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      "description": "欽明天皇と堅塩媛の子で敏達天皇の皇后、崇峻天皇の没後に豊浦宮で即位し、記紀が伝える最初の女帝となる。厩戸皇子と蘇我馬子が政を分担し、冠位十二階と十七条憲法の制定、遣隋使の派遣、仏教興隆の詔が治世に置かれる。620年に厩戸皇子と馬子が天皇記・国記を録したと日本書紀は記す。古事記の系譜記事はこの代で終わり、以後の天皇は日本書紀のみが伝えるため、記と紀の記述範囲が分かれる境目に立つ。",
      "worship": "陵は太子町の山田高塚古墳が磯長山田陵に治定されている。日本書紀は初め大野岡に葬り、のち磯長へ改葬したと記しており、治定はこの改葬先の記事に拠る。天皇自身を祭神とする社は乏しい。",
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      "name": "舒明天皇",
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      "historicity_basis": "668年の船王後墓誌が「阿須迦宮治天下天皇」と記して舒明の飛鳥岡本宮に対応し、旧唐書東夷伝も貞観年間の倭国の遣使を伝えるため、内外の近接史料が治世を裏づける。百済大寺に比定される奈良県桜井市の吉備池廃寺の発掘で7世紀前半の巨大な塔と金堂の基壇が確認され、日本書紀の造営記事と整合する。",
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      "description": "敏達天皇の孫にあたる田村皇子で、推古天皇の没後に山背大兄王との後継争いを経て蘇我蝦夷に推されて即位したと日本書紀は伝える。飛鳥岡本宮、のち田中宮・百済宮に都し、犬上御田鍬を唐に遣わして最初の遣唐使とし、百済大寺と九重塔を建てる。皇后の宝皇女は皇極天皇として、子の中大兄と大海人はそれぞれ天智天皇・天武天皇として即位する。古事記の系譜記事はすでに推古で終わっているため、この天皇以降は日本書紀のみが記す。",
      "worship": "陵は桜井市の段ノ塚古墳が押坂内陵に治定されている。同古墳は上円下方の八角形の墳丘をもち、以後の天皇陵に共通する八角墳の最初の例とされるため、治定が考古学的にも支持される数少ない事例に数えられる。天皇自身を祭神とする社は乏しい。",
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        "斉明天皇",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "斉明紀が記す宮の東の山に石を累ねて垣とする工事や運河の掘削の記事は、奈良県明日香村の酒船石遺跡で確認された砂岩の石垣遺構と対応するとみられ、遠山美都男らが記事の具体性を評価している。661年の百済救援のための西征と筑紫朝倉宮での崩御は、三国史記および旧唐書が伝える白村江前後の記事とも年次が合う。",
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      "description": "舒明天皇の皇后宝皇女で、642年に皇極天皇として即位し、645年の乙巳の変で蘇我入鹿が殺された直後に弟の軽皇子に譲位する。孝徳天皇の没後の655年に飛鳥板蓋宮で重祚し、この2度目の治世が斉明天皇と呼ばれる。斉明朝には阿倍比羅夫の北方遠征、大規模な土木工事、百済救援のための西征が置かれ、661年に筑紫朝倉宮で没する。日本書紀は皇極紀と斉明紀の2巻を立てて同一人物の2度の治世を別々に記しており、記紀が伝える最初の重祚の事例にあたる。",
      "worship": "陵は高取町の車木ケンノウ古墳が越智崗上陵に治定されている。一方、明日香村の牽牛子塚古墳は2010年の調査で八角形の墳丘と二室の横口式石槨が確認され、日本書紀が記す斉明天皇と間人皇女の合葬に合致するとして被葬者に擬され、隣接する越塚御門古墳を大田皇女の墓とみる説とあわせて広く受け入れられている。牽牛子塚は陵墓に治定されていないために発掘が可能であり、治定と考古学的な比定が離れたまま並存する例となっている。",
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      "form_nihonshoki": "天万豊日天皇",
      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "1967年に藤原宮跡から出土した木簡により大宝令以前の地方単位が評であったことが確定し、井上光貞らと坂本太郎らのあいだで続いた郡評論争は決着して、日本書紀の改新詔が郡と記す部分は編纂時の潤色と判明した。原秀三郎・門脇禎二らは大化改新そのものの実在を疑ったが、宇治橋断碑が大化2年の紀年を刻むことなどから、大化という年号と孝徳朝の存在自体は認められている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "皇極天皇の同母弟の軽皇子で、乙巳の変ののち645年に即位し、年号として大化を建てて難波長柄豊碕宮に都したと日本書紀は伝える。改新の詔を発して公地公民・国郡の設置・班田収授・租庸調を定めたとされ、中大兄皇子を皇太子、阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂を左右大臣、中臣鎌足を内臣とする体制を敷く。のちに中大兄らが飛鳥へ去り、孤立したまま難波で没する。常陸国風土記は難波長柄豊前大宮に御宇しめしし天皇の世として評の設置を記し、日本書紀とは別系統で改新期の地方編成を伝える。",
      "worship": "陵は太子町の山田上ノ山古墳が大阪磯長陵に治定されている。難波長柄豊碕宮の所在は長く不明であったが、1950年代以降の発掘により大阪市中央区法円坂の前期難波宮跡がこれに比定され、現在は難波宮跡公園として整備されている。宮の位置が発掘によって定まった一方、陵の被葬者を確かめる手段はない。",
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        "天命開別天皇",
        "天命開別尊",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "663年の白村江の敗戦は旧唐書・新唐書および三国史記が同じ年次で伝え、日本書紀の記事と外部史料が一致する。近江大津宮に比定される滋賀県大津市の錦織遺跡の発掘で7世紀後半の大規模な掘立柱建物群が確認され、庚午年籍も大宝令以後の史料に永久保存の戸籍として言及されるため、治世の骨格は複数系統から裏づけられる。",
      "role": "秩序化",
      "description": "舒明天皇と皇極天皇の子の中大兄皇子で、中臣鎌足とともに645年に蘇我入鹿を討ち、以後長く皇太子として政を執ったと日本書紀は伝える。663年の白村江の敗戦ののち、対馬と筑紫に防人と烽を置き、水城と山城を築いて防衛を固め、667年に近江大津宮へ遷って翌年即位する。庚午年籍の作成と近江令の編纂が治世に置かれる。皇位継承を弟の大海人から子の大友へ移そうとしたことが、没後の壬申の乱の直接の背景となる。",
      "worship": "陵は京都市山科区の御廟野古墳が山科陵に治定され、八角墳であることから治定が考古学的にも支持される例に数えられる。1940年、皇紀2600年の記念事業として大津宮の伝承地に近江神宮が創建され、官幣大社に列した。同社は日本書紀の漏刻の記事にちなんで時計の神とされ、6月10日の時の記念日の行事と、小倉百人一首の巻頭歌にちなむかるたの大会が現在の祭祀の中心をなす。",
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      "name": "弘文天皇",
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        "大友皇子",
        "伊賀皇子",
        "淡海帝"
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      "historicity_basis": "大友皇子の実在は日本書紀の天智紀・天武紀と751年成立の懐風藻が伝と詩を載せることから疑われないが、日本書紀は即位を明記せず即位前紀も立てないため、即位の有無をめぐって大日本史以来の即位説と非即位説が対立してきた。歴代に加えて弘文天皇と追諡したのは1870年であり、記紀の記述に基づく諡号ではない。",
      "role": "犠牲",
      "description": "天智天皇の子で、671年に太政大臣に任じられて近江朝廷の中枢に立つ。天智の没後、吉野へ去った大海人皇子と対立し、672年の壬申の乱に敗れて自ら死んだと日本書紀は記す。日本書紀はこの人物に独立の巻を与えず、天智紀の末尾と天武紀の上巻のなかで扱う。歴代天皇の一人とされるのは明治期の追諡によるものであり、記紀が定めた皇統の枠が後世に改められた事例にあたる。",
      "worship": "壬申の乱の敗者として長く歴代に数えられず、諡号も陵ももたなかったが、1870年に弘文天皇の諡が贈られて歴代に加えられ、1877年に大津市の長等山前陵が治定された。記紀が定めた皇統の枠が明治の行政判断によって改められた事例であり、陵の治定もこの追諡に伴って行われている。",
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      "name": "天武天皇",
      "name_en": "Emperor Tenmu",
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        "天渟中原瀛真人天皇",
        "大海人皇子",
        "浄御原天皇",
        "飛鳥清原大宮御大八洲天皇"
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      "form_nihonshoki": "天渟中原瀛真人天皇",
      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した木簡群に天皇の語を記すものがあり、天武朝の遺構に伴うことからこの称号の使用がこの時期にさかのぼると考えられている。日本書紀が天武に2巻を与えるほか、続日本紀・万葉集・懐風藻が事績と作歌を伝え、飛鳥浄御原宮に比定される飛鳥京跡の発掘所見とも整合する。",
      "role": "創造",
      "description": "舒明天皇と皇極天皇の子の大海人皇子で、672年の壬申の乱に勝って飛鳥浄御原宮で即位したと日本書紀は伝える。八色の姓を定めて豪族を新たな秩序に編み直し、律令の編纂と国史の編修を命じ、伊勢神宮の式年遷宮の制を整えたとされる。681年に帝紀および上古の諸事を記定させたのがこの天皇であり、古事記は本文の系譜を推古で終えながら序文にその勅語を伝えるため、記紀が語る登場人物であると同時に記紀を成立させた側にも立つ二重の位置にある。日本書紀は歴代のなかで最も厚い記述量をこの天皇に配する。",
      "worship": "陵は明日香村の野口王墓古墳が檜隈大内陵に治定され、持統天皇との合葬陵とされる。1235年の盗掘の記録である『阿不幾乃山陵記』が石槨内の棺と骨蔵器の様子を伝えており、この記録によって被葬者が確かめられる点で、歴代の陵墓のうち治定の確からしさが最も高い例に挙げられる。八角墳である点も記述と整合する。",
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      "name": "持統天皇",
      "name_en": "Empress Jitō",
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        "高天原広野姫天皇",
        "高天原広野姫尊",
        "鸕野讃良皇女",
        "大倭根子天之広野日女尊"
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      "form_nihonshoki": "高天原広野姫天皇",
      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "藤原宮跡の発掘により694年の遷都と条坊をもつ都城の造営が確かめられ、出土した木簡が飛鳥浄御原令下の官制と年次を伝えるため、治世は同時代の一次史料によって裏づけられる。直木孝次郎は諡号の高天原広野姫や天孫降臨神話の構造にアマテラスと持統を重ねる意識を読み取ったが、これは記紀の成立事情をめぐる解釈であって実在の議論ではない。",
      "role": "秩序化",
      "description": "天智天皇の子で天武天皇の皇后である鸕野讃良皇女、天武の没後に称制を執り690年に即位したと日本書紀は伝える。飛鳥浄御原令の施行、庚寅年籍の作成、694年の藤原京遷都を治世に置き、伊勢神宮の式年遷宮も690年に第1回が行われたとされる。天武が命じた国史編修の事業を引き継いだ側にあたり、日本書紀は持統紀をもって記述を終えるため、この天皇は記紀が語る対象であると同時に記紀を成立させた側にも立つ。697年に孫の軽皇子に譲位し、記紀の伝えるうちで最初の太上天皇となる。",
      "worship": "天武天皇と同じ野口王墓古墳に合葬されたとされ、続日本紀は702年に没した翌年に飛鳥岡で火葬したと記す。天皇の火葬はこれが最初とされ、『阿不幾乃山陵記』は石槨内に銀の骨蔵器があったと伝えるが、1235年の盗掘で持ち去られたとされる。伊勢神宮の式年遷宮は690年の第1回をこの治世に置き、以後20年ごとの制として現在に至る。",
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      "name": "市辺押磐皇子",
      "name_en": "Prince Ichinobe no Oshiha",
      "aliases": [
        "市辺之忍歯王",
        "市辺忍歯別王",
        "磐坂市辺押羽皇子",
        "天万国万押磐尊",
        "市辺天皇命"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "皇族・王族",
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      "form_nihonshoki": "市辺押磐皇子（磐坂市辺押羽皇子）",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "播磨国風土記の美嚢郡志深里条がこの人物を「市辺天皇命」の名で記し、記紀とは別系統の伝承が存在したことが確かめられる。ただし同時代史料や金石文による裏づけはなく、即位しなかった王子を天皇と呼ぶ風土記の記載をどう扱うかについては、直木孝次郎らの検討以来なお定説をみない。",
      "role": "犠牲",
      "description": "履中天皇の子で、日本書紀は安康天皇3年に大泊瀬皇子（のちの雄略天皇）に近江の蚊屋野へ狩に誘い出されて射殺され、舎人とともに一つの穴に埋められたと記す。子の億計・弘計は播磨へ逃れ、のちに仁賢天皇・顕宗天皇として即位する。播磨国風土記は美嚢郡志深里条にこの人物を市辺天皇命の名で挙げ、その子らの潜伏を伝える。雄略による王位の奪取と、断たれた履中系がのちに復するという記紀の筋を成り立たせる結節点にあたる。",
      "worship": "滋賀県東近江市に市辺押磐皇子墓が治定され、宮内庁の管理下にある。日本書紀が顕宗天皇による遺骨の捜索と双墓の造営を記すことに拠る治定であり、被葬者を確かめる資料はない。播磨国風土記が市辺天皇命と記すことから、播磨には天皇として扱う伝承が並行して存在した。",
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      "name": "押坂彦人大兄皇子",
      "name_en": "Prince Oshisaka no Hikohito no Ōe",
      "aliases": [
        "忍坂日子人太子",
        "押坂彦人皇子",
        "麻呂古皇子",
        "太子彦人皇子",
        "皇祖大兄"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "皇族・王族",
      "form_kojiki": "忍坂日子人太子",
      "form_nihonshoki": "押坂彦人大兄皇子",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "日本書紀のほか、古事記の敏達段が忍坂日子人太子の名で同じ系譜を伝え、上宮聖徳法王帝説も敏達の王統を別系統で記す。事績を伝える記事はほとんどなく同時代史料や金石文による確認はないが、以後の天皇がすべてこの系統から出るため、系譜そのものは7世紀の記憶に基づくとみる見方が多い。",
      "role": "継承",
      "description": "敏達天皇と皇后広姫の子で、蘇我氏を外戚としない敏達系の最有力者にあたる。用明の没後の皇位継承では候補に数えられながら即位せず、日本書紀にはわずかな記事しか残らない。子の田村皇子が舒明天皇として即位し、以後の天皇はいずれもこの系統から出る。蘇我氏の血を引く欽明系の諸王に対する別の血統として、7世紀の王位継承の対立軸をなす位置に置かれる。",
      "worship": "奈良県広陵町に成相墓が治定されている。一方、同町の牧野古墳は6世紀末の大型円墳で横穴式石室と豊富な副葬品をもち、この皇子の墓とみる説が有力に唱えられてきた。牧野古墳は陵墓に治定されていないため発掘調査が行われており、比定の議論が出土資料に基づいて進んだ数少ない例となっている。",
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    {
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      "name": "茅渟王",
      "name_en": "Prince Chinu",
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        "茅渟皇子",
        "智奴王",
        "知奴王"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "皇族・王族",
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      "form_nihonshoki": "茅渟王",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "日本書紀の系譜記事に名が現れるのみで事績を伝える記録がなく、外部史料・金石文による裏づけを欠く。奈良県香芝市の平野塚穴山古墳をその墓とする説があるが、古墳の年代は7世紀後半とされてこの人物の推定年代と合わず、一致をみない。",
      "role": "継承",
      "description": "押坂彦人大兄皇子の子で、吉備姫王を妻とし宝皇女と軽皇子をもうけたと日本書紀は記す。宝皇女は皇極天皇として即位したのち斉明天皇として重祚し、軽皇子は孝徳天皇として即位する。本人の事績は一切伝えられず、系譜上の名としてのみ残る。敏達系の血統を7世紀半ばの2人の天皇へ橋渡しする位置に置かれる人物である。",
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    {
      "id": "FIG-0120",
      "name": "天忍日命",
      "name_en": "Ame-no-Oshihi no Mikoto",
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        "アメノオシヒ"
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      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "天忍日命",
      "form_nihonshoki": "天忍日命",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "大伴連の祖神として天孫降臨の随伴神に数えられるのみで、歴史的実在は想定されない。宮廷の警衛を職掌とする大伴氏の由緒を神代に置く氏族起源譚に属し、津田左右吉以来この種の記述は氏族の職能を神話に投影した造作とみる整理が通説である。",
      "role": "始祖",
      "description": "天孫降臨に際して天津久米命とともに武装して先導したと記紀がともに記す神で、大伴連の祖とされる。古事記は背に靫を負い臂に鞆を着け剣と弓矢を執る姿を描き、日本書紀の一書もほぼ同じ装いを伝える。古語拾遺も大伴宿禰の祖としてこの神を挙げる。天皇の身辺警護を世襲した大伴氏の職掌が、天孫の護衛という神代の場面に置き直されている。",
      "worship": "古語拾遺が大伴宿禰の祖として挙げ、宮門の警衛という職掌の由緒をなす神である。大伴氏は9世紀に伴氏と改姓し、866年の応天門の変で伴善男が配流されて以後は中央での勢力を失い、祖神を祀る氏社も振るわなかった。丹波国船井郡の大伴神社など、氏族の関係地にこの神を祭神とする社が残る。",
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    {
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      "name": "道臣命",
      "name_en": "Michi no Omi no Mikoto",
      "aliases": [
        "日臣命",
        "道臣",
        "大伴連遠祖道臣"
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      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "道臣命",
      "form_nihonshoki": "道臣命（初名 日臣命）",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "神武東征の説話の中にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。日本書紀が日臣から道臣への改名を記して名の由来を説く形式は、大伴氏の由緒を建国譚に接続する造作とみるのが津田左右吉以来の通説である。",
      "role": "征服",
      "description": "神武東征で大来目を率いて先鋒を務め、ヤタガラスの導きにより熊野から菟田への道を開いた大伴氏の祖。日本書紀は初名を日臣命とし、道を開いた功により道臣と改名させたと記す。忍坂の土蜘蛛を宴に誘って討つ計略や、即位後の宮門の警衛もこの人物に帰される。古事記も大伴連等の祖として大久米命と並べて記し、武力によって王権に仕えるという大伴氏の由緒をこの人物に集約する。",
      "worship": "単独で祀る古社は乏しく、延喜式神名帳にこの名を冠する社の記載もない。神武東征の先導者という位置づけは、近代に東征の道筋を顕彰する言説のなかでくり返し取り上げられた。武力によって王権に仕える大伴氏の職掌を、神代の天忍日命と初代天皇の代のこの人物とに二重に置く構えになっている。",
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      "name": "大久米命",
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        "大来目",
        "天津久米命",
        "天槵津大来目"
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      "kind": "氏族祖",
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      "form_nihonshoki": "大来目",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "久米直の祖として神武東征の説話にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。久米部という軍事的職能集団の由緒を建国譚に置く造作とみられ、黥面の記述も習俗の起源を説く挿話として読まれている。",
      "role": "征服",
      "description": "古事記が久米直等の祖とする人物で、道臣命とともに久米部を率い、宇陀の兄宇迦斯や忍坂の土雲八十建を討つ。イスケヨリヒメへの求婚を仲立ちする場面では、目のまわりに入れ墨をした「黥ける利目」を姫に怪しまれる。日本書紀は個人名としてよりも大来目・大来目部として記し、その遠祖を天槵津大来目とする。古事記が個人として立てる存在を日本書紀が集団の名で扱う点は、両書の氏族起源譚の書き方の差を示す。",
      "worship": "大和国高市郡の久米御県神社が延喜式神名帳に載り、隣接する久米寺は久米氏の氏寺と伝えられる。大来目部は宮門の警衛とともに久米舞を職掌とし、即位や大嘗の儀で奏された久米歌・久米舞が氏族の由緒を儀礼の形で伝えた。個人としての祭祀よりも、宮廷芸能として職掌が残った例である。",
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    {
      "id": "FIG-0123",
      "name": "天火明命",
      "name_en": "Ame-no-Hoakari no Mikoto",
      "aliases": [
        "天照国照彦火明命",
        "火明命",
        "彦火明命",
        "天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊",
        "膽杵磯丹杵穂命"
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      "confidence_label": "有力だが異説あり",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "天火明命",
      "form_nihonshoki": "天照国照彦火明命／火明命",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "尾張連・海部直・津守連らの祖神で、歴史的実在は想定されない。丹後国一宮籠神社に伝わる海部氏系図はこの神を始祖に置き、現存する写本は平安初期にさかのぼるとされるが、氏族が自らの由緒として伝えた系譜であり外部から検証する手段はない。",
      "role": "始祖",
      "description": "古事記はアメノオシホミミの子でニニギの兄とし、尾張連等の祖と記す。日本書紀は本文と一書のあいだで系譜が揺れ、ニニギの子とする伝えも併記する。先代旧事本紀「天孫本紀」はこの神の名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とし、饒速日命と同一の神として尾張氏と物部氏を一つの祖に結ぶが、記紀は両者を別の神として扱っており、いずれを採るかは決着していない。名の重なりが異なる氏族の天孫系譜の接続点として働いた例とみることができる。",
      "worship": "丹後国一宮の籠神社は延喜式神名帳に名神大として載り、彦火明命を主祭神として海部氏が宮司を世襲し、現存最古の系図とされる国宝の海部氏系図を伝える。尾張国一宮の真清田神社も名神大の社で天火明命を祭神とし、尾張氏の祖神祭祀を受け継ぐ。先代旧事本紀が饒速日命と同一とすることで尾張氏と物部氏が一つの祖に結ばれるため、この神名は複数の氏族の由緒が接続する場所となってきた。",
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      "name": "神八井耳命",
      "name_en": "Kamu-Yaimimi no Mikoto",
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        "彦八井耳命"
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      "kind": "氏族祖",
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      "form_nihonshoki": "神八井耳命",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "神武天皇の子として記紀の系譜にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。津田左右吉以来、初期の皇統系譜は後世の編纂とみられており、多氏以下の広範な氏族をこの人物の後裔に連ねる記載は、諸氏の由緒を建国譚に接続する造作と解される。",
      "role": "始祖",
      "description": "神武天皇とイスケヨリヒメの子で、異母兄タギシミミが皇位を狙った際に弟の神沼河耳命（綏靖天皇）とともにこれを討とうとする。しかし手足が震えて矢を射ることができず、弟が代わって射殺したため、みずから皇位を辞して弟を立て、祭祀を担う立場に退いたと記紀は伝える。古事記は意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君など19の氏の祖とし、日本書紀は多臣の祖と記す。王位を継がない兄が祭祀と氏族の祖に回るという構成は、多氏をはじめとする諸氏の由緒を皇統の起点へ直接つなぐ働きをもつ。",
      "worship": "大和国十市郡の多坐弥志理都比古神社は延喜式神名帳に名神大として載る多氏の氏社で、この神を祭神とする。肥後の阿蘇神社も名神大の社で、阿蘇氏は神八井耳命の子孫を称し、1914年に官幣大社へ列した。王位を継がずに祭祀へ退いたという記紀の筋書きが、中央の多氏から九州の阿蘇氏まで広い範囲の氏族が皇統への直結を主張する根拠として働いている。",
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      "name": "野見宿禰",
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        "野見宿祢",
        "土師弩美宿禰",
        "土師臣祖野見宿禰"
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      "confidence_label": "学術的定説",
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      "form_nihonshoki": "野見宿禰",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "古事記には現れず、日本書紀の垂仁紀のみが事績を記す。埴輪は近藤義郎らの研究により吉備の特殊器台・特殊壺から発達したことが明らかにされ、殉死に代えて考案されたとする日本書紀の起源譚は成り立たない。土師氏が自らの職掌の由来を語る説話として造形された人物とみるのが通説である。",
      "role": "始祖",
      "description": "日本書紀垂仁紀は、当麻蹴速の力自慢を聞いた天皇が出雲からこの人物を召し、蹴速の脇腹と腰を踏み折って勝たせ、その地を与えたと記す。のちに皇后日葉酢媛の葬に際して殉死に代わる埴輪の制を献策し、土師臣の姓を得て代々天皇の喪葬を掌る土師氏の祖となったとされる。播磨国風土記の揖保郡立野条は、出雲との往還の途中にこの人物が没し、出雲から人が来て墓を築いたと伝え、記紀とは別系統の伝承を残す。新撰姓氏録は天穂日命の14世孫とし、出雲の祭祀系譜と土師氏の職掌を一本に結ぶ。",
      "worship": "土師氏の職能の祖として喪葬に関わり、その後裔を称する菅原氏が9世紀に台頭したため、天満宮の由緒のなかで道真の遠祖として語り継がれた。播磨国風土記が伝える立野の墓の地には兵庫県たつの市の野見宿禰神社があり、奈良県桜井市の出雲にも塚が伝えられる。明治期に東京両国へ相撲の関係者が野見宿禰神社を創建して以後は相撲の祖神としての性格が前面に出ており、土師氏の祖・菅原氏の遠祖・相撲の神と、担ぐ側が変わるたびに性格を変えてきた。",
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      "name": "天日鷲命",
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        "天日鷲神",
        "天日鷲翔矢命",
        "麻植神",
        "忌部神"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
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      "form_nihonshoki": "天日鷲",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "阿波忌部氏の祖神で、歴史的実在は想定されない。807年成立の古語拾遺は中臣氏に対する忌部氏の職掌上の正統を主張する立場から編まれた書であり、この神を天太玉命に従う4神の一つに数える記述も、氏族の由緒の主張として読む必要がある。",
      "role": "始祖",
      "description": "日本書紀の天岩戸の一書に「粟国の忌部の遠祖天日鷲」の作る木綿を用いたと記される神で、古事記には現れない。古語拾遺はこれを天太玉命に従う4柱の神の一つに数え、穀と麻を植えて白和幣を作らせたと記し、さらに天富命がその孫を率いて阿波へ渡り、のち房総へ移って安房郡を開いたと伝える。阿波・安房の忌部が繊維生産と大嘗祭の麁服の貢進を職掌とした由来が、この神の名に集約されている。9世紀の新撰姓氏録もこの系譜を承ける。",
      "worship": "阿波国麻植郡の忌部神社は延喜式神名帳に名神大として載るが中世に所在が失われ、明治初年に美馬郡と麻植郡が本社の地位を争った末、1885年に徳島市の現在地へ鎮座地が定められた。安房の安房神社は天太玉命を祀り、房総への移住を伝える古語拾遺の記述を近代の由緒として掲げる。阿波忌部の後裔とされる三木家が大嘗祭の麁服を調進する慣行は1915年の大正の大嘗祭で復興され、以後の大嘗祭でも続けられている。",
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    {
      "id": "FIG-0127",
      "name": "蘇我石川宿禰",
      "name_en": "Soga no Ishikawa no Sukune",
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        "蘇賀石河宿禰",
        "石川宿禰",
        "宗我石川"
      ],
      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "蘇賀石河宿禰",
      "form_nihonshoki": "石川宿禰",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "古事記が建内宿禰の子として名を挙げ、日本書紀応神3年条に百済への使者として石川宿禰の名が見えるのみで、事績を伝える他の記録はない。武内宿禰を諸氏共通の祖とする系譜そのものが7世紀後半ごろの造形とする説が有力であり、この人物もその一部として位置づけられる。",
      "role": "始祖",
      "description": "古事記孝元天皇段が建内宿禰の子の一人として挙げ、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣ら7氏の祖と記す。日本書紀は系譜を載せず、応神3年条に百済へ遣わされて辰斯王の非礼を責めた使者の一人として石川宿禰の名を出すにとどまる。9世紀の新撰姓氏録は蘇我氏の後身である石川朝臣を孝元天皇の後裔とし、この系譜を承ける。蘇我氏の由緒を建内宿禰へ接続し、6世紀以降の権勢を古い過去に遡らせる働きをもつ名である。",
      "worship": "大和国高市郡の宗我坐宗我都比古神社が延喜式神名帳に載り、蘇我氏の氏神として宗我都比古神・宗我都比売神を祀る。乙巳の変で本宗が滅んだのち氏の後裔は石川朝臣を称し、新撰姓氏録は石川朝臣を孝元天皇の後裔に置いて建内宿禰への接続を公認の系譜として記録した。逆臣として描かれた氏族が、系譜の上では皇別として位置づけられ続けた点に、この社と姓氏録の記載の意味がある。",
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    {
      "id": "FIG-0128",
      "name": "葛城襲津彦",
      "name_en": "Katsuragi no Sotsuhiko",
      "aliases": [
        "葛城長江曾都毘古",
        "葛城之曾都毘古",
        "襲津彦",
        "沙至比跪"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "葛城長江曾都毘古",
      "form_nihonshoki": "葛城襲津彦",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "日本書紀神功紀が引く百済記に壬午年（382年とみるのが通説）の人物として沙至比跪の名が見え、これを襲津彦に比定する説が有力である。他方、葛城の勢力が自らの由緒として造形した人物とする見方や、朝鮮半島へ渡った葛城の首長層の活動を一人に集約したとする折衷説もあり、定説をみない。",
      "role": "始祖",
      "description": "記紀はともに建内宿禰の子とし、葛城臣の祖とする。日本書紀は新羅・加羅への派遣と俘人の移住を伝え、また仁徳天皇の皇后磐之媛の父として、履中・反正・允恭の外祖父の位置に置く。奈良県御所市の南郷遺跡群では5世紀の大規模な導水施設と渡来系の工房跡が確認されており、記紀の伝える葛城氏の勢力と時期が重なる。百済記の沙至比跪との名の近さから、記紀の氏族系譜と朝鮮側の記録が接する数少ない例として論じられてきた。",
      "worship": "祀られる社は乏しいが、奈良県御所市の室宮山古墳は5世紀前半の大型前方後円墳で、葛城の地の首長墓としてこの人物の墓に擬する説が広く行われてきた。同古墳は陵墓に治定されていないため石室や副葬品の調査が可能で、南郷遺跡群の発掘とあわせて葛城氏の実像をめぐる議論の資料となっている。",
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    {
      "id": "FIG-0129",
      "name": "平群木菟宿禰",
      "name_en": "Heguri no Tsuku no Sukune",
      "aliases": [
        "平群都久宿禰",
        "木菟宿禰",
        "都久足尼"
      ],
      "confidence": "A",
      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "平群都久宿禰",
      "form_nihonshoki": "平群木菟宿禰",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "記紀の系譜と説話にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。武内宿禰を諸氏共通の祖とする系譜が7世紀後半ごろの造形とする説が有力であり、この人物も平群氏が由緒として遡らせた名とみる整理が通説である。",
      "role": "始祖",
      "description": "古事記は建内宿禰の子の一人として平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖と記し、日本書紀は平群臣の祖とする。日本書紀仁徳即位前紀は、応神天皇の子と同じ日に生まれ、産屋に木菟と鷦鷯がそれぞれ飛び込んだため両家で名を交換したと伝え、天皇家と平群氏の由緒を並べる説話を残す。応神朝には紀角宿禰らとともに百済へ遣わされ、履中の即位を助けて国事を執ったとも記される。同族の平群真鳥は武烈即位前に滅ぼされたと日本書紀が記しており、平群氏の由緒はこの人物に、没落はその子孫に振り分けられている。",
      "worship": "大和国平群郡の平群坐紀氏神社が延喜式神名帳に載り、平群谷に氏族の名を残す。この人物を単独で祀る社は知られない。",
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    {
      "id": "FIG-0130",
      "name": "紀角宿禰",
      "name_en": "Ki no Tsuno no Sukune",
      "aliases": [
        "木角宿禰",
        "紀角",
        "都奴"
      ],
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "木角宿禰",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "記紀の系譜と応神紀の派遣記事にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。紀伊の海上勢力である紀氏の由緒を建内宿禰へ接続する系譜の一部とみられ、武内宿禰系譜そのものを7世紀後半の造形とする説が有力である。",
      "role": "始祖",
      "description": "古事記は建内宿禰の子として木角宿禰の名を挙げ、紀臣・都奴臣・坂本臣の祖と記す。日本書紀応神3年条は、百済の辰斯王が礼を失したため羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに派遣され、王を責めて謝罪させたと伝える。紀氏は紀ノ川河口を拠点として朝鮮半島との往来にかかわった氏族であり、その対外活動の由来をこの人物に置く構成になっている。平安期の紀氏家牒もこの系譜を承ける。",
      "worship": "紀伊国名草郡の日前神宮・國懸神宮は延喜式神名帳に名神大として載り、紀氏が奉斎して明治に官幣大社へ列した。ただし祭神は日前大神・国懸大神であって、紀角宿禰自身を祀る社は知られない。氏族の祭祀の中心が祖の名ではなく神宝と神格の名で立てられている点は、祖を祀ることがそのまま由緒の主張になる場合と対をなす形である。",
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      "name": "稲飯命",
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        "彦稲飯命"
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      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "ウガヤフキアエズの子として記紀の系譜にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。神武東征譚そのものを後世の構成とみるのが津田左右吉以来の通説であり、この人物もその配置の一部として理解される。新撰姓氏録の逸文が新羅国王の祖とする記述も、9世紀の氏族が自らの由緒として提出した系譜の一環にあたる。",
      "role": "犠牲",
      "description": "ウガヤフキアエズとタマヨリビメの子で、イツセ・三毛入野命・神武天皇の兄弟にあたる。古事記は母の国であるとして海原に入ったと簡潔に記し、日本書紀は熊野で暴風に遭った際に、祖は天神・母は海神であるのになぜ陸と海の双方で苦しめるのかと述べて剣を抜き海へ入り、鋤持神となったと伝える。新撰姓氏録の逸文はこの人物を新羅の国主の祖とする伝えを載せ、渡来にかかわる氏族の由緒を皇統へ接続する。4人の兄弟のうち3人が退場して末子が即位するという構成の一環をなす。",
      "worship": "祀られる社は乏しい。新撰姓氏録の逸文がこの人物を新羅の国主の祖とする伝えを載せることは、渡来系氏族の由緒を皇統へ接続する経路として近代以降にくり返し論じられてきた。",
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        "御毛沼命",
        "三毛野命",
        "稚三毛野命",
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      "kind": "氏族祖",
      "form_kojiki": "御毛沼命",
      "form_nihonshoki": "三毛入野命",
      "historicity": "実在は否定的",
      "historicity_basis": "記紀の系譜にのみ現れ、外部史料による裏づけはない。津田左右吉以来、神武東征譚は後世の構成とみられており、常世郷へ去ったとする記述も末子が王位に就く筋を整えるための配置と解される。",
      "role": "媒介",
      "description": "ウガヤフキアエズとタマヨリビメの子で、神武天皇の兄にあたる。古事記は波の穂を踏んで常世国へ渡ったと記し、日本書紀は熊野で暴風に遭った際に恨みの言葉を残して常世郷へ去ったと伝える。宮崎県高千穂の高千穂神社には、この人物が常世からこの地へ戻って鬼八を退治したとする伝承が伝わるが、これは中世以降に地域で形成されたもので記紀には見えない。兄弟のうち唯一死なずに退場し、海の彼方の常世との往還を担う存在として置かれる。",
      "worship": "宮崎県の高千穂神社はこの人物を含む高千穂皇神を祀り、中世には高千穂十八郷八十八社の総社として神仏習合のもとで十社大明神と称された。常世から戻って鬼八を退治したとする伝承に基づく猪掛祭と、重要無形民俗文化財の高千穂の夜神楽が現在も行われている。記紀が退場させた兄が、地方では戻ってくる神として祀られ続けた例である。",
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      "name": "大伴金村",
      "name_en": "Ōtomo no Kanamura",
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        "大伴大連金村",
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      "kind": "豪族・臣",
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      "form_nihonshoki": "大伴金村（大伴大連金村）",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "古事記と日本書紀がともに磐井の乱の記事に名を挙げ、日本書紀は武烈から欽明にわたる大連としての事績を詳述する。ただし同時代の金石文や外部史料に名は見えず、笹川尚紀は日本書紀の当該記述が大伴氏の家伝に多くを負い、継体即位のころにはまだ大連でなかった可能性を指摘している。",
      "role": "擁立",
      "description": "日本書紀は、仁賢の没後に平群真鳥父子を討って武烈天皇を立て、武烈の没後には越前から男大迹王を迎えて継体天皇として即位させたと記す。継体6年に百済の求めに応じて任那四県の割譲を認めたとされ、のちに欽明朝でその責を物部尾輿に追及されて失脚する。古事記も磐井の乱の記事に物部荒甲之大連とともに大伴之金村連の名を挙げる。王統が断絶しかけた時期に王を選び立てる側の人物として描かれ、大伴氏の権勢の頂点と失墜の双方を体現する。",
      "worship": "祀られた形跡は乏しい。任那四県の割譲を認めたとする日本書紀の記事は、近世の史論から近代の対外関係をめぐる議論に至るまで、失政の例としてくり返し引かれてきた。近年はこの記事自体を後代の潤色とみる説もあり、評価は史料の性格をめぐる議論とともに動いている。",
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      "name": "物部麁鹿火",
      "name_en": "Mononobe no Arakabi",
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        "物部荒甲之大連",
        "物部麁鹿火大連",
        "麁鹿火"
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      "kind": "豪族・臣",
      "form_kojiki": "物部荒甲之大連",
      "form_nihonshoki": "物部麁鹿火",
      "historicity": "実在の可能性あり",
      "historicity_basis": "古事記と日本書紀がともに磐井の乱の将としてこの人物を記し、先代旧事本紀「天孫本紀」も物部氏の系譜に大連として載せる。乱の相手である筑紫君磐井については、福岡県八女市の岩戸山古墳を筑後国風土記逸文が「筑紫君磐井の墓」と記し石人石馬も現存するが、麁鹿火自身の名を伝える同時代史料や金石文は知られていない。",
      "role": "征服",
      "description": "日本書紀では武烈即位前紀に大連として名が現れ、継体21年に筑紫君磐井の反乱に際して将軍に任じられ、翌年に筑紫の三井郡で磐井を斬ったと記される。出征に際して天皇が長門より東は自らが治め筑紫より西は汝が治めよと授権したとする記事は、6世紀前半の王権と九州の関係を示す記述としてくり返し論じられてきた。古事記も物部荒甲之大連の名で同じ討伐を記すが、磐井を殺したとのみ簡潔に伝える。大和の王権が地方の勢力を武力で組み込む過程を代表する人物として置かれる。",
      "worship": "個人を祀る社は知られない。物部氏の祭祀は大和の石上神宮と石見の物部神社に集約されており、実在の当主が祖神とは別に祀られることはなかった。",
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      "name": "蘇我稲目",
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        "宗賀之稲目宿禰大臣",
        "蘇我稲目宿禰",
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      "kind": "豪族・臣",
      "form_kojiki": "宗賀之稲目宿禰大臣",
      "form_nihonshoki": "蘇我稲目宿禰",
      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "日本書紀のほか、元興寺伽藍縁起并流記資財帳と上宮聖徳法王帝説がこの人物の名で仏像の受容と向原の家を寺としたことを記し、記紀とは系統の異なる寺院側の記録が並行する。奈良県高市郡明日香村の豊浦寺（向原寺）跡の発掘でも6世紀後半にさかのぼる遺構が確認されている。",
      "role": "媒介",
      "description": "欽明朝の大臣で、娘の堅塩媛・小姉君を欽明天皇に入れ、用明・崇峻・推古をはじめ以後の天皇の多くがその外孫にあたる。日本書紀は、百済から伝えられた仏像の受容を問われて崇仏を主張し、排仏を説く物部尾輿・中臣鎌子と対立したと記し、私邸の向原の家を寺としたと伝える。屯倉の設置と王権の財政運営にかかわる記事も多く、外戚としての地位と実務によって蘇我氏の権勢の基礎を築く位置に置かれる。古事記も宗賀之稲目宿禰大臣の名で妃の父として記す。",
      "worship": "祀られる社はない。私邸の向原の家を寺としたという日本書紀の記事について、明日香村豊浦の向原寺と豊浦寺跡がその地と伝えられ、発掘によって7世紀の寺院遺構が確認されている。同村の都塚古墳は2014年の調査で階段状の方墳と判明し、規模と年代からこの人物の墓に擬する説が出されている。",
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      "name": "蘇我馬子",
      "name_en": "Soga no Umako",
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        "嶋大臣",
        "蘇我馬子宿禰",
        "豊浦大臣"
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      "historicity_basis": "元興寺伽藍縁起并流記資財帳と上宮聖徳法王帝説が日本書紀とは別系統でこの人物の事績を伝え、飛鳥寺（法興寺）跡の発掘により6世紀末から7世紀初頭の造営と塔心礎の埋納品が確認されて造営記事と時期が合う。奈良県明日香村の石舞台古墳を日本書紀のいう桃原墓に比定する説も広く支持されている。",
      "role": "秩序化",
      "description": "稲目の子で、敏達から推古までの4代にわたり大臣を務めた。日本書紀は、587年に物部守屋を滅ぼし、592年には東漢直駒に崇峻天皇を殺させ、推古を立てて厩戸皇子とともに政務にあたったと記す。飛鳥寺の造営、冠位十二階と憲法十七条、天皇記・国記の編纂がその治世に置かれる。臣下が天皇を殺した事実を正史がそのまま載せている点は、のちの蘇我氏の描かれ方を考えるうえでの手がかりとなる。",
      "worship": "祀られる社はない。明日香村の石舞台古墳は日本書紀が記す桃原墓に当てる説が有力で、1933年と1935年の京都帝国大学による発掘で巨大な横穴式石室と削平された墳丘が確認された。陵墓に治定されていないために調査が可能であった点が、天皇陵の場合との違いを示している。",
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      "name": "物部守屋",
      "name_en": "Mononobe no Moriya",
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        "物部守屋大連",
        "弓削大連",
        "物部弓削守屋"
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      "form_nihonshoki": "物部守屋",
      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "日本書紀のほか元興寺伽藍縁起并流記資財帳と上宮聖徳法王帝説が587年の争乱を伝え、先代旧事本紀「天孫本紀」も物部氏の系譜にこの人物を大連として記す。ただし旧事本紀の物部氏系譜は物部氏側が伝えた資料に基づくとみられ、鎌田純一以来その史料価値は認められつつも独立の検証にはならない。",
      "role": "抵抗",
      "description": "尾輿の子で敏達・用明朝の大連。日本書紀は、疫病の流行を仏法のためとして寺を焼き仏像を難波の堀江に流したと記し、用明の没後の587年に穴穂部皇子を擁立しようとして蘇我馬子らの軍に攻められ、河内の渋川の家で子とともに討たれたとする。この丁未の乱により物部氏の本宗は絶え、蘇我氏が朝廷の主導権を握る。仏教の受容をめぐる対立として語られるこの争乱を、王位継承と豪族間の勢力争いとして読む見方も有力である。",
      "worship": "大阪府八尾市の大聖勝軍寺の付近に守屋の墓と伝える塚があり、討った側の四天王寺にも守屋を祀る祠が置かれて、敗者を鎮める形の祭祀が続いてきた。八尾の渋川神社など河内の古社は物部氏の勢力圏に立地するが、守屋自身を主祭神とする例は多くない。長野県の守屋山や諏訪大社の神長官守矢氏をこの人物に結びつける説は近世以降に生じたもので、古代の資料に根拠はない。",
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      "name": "蘇我蝦夷",
      "name_en": "Soga no Emishi",
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        "蘇我豊浦大臣",
        "毛人",
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      "historicity": "実在が有力",
      "historicity_basis": "日本書紀のほか、藤原仲麻呂の編とされる760年ごろの藤氏家伝がこの人物と入鹿の専横を記し、別系統の記録が存在する。奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡の発掘で7世紀前半の建物跡と焼土層が確認され、日本書紀のいう甘樫丘の邸宅との関連が指摘されているが、居住者の特定には至っていない。",
      "role": "専権",
      "description": "馬子の子で、推古の没後に舒明を立て、舒明の没後は皇極を立てて大臣を務めた。日本書紀は、祖廟で八佾の舞を用い、自らと入鹿の墓を大陵・小陵と称し、天皇に諮らず紫冠を入鹿に授けたと記して、臣下が天子の礼を犯した事例を並べる。645年の乙巳の変で入鹿が殺された翌日に邸宅へ火を放って自害し、天皇記・国記が焼けたと伝えられる。これらの記述は、変を起こした側の系譜に連なる者が編纂にかかわった正史によるものであり、蘇我氏の描像自体が変の正当化という枠組みのなかにある可能性が指摘されている。",
      "worship": "祀られる社はない。邸宅が置かれた甘樫丘の東麓では2005年以降の調査で7世紀前半の建物跡と焼土層が確認され、日本書紀が記す焼亡の記事と重ねて論じられている。",
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      "name": "蘇我入鹿",
      "name_en": "Soga no Iruka",
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        "蘇我鞍作",
        "林太郎",
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      "kind": "豪族・臣",
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      "historicity_basis": "日本書紀と藤氏家伝がともにその専権と殺害を記し、別系統の記録が並行する。山背大兄王の攻撃と斑鳩宮の焼亡については、法隆寺若草伽藍跡から7世紀前半の焼失層が確認されており記事と整合するとみる見方があるが、これを直ちに事件の裏づけとすることには慎重論もある。",
      "role": "簒奪",
      "description": "蝦夷の子で、父から紫冠を授けられて国政を執り、643年に斑鳩宮を攻めて厩戸皇子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼしたと日本書紀は記す。645年6月、飛鳥板蓋宮での三韓進調の儀の場で中大兄皇子と中臣鎌足らに殺され、この事件が乙巳の変と呼ばれる。日本書紀はこの人物を王位を狙う臣として描くが、その記述は変によって権力を得た側の朝廷が編んだ正史のものであり、門脇禎二らは蘇我氏の政治的役割を排除された側の視点から見直すことを説いた。記述の内容と、その記述が置かれた位置とを分けて扱う必要がある例である。",
      "worship": "奈良県橿原市小綱町の入鹿神社はこの人物を祭神とし、明治期に祭神の改称を求められた際に氏子が応じなかったと伝えられる。明日香村の飛鳥寺西の五輪塔は入鹿の首塚と呼ばれ、討った側の鎌足を祀る談山神社と対をなす位置に置かれてきた。逆臣として正史に記された人物が、在地では祭祀の対象として残り続けた例である。",
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      "name": "中臣鎌足",
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      "historicity_basis": "日本書紀に加え、760年ごろに藤原仲麻呂が編んだとされる藤氏家伝上巻「大織冠伝」が伝記を伝え、大阪府高槻市の阿武山古墳から出土した金糸を伴う漆塗籠棺と玉枕を大織冠にあたるとみて被葬者をこの人物とする説が有力である。ただし藤氏家伝は子孫が自家の由緒として編んだ書であり、記述の性格には注意を要する。",
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      "description": "中臣氏の出身で、日本書紀は法興寺の打毬の場で中大兄皇子と結び、645年に蘇我入鹿を討ったと記す。孝徳朝では内臣として、天智朝では669年の死の直前に大織冠と藤原の姓を賜り、藤原氏の始祖となる。日本書紀の編纂は子の不比等が政権の中枢にあった時期に完了しており、乙巳の変とその後の政治過程の記述にこの立場が反映した可能性は、直木孝次郎・遠山美都男らによりくり返し論じられてきた。学説の分布としては、当該巻の潤色を認めつつ変そのものの実在は動かないとする立場が多数を占め、変の意義や規模の評価には幅がある。",
      "worship": "奈良県桜井市の多武峰は鎌足の墓を移したと伝え、十三重塔と聖霊院を中心に藤原氏の追善の場となったが、1869年の神仏分離で寺は廃されて談山神社となり、鎌足を祭神とする神社へ改められた。藤原氏の氏神である春日大社が祀るのは武甕槌命ら4座であって鎌足自身ではなく、祖の祭祀と氏神の祭祀は別に立てられている。1934年に高槻市の阿武山古墳で見つかった夾紵棺と玉枕・金糸の冠帽は、被葬者を鎌足とする説の根拠として現在も論じられている。",
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      "name": "佐太大神",
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      "historicity_basis": "出雲国風土記（733年成立、現存する風土記のうち唯一ほぼ完本）が所造天下大神・熊野大神・野城大神と並ぶ四大神の一つに数える出雲西部の主神で、歴史的実在は想定されない。中世以降サルタヒコと同一視されるが、これは佐太神社の社伝を通じた後代の接続とみるのが秋本吉郎・植垣節也らの校注の立場である。",
      "role": "秩序化",
      "description": "出雲国風土記島根郡加賀郷の条に、支佐加比売命が加賀の神埼の岩屋で産んだ神として記される。母が「暗き岩屋なるかも」と言って金の弓矢を射たところ岩屋が光り輝いたことが加賀の地名の由来とされ、この窟を船で通る者は必ず声を上げて過ぎねば神が現れて船を覆すという禁忌が併せて記される。記紀にはこの神も誕生譚も現れず、出雲が独自に伝えた大神である。中世以降サルタヒコと重ねられてきたが、風土記の記述にその根拠はない。",
      "worship": "島根県松江市の佐太神社は延喜式神名帳に出雲国秋鹿郡の大社として載り、出雲国二宮として神在祭を伝え、佐陀神能は2011年にユネスコの無形文化遺産に登録された。中世以降、正中殿の祭神を猿田彦大神とする理解が定着したが、出雲国風土記の佐太大神の記述に猿田彦と結ぶ根拠はなく、名の音の近さによる読み替えとみられる。在地の大神が記紀の神名へ置き換えられる過程を、風土記の本文と現在の祭神表記の差として確かめられる例である。",
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      "historicity_basis": "出雲国風土記島根郡の加賀郷および加賀神埼の条にのみ現れる神で、歴史的実在は想定されない。名は赤貝を指すキサ貝に由来するとみられ、古事記のオオナムチ蘇生譚に現れる𧏛貝比売と同じ語であることから両者を結ぶ説があるが、出雲国風土記の側にそれを支える記述はない。",
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      "description": "出雲国風土記島根郡加賀神埼の条に、佐太大神を産んだ母神として記される。出産にあたって弓矢を失い、わが御子が麻須羅神の御子であるならば失せた弓矢よ出でよと祈ると角の弓矢が流れ出たが、これは違うと投げ棄て、次に現れた金の弓矢で暗い岩屋を射通したという。産む神が自ら光をもたらす形の誕生譚であり、記紀の神話体系に対応する場面はない。古事記の𧏛貝比売と名を同じくするが、オオナムチを蘇らせる役を負う記の神とは機能が異なる。",
      "worship": "松江市島根町の加賀神社が支佐加比売命を祀り、延喜式神名帳の出雲国島根郡にも加賀神社の名が見える。出産の舞台とされる加賀の潜戸は現在も遊覧船が通う景勝地であり、風土記が記す声を上げて過ぎねばならないという禁忌は洞窟に対する在地の畏れの記録として読まれてきた。古事記の𧏛貝比売と名を共有するが、両者を同一とする理解は出雲側の伝承には見えない。",
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        "ワカフツヌシ"
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      "historicity_basis": "出雲国風土記の意宇郡や出雲郡美談郷など複数の条に「所造天下大神の御子」として現れる神で、歴史的実在は想定されない。日本書紀の経津主神と名の要素を共有することから同神とする説があるが、出雲側の記述に国譲りの武神としての性格はなく、別神とみる見方が主流である。",
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      "description": "出雲国風土記に、天の下所造らしし大神すなわち大穴持命の御子として現れ、意宇郡や出雲郡美談郷などの地名起源に結ばれる神である。狩猟と農耕にかかわる神格として在地に祀られ、内神社・美談神社などがその名を伝える。日本書紀の経津主神と名の要素を共有するが、出雲側の記述には国譲りの使者としての性格がなく、同神とみる説と別神とみる説が分かれる。記紀が語らない大穴持命の子神の系譜が、出雲では独自に展開していたことを示す。",
      "worship": "松江市の内神社と出雲市の美談神社がこの神を祀り、いずれも出雲国風土記に見える社に由来する。名の要素を共有する日本書紀の経津主神と同一視する説は後代に現れるが、風土記の記述に国譲りの使者としての性格はない。大穴持命の御子神という出雲独自の系譜が、中央の神統譜へ吸収されずに社名と祭神表記の形で残った例である。",
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      "description": "出雲国風土記意宇郡の熊野山に鎮座する大神として記され、出雲国造の火継神事の中心をなす熊野大社の祭神である。出雲国造神賀詞はこの神を伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命と呼び、櫛御気野命は現在スサノオの別名と解されるが、風土記の本文はこの神をスサノオと結びつけていない。記紀のスサノオが高天原を追われる神として描かれるのに対し、出雲では国造家が奉斎する第一の大神として置かれており、両者を重ねる理解は後代の接続である。",
      "worship": "松江市八雲町の熊野大社は延喜式神名帳に出雲国意宇郡の熊野坐神社として名神大に列し、出雲国一宮として出雲国造の火継神事の中心をなす。新任の国造がこの社で鑽火の神器を受け、出雲大社から持参した餅に社家の亀太夫が苦情を述べる亀太夫神事が現在も続く。櫛御気野命をスサノオとする理解は中世以降に定着して明治以降の祭神表記にも採られたが、出雲国風土記はこの神をスサノオと結んでおらず、紀伊の熊野三山とも系統を異にする。",
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      "historicity_basis": "常陸国風土記（一部が現存）行方郡の条にのみ記される在地の蛇神で、歴史的実在は想定されない。志田諄一は現行本文に編纂者の儒教的な潤色を認め、原話は神を祀ることで開発と子孫の繁栄が得られたとする内容であったとみる。関幸彦は箭括麻多智の族長的な開発と壬生連麿の律令的な開発とを対比して収めたものと解する。",
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      "description": "常陸国風土記行方郡の条に、蛇の身で頭に角をもち、見た者は家門を破り子孫が絶えるとされる谷の神として記される。継体天皇の世に箭括氏麻多智が葦原を開墾した際に群れ集まって妨げ、打ち殺され追われたうえで、山口に立てた標の杖より上を神の地と定められ、麻多智が祝となって祀ることになる。孝徳天皇の世には壬生連麿が池を築こうとしたとき椎の株に集まって去らず、目に見える魚虫の類は憚りなく打ち殺せと命じられて姿を隠したと記される。開拓する側の記録でありながら、境を定めて祀るという妥協と、それすら打ち切る後の場面とを並べて残しており、在地信仰と律令的開発の衝突を最も直接に伝える説話である。",
      "worship": "延喜式神名帳の常陸国行方郡にこの神名を冠する社の記載はなく、律令の祭祀体系に組み込まれなかった神である。茨城県行方市には現在も夜刀神社が伝えられ、風土記の伝承地として維持されている。国家の神名帳に載らないことと、在地で祀られ続けることが両立している点に、この神の位置が現れている。",
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      "name": "箭括麻多智",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "常陸国風土記行方郡の条にのみ現れ、他の史料に対応する記録がないため検証手段がない。箭括氏は在地の氏族とみられ、夜刀神を祀る社の祝職の由来を語る伝承の主人公として造形された可能性が指摘されている。",
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      "description": "常陸国風土記行方郡の条に、継体天皇の世に郡家の西の谷の葦原を開いて新たに田としたと記される人物である。妨げる夜刀神を、甲を着て自ら打ち殺し追い払ったのち、山の口に標の杖を立てて、ここより上は神の地、ここより下は人の田と境を定め、自ら祝となって永代に祀ると誓い社を設けたとされる。開拓者がそのまま祭祀者となることで在地の神との関係を結び直す形が、中央の神話にはない具体性で記録されている。子孫が代々この祭を継いだとも記され、氏族の祝職の由緒としての性格をもつ。",
      "worship": "祀られる側ではなく祀る側として記録された人物であり、常陸国風土記は自ら祝となって永代に祭を絶やさぬと誓い、子孫が代々これを継いだと記す。開拓者が神との境を定めたうえで祭祀者となるという形は、氏族が祖を祀って由緒を主張する構造の早い段階を示す記録として読まれてきた。",
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      "name": "壬生連麿",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "常陸国風土記行方郡の条に孝徳朝の人物として記されるが、他の史料に対応する記録を欠く。行方郡の建郡にかかわる壬生氏の伝承を担う人物とみられ、個人としての実在は検証できない。",
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      "description": "常陸国風土記行方郡の条に、難波長柄豊前大宮に天下を治めた天皇すなわち孝徳天皇の世、谷の池に堤を築かせた人物として記される。夜刀神が池のほとりの椎の株に集まって去らないのを見て、この池を修めるのは民を活かすためである、いかなる神が風化に従わないのかと言い、役民に目に見える魚虫の類は憚り恐れることなく打ち殺せと命じたところ、神は避け隠れたという。箭括麻多智が境を定めて祀ったのに対し、こちらは神の領分そのものを認めない。律令国家の開発が在地の神をどう扱ったかを、同じ郡の条が二段構えで記している。",
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        "武葉槌命",
        "天羽槌雄神（同神とみる説による）",
        "シトリノカミ"
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "日本書紀神代下第九段の一書第二にのみ現れ、古事記には登場しない。倭文の織物を職掌とする倭文氏の祖神で、同書の天岩戸の一書に見える倭文神天羽槌雄神と同神とみる説が有力である。",
      "role": "征服",
      "description": "日本書紀の一書に、葦原中国平定の際に最後まで服さなかった星の神香香背男を服従させた神として記される。倭文の織物を司る神であり、武神ではなく織る神が星の神を制するという配置が、この記述の特異な点である。常陸国風土記にこの神の名は現れないが、同書久慈郡の静織里が綾を織る機を初めて用いた地として記されること、常陸国那珂に倭文神を祀る静神社があることから、常陸の在地祭祀とこの神を結ぶ理解が後に成立した。日立の大甕神社はこの神を祭神とし境内の宿魂石を香香背男の化身とするが、その縁起は近世に整えられたもので風土記には遡らない。",
      "worship": "茨城県那珂市の静神社は延喜式神名帳に常陸国久慈郡の名神大として載り、常陸国二宮としてこの神を祀って倭文の織物の由緒を掲げる。日立市の大甕神社は式内社ではなく、この神を祭神として境内の宿魂石を香香背男の化身とするが、その縁起は近世に整えられたもので風土記には遡らない。中央の神話に一度だけ現れる織物の神が常陸の在地祭祀と結ばれて土地の由緒になる過程が、両社の性格の差に現れている。",
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      "name": "香香背男",
      "name_en": "Kagaseo",
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        "天香香背男",
        "星神香香背男",
        "天津甕星",
        "甕星香々背男"
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      "form_nihonshoki": "天津甕星（亦の名を天香香背男・星神香香背男とする）",
      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "日本書紀神代下第九段の一書第二にのみ現れ、古事記には登場しない。記紀神話で唯一の星の神であり、天に属しながら服従しない位置に置かれる点について、天体祭祀をもつ在地集団の記憶とみる説と、平定譚の完結を強調するための文飾とみる説が分かれる。",
      "role": "犠牲",
      "description": "日本書紀の一書は葦原中国平定に先立ち、天に悪しき神あり名を天津甕星、亦の名は天香香背男と記し、まずこの神を誅してから地上を平らげようとする議を載せる。平定がほぼ終わったのちも星の神香香背男だけが服さず、倭文神建葉槌命を遣わしてようやく従ったとも記される。記紀の神々のうち天に属しながら天に抗する位置に立つ神は他になく、従わない者を天上にも配置するという構成そのものが異例である。常陸国風土記にこの神の名は見えないにもかかわらず、後世に常陸国大甕の地の伝承へ接続され、中央の平定神話が取りこぼした信仰の痕跡として読まれてきた。",
      "worship": "単独で祀る社はなく、延喜式神名帳にも記載がない。日立市の大甕神社では制圧された側として境内の宿魂石にその名が結ばれ、封じられた神という形で祭祀の内部に位置を与えられている。まつろわぬ神としての読み方は近代以降に広まり、20世紀後半には創作や地域振興の場で参照されることが増えた。",
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      "name": "伊和大神",
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        "葦原志許乎命",
        "葦原志挙乎命",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "播磨国風土記（715年前後の成立とされ、平安末期の三条西家本により大半が伝わるが総説・明石郡・赤穂郡などを欠く）に播磨の国作りの神として繰り返し現れ、宍粟の伊和神社に祀られる。記紀のオオクニヌシと重ねられてきたが、同書は葦原志許乎命・大汝命の呼称も併用しており、複数の在地伝承が一つの大神に集約された過程を示すとみるのが秋本吉郎・植垣節也らの校注の立場である。",
      "role": "創造",
      "description": "播磨国風土記に播磨の国土を作り地名の由来を残した大神として広く現れ、宍禾郡では渡来した天日槍命と国占めを争う。揖保郡粒丘の条では、葦原志許乎命として宇頭川に来た天日槍命に海を宿として与え、その勢いを畏れて先に国を占めようと巡り、口から落ちた米粒が丘の名になったと語られる。同書は大汝命の名でも国作りの神を記すが、これら三つの呼称を明示的に一つの神として結んではいない。記紀のオオクニヌシと同一視されてきたのは事実だが、それは同じ神であることの証明ではなく、播磨の在地神が中央の国作り神に重ねられてきたという事実の記録である。",
      "worship": "播磨国一宮の伊和神社は延喜式神名帳に播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社として名神大に列し、明治期に国幣中社へ列した。この社名は10世紀の段階で在地の伊和大神が既に大名持すなわち大己貴命として記録されていたことを示しており、風土記の記す土地固有の大神が中央の国作り神へ読み替えられる過程は延喜式の編纂までに完了していたことになる。現在の祭神表記も大己貴神である。",
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      "name": "天日槍",
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        "天日槍命",
        "日桙",
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      "kind": "渡来の人物",
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      "form_nihonshoki": "天日槍",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "古事記応神記・日本書紀垂仁紀・播磨国風土記・筑前国風土記逸文に現れるが記述は相互に食い違い、一人の人物の事績とみる根拠がない。日矛を祭具とする半島系の渡来集団の始祖を人格化した伝承とみるのが通説で、但馬出石の伝承が神功皇后の系譜に組み込まれた過程が論じられている。",
      "role": "征服",
      "description": "古事記は新羅の国主の子とし、阿加流比売を追って渡来して但馬に留まり、神功皇后につながる多遅摩の系譜を開いたと記す。日本書紀は垂仁3年に新羅の王子として七つの神宝を携えて帰化したとし、初め播磨の宍粟邑に泊まって尋問を受けたとする一伝を載せる。これに対し播磨国風土記は帰化の物語をとらず、伊和大神すなわち葦原志許乎命と黒葛を投げ合って土地を占め合う対等の争いの相手として描き、宍禾郡や揖保郡の地名起源をこの争いに結ぶ。中央の史書が渡来と服属の物語に整えた人物を、播磨は在地の大神と互角に土地を分けた神として伝えている。",
      "worship": "但馬国一宮の出石神社は延喜式神名帳に但馬国出石郡の伊豆志坐神社八座として名神大に列し、伊豆志八前大神とともに天日槍命を祀って、明治期に国幣中社へ列した。渡来した王子が但馬では一宮の祭神として定着する一方、播磨では在地の大神と土地を争う相手として伝えられており、同じ名の存在が国ごとに異なる位置を与えられている。",
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      "name": "五馬媛",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "豊後国風土記日田郡五馬山の条に一文が記されるのみで、他の史料に対応がなく検証手段がない。同書の土蜘蛛記事は景行天皇の巡幸伝承の枠内で在地の勢力を記すもので、実在の人物の記録として読めるかどうかは定まっていない。",
      "role": "始祖",
      "description": "豊後国風土記日田郡の条に、この山に土蜘蛛がおり名を五馬媛といった、それによって五馬山というと記される。討伐の場面を伴わず地名の由来としてのみ残る例で、同書の他の郡が土蜘蛛の討伐を詳しく語るのと対照をなす。中央が土蜘蛛と呼んだ在地の勢力に女性の首長が数えられていたことを示す短い記録であり、その名が山の名として定着した点に在地側の記憶がうかがえる。記紀にこの名は現れない。",
      "worship": "祀られる社は知られない。大分県日田市天瀬町の五馬という地名が現在も用いられており、風土記が記した名が山と地域の呼称として残った形になっている。",
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      "name": "土蜘蛛",
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "集団の呼称",
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      "form_nihonshoki": "土蜘蛛",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "記紀と各国風土記に広く現れるが、いずれも中央の側が服属しない在地の勢力を指して用いた他称であり、自称としての用例はない。穴に住み背が低く尾があるといった描写は服属させる側の定型とみられ、実体としては律令支配に組み込まれる以前の在地首長層を指すと解するのが秋本吉郎・植垣節也らの校注をはじめとする通説である。",
      "role": "犠牲",
      "description": "中央の史書と風土記が服属しない在地の勢力を呼ぶのに用いた語で、個別の名を伴って記される点に風土記の特徴がある。豊後国風土記は直入郡禰疑野の打猨・八田・国摩侶、大野郡網磯野の小竹鹿奥・小竹鹿臣、日田郡五馬山の五馬媛らを挙げ、肥前国風土記は総記の打猨・頸猨のほか松浦郡の海松橿媛・大耳・垂耳、彼杵郡の浮穴沫媛など多数を記す。名を持ち土地に結ばれて記録されているという点で、これらは中央から見た他称でありながら在地の首長の存在を伝える資料でもある。この語は後世に蔑称としての含意を強めて用いられてきた経緯があり、記述はあくまで中央の側の呼称として扱う必要がある。",
      "worship": "風土記が在地の首長の他称として用いた語は、平安末期以降の説話で山中に棲む怪異の名へ転じ、能の『土蜘蛛』や近世の絵画を通じて妖怪の像が定着した。奈良県御所市の高天彦神社の蜘蛛窟や京都の蜘蛛塚のように、塚として祀り鎮める形の遺構が各地に残る。近代には人種起源論の文脈で先住民の呼称として用いられた時期もあり、中央からの他称が時代ごとに別の枠組みへ組み替えられてきた語である。",
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      "name": "世田姫",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "肥前国風土記（一部が現存）佐嘉郡の条に川上の石神として記される在地の神で、歴史的実在は想定されない。中世以降の社伝が與止日女を神功皇后の妹とするが、これは肥前国一宮としての由緒を整える過程で付されたもので風土記には遡らない。",
      "role": "媒介",
      "description": "肥前国風土記佐嘉郡の条は、佐嘉川の川上に石神があり名を世田姫といい、海の神である鰐魚が年ごとに潮に従って遡り、海底の小魚を多く従えてこの神のもとに至ると記す。海と川を往還する魚が神に詣でるという形で、川上の神と海の信仰が結ばれている。同じ郡の条には、行き交う人の半ばを殺す荒ぶる神を、土蜘蛛の大山田女・狭山田女の助言によって人形と馬形を作り鎮めた話も並び、中央の神統譜に接続されない在地の神の姿がそのまま残る。記紀にこの神の名は現れない。",
      "worship": "佐賀県佐賀市大和町の與止日女神社は延喜式神名帳に肥前国佐嘉郡の社として載り、肥前国一宮として川上大明神とも呼ばれた。中世以降この神を神功皇后の妹とする説が広まり、近世には別当寺の実相院が置かれて神仏習合のもとで祀られ、明治の神仏分離で寺は分離された。現在の祭神表記は與止日女命であるが豊玉姫命と同一とする説も併記されており、風土記が記した川上の石神が中央の神話の系譜へ順に接続されていった過程が、祭神説の重なりとして残っている。",
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      "name": "賀茂建角身命",
      "name_en": "Kamo Taketsunumi no Mikoto",
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        "賀茂建角身",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "山城国風土記は現存せず、この神の事績は釈日本紀が引く逸文によってのみ伝わる。新撰姓氏録が八咫烏に化して神武を導いた賀茂県主の祖とすることから、賀茂氏の始祖伝承が神武東征譚に接続された結果とみられている。",
      "role": "始祖",
      "description": "山城国風土記逸文は、この神が日向の曾の峰に天降り、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、山代国の岡田の賀茂を経て賀茂川を遡り、久我国の北の山の麓に鎮まったと記す。丹波の伊可古夜日売を娶って玉依日子・玉依日売をもうけ、賀茂県主の祖となったとされる。記紀は東征の先導者を八咫烏という鳥の姿でのみ記し、その名も系譜も語らない。両者を同一とする理解は新撰姓氏録以降のもので、氏族の始祖伝承が中央の建国譚に接ぎ木された経緯を示している。",
      "worship": "賀茂御祖神社（下鴨神社）は延喜式神名帳に山城国愛宕郡の賀茂御祖神社二座として名神大に列し、賀茂県主が奉斎してこの神と玉依媛命を祀る。賀茂祭は平安期に勅祭とされ、810年以降は斎院が置かれて王権の祭祀に組み込まれた。記紀が名も系譜も語らない八咫烏とこの神を同一とする理解は新撰姓氏録以降のもので、氏族の始祖伝承が建国譚に接続された結果である。",
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      "name": "玉依日売（賀茂）",
      "name_en": "Tamayorihime (Kamo)",
      "aliases": [
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        "賀茂玉依姫",
        "玉依媛命（賀茂社の祭神）"
      ],
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      "kind": "巫女・祭祀者",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "山城国風土記逸文（釈日本紀所引）の賀茂伝承にのみ現れる。タマヨリヒメは神の依り代となる巫女を指す職能名が人格化したものと解されており、同名の女神が各地の伝承に複数存在するため、記紀の海神の娘タマヨリビメとは別の存在として扱う必要がある。",
      "role": "媒介",
      "description": "山城国風土記逸文は、賀茂建角身命の娘であるこの女性が石川の瀬見の小川で流れ下る丹塗矢を拾い床の辺に置いたところ懐妊し、賀茂別雷命を産んだと記す。生まれた子が父と思う者に酒を勧めよと言われて屋根を突き抜け天に昇ったことで、丹塗矢が火雷命であったと知れる。上賀茂・下鴨両社の祭神の由来をなす伝承である。記紀のウガヤフキアエズの妻タマヨリビメと同名だが系譜も事績も異なる別の存在であり、名を共有するのは依り代となる巫女を意味する職能名だからである。",
      "worship": "賀茂御祖神社に父の賀茂建角身命とともに祀られ、その子とされる賀茂別雷命を祀る賀茂別雷神社（上賀茂神社）とあわせて二社一体の祭祀を構成する。丹塗矢による懐妊の伝承は、矢を神の依り代とする祭祀の形を語るものとして両社の由緒の中心に置かれてきた。両社は明治に官幣大社に列し、1994年に世界遺産の構成資産となっている。",
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    {
      "id": "FIG-0157",
      "name": "若野毛二俣王",
      "name_en": "Prince Wakanuke no Futamata",
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        "稚野毛二派皇子",
        "若沼毛二俣王"
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      "confidence": "B",
      "confidence_label": "有力だが異説あり",
      "kind": "皇族・王族",
      "form_kojiki": "若野毛二俣王",
      "form_nihonshoki": "稚野毛二派皇子",
      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "記紀は応神天皇の子として名を挙げるのみで事績を記さない。継体天皇へ至る系譜の起点として機能する位置にあり、平野邦雄・大橋信弥らはこの系譜が継体の即位後に整えられた可能性を論じている。",
      "role": "継承",
      "description": "古事記・日本書紀がともに応神天皇の子として名を記す皇子である。事績はほとんど伝えられないが、継体天皇を応神の5世孫とする系譜の起点にあたる。日本書紀本文は継体を「応神天皇五世孫」とのみ記し、その間の4代を具体的に挙げるのは釈日本紀が引く上宮記の一云である。",
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      "name": "意富富杼王",
      "name_en": "Prince Ohodo",
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        "大郎子",
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      "kind": "皇族・王族",
      "form_kojiki": "意富富杼王",
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      "historicity": "実在は不明",
      "historicity_basis": "古事記が三国君・波多君ほか諸氏の祖として名を挙げる。日本書紀本文には現れず、継体への系譜における位置は上宮記の一云に依る。",
      "role": "継承",
      "description": "古事記が若野毛二俣王の子とし、三国君をはじめ北陸・近江の諸氏の祖と記す王である。日本書紀本文に名がなく、継体天皇へつながる系譜としての位置づけは釈日本紀所引の上宮記による。継体の出自を北陸・近江の勢力に結ぶ手がかりとして論じられてきた。",
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      "name_en": "Prince Ohi",
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      "historicity_basis": "記紀本文に名がなく、釈日本紀が引く上宮記の一云にのみ現れる。上宮記の成立年代については7世紀後半とする説と、より後とする説が並立している。",
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      "description": "継体天皇の祖父にあたるとされる王である。古事記にも日本書紀にも名がなく、釈日本紀が引用する上宮記の逸文にのみ伝えられる。万世一系の系譜が記紀本文だけでは接続せず、別の文献に依存している箇所にあたる。",
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      "description": "継体天皇の父とされる王である。近江の高島に拠り、越前三国の振媛を妻に迎えたと上宮記の逸文は記す。継体が応神の5世孫であるという主張は、記紀本文ではなくこの系譜によって初めて具体的な形をとる。",
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      "historicity_basis": "古事記は開化天皇と丸邇臣の祖日子国意祁都命の妹意祁都比売命との子とし、崇神天皇段で旦波国に遣わされて玖賀耳之御笠を殺したと記すが、日本書紀本文にこの人物の事績の記載はない。丹後には弥生後期から大規模な墳丘墓と玉作工房が存在し、大陸との交易を持つ勢力があったことが確認されるが、記紀の個々の人物と遺跡を結びつける手段はない。",
      "role": "媒介",
      "description": "古事記は開化天皇の子、崇神天皇の異母弟とし、4人の妻との間に多くの子をもうけたと記す。崇神天皇段では旦波国に遣わされて玖賀耳之御笠を殺し、一方でその子とされる丹波道主命の娘たちが垂仁天皇の后妃となるため、討伐譚と婚姻譚の双方に位置することになる。後裔とされる氏族は近淡海之安直・葛野之別・若狭之耳別・三川之穂別・日下部連など近江・山城・丹波・但馬・北陸に広がり、山代之大筒木真若王の系統は息長宿禰王を経て神功皇后につながる。一人の人物の事績としてよりも、日本海側と近江の在地勢力を大和王権の血に接続する系譜上の結節点として読む見方が提出されている。",
      "worship": "丹後国風土記残欠は、崇神天皇の時に青葉山中にいた陸耳御笠・匹女を日子坐王が勅命によって討ったと伝え、福知山市大江町の河守・有路、大江山、由良、楯原などを伝承地とする。同書は中世から近世にかけての成立とみる説があり、成立年代と真正性が問題視される文献である。",
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      "historicity_basis": "古事記が近江の御上の祝がいつく天之御影神の女と記すのみで、日本書紀に対応する記載がない。「息長」を名に負う人物として古事記に最初に現れるが、近江坂田郡の息長氏との関係を検証する同時代史料はない。",
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      "description": "古事記は日子坐王の妻の一人とし、近江の御上の祝が祭る天之御影神の女と記す。生んだ子として丹波比古多多須美知能宇斯王・水穂之真若王・神大根王・水穂五百依比売・御井津比売の5人を挙げ、丹波へつながる系統の起点にあたる。近江の神の女が丹波の王統を生むという構成は、日子坐王の系譜が近江と日本海側を結ぶ形で組まれていることを示す。",
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      "historicity_basis": "古事記は日子坐王と息長水依比売の子とし、日本書紀は崇神天皇10年条で丹波に派遣された将軍とするが、垂仁紀には父を彦湯産隅王とする別伝も併記される。丹後には弥生後期から大規模な墳丘墓と玉作工房が存在し、大陸との交易を持つ勢力があったことが確認されるが、記紀の個々の人物と遺跡を結びつける手段はない。",
      "role": "媒介",
      "description": "日本書紀は崇神天皇10年9月条で、大彦命（北陸）・武渟川別（東海）・吉備津彦命（西道）とともに丹波へ派遣された将軍とし、後世これを四道将軍と総称する。古事記は丹波比古多多須美知能宇斯王と表記し、丹波之河上之摩須郎女との間の娘たちが垂仁天皇の后妃となったと記す。日葉酢媛命が皇后として景行天皇と倭姫命を生んだとされ、討伐の主体である日子坐王の子が、そのまま婚姻の供給元になるという構成をとる。日本書紀が父を彦湯産隅王とする別伝を併記する点は、丹波と王権を結ぶ系譜が一本化されていなかったことを示す。",
      "worship": "京丹後市久美浜の神谷太刀宮神社が祭神とし、国見の剣を祀ったとの伝承を伝えるが、神社の祭祀伝承は古墳の被葬者を確定する資料にはならない。丹後の大型前方後円墳である蛭子山1号墳・網野銚子山古墳・神明山古墳をこの人物に結びつける言説があるが、被葬者を示す銘文や墓誌は出土しておらず、宮内庁の陵墓治定も及んでいない。築造年代である4世紀中頃から5世紀初頭と、崇神・垂仁朝という説話上の位置づけとの間に大まかな重なりを見出せるにとどまる。",
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      "role": "媒介",
      "description": "日本書紀は、前の皇后である狭穂姫命の没後、垂仁天皇15年に丹波から妹たちとともに後宮に迎えられ、同年に皇后に立てられたと記す。生んだ子に景行天皇と倭姫命があり、丹波の女性が皇統と伊勢祭祀の双方の起点に置かれる。日本書紀はその葬儀に際し、野見宿禰の進言によって殉死に代えて埴輪を立てたとする埴輪起源説話を載せる。記紀の丹波記事のうち、討伐譚と併存する婚姻譚の中心にあたる人物である。",
      "worship": "陵は奈良市の佐紀陵山古墳に治定されている。幕末から明治にかけての陵墓治定による決定であり、考古学的な被葬者推定とは別の手続きである。",
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      "historicity_basis": "古事記が丹波道主命と丹波之河上之摩須郎女の子、三川之穂別の祖と記すのみで、日本書紀には現れない。三浦到は京丹後市の令和6年度網野銚子山古墳報告書で被葬者をこの人物とする蓋然性を述べるが、丹後王国論の枠組みと記紀系譜を前提に築造年代を突き合わせたものであり、被葬者を直接示す考古資料に基づくものではない。",
      "role": "始祖",
      "description": "古事記のみが名を挙げる王で、日葉酢媛命らの兄弟にあたり、三河の穂別の祖とされる。丹波道主命の子が東海の氏族の祖に置かれる点は、日子坐王の系譜が畿外の諸勢力を広く取り込む形で構成されていることの一例である。事績はいっさい伝えられない。",
      "worship": "門脇禎二が1980年代に提唱した丹後王国論は、弥生から古墳時代の丹後に大和や吉備と並ぶ独立性をもつ地域国家を想定するもので、主著は『丹後王国論序説 日本海域の古代史』（1986年）である。丹波道主命の系譜がどこまで史実を反映するか、方形台状墓の起源を丹後に求められるか、豊受信仰が4世紀後半から5世紀に遡るか、巨大前方後円墳はむしろ大和政権との結びつきによって築造されたのではないかといった批判があり、学説として扱う必要がある。この王国論を前提とした被葬者比定が自治体刊行物に現れることと、学界における承認とは区別される。",
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      "historicity_basis": "古事記が日子坐王と袁祁都比売命の子とし、同母弟伊理泥王の女丹波能阿治佐波毘売を娶って迦邇米雷王を生んだと記すのみで、日本書紀に対応する記載はない。事績を伴わない名のみの世代であり、系譜の連結のために置かれた可能性が論じられている。",
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      "description": "古事記の開化天皇段にのみ現れる王で、名に負う「大筒木」は山城国綴喜郡の古名にあたる。丹波の女性を娶って迦邇米雷王をもうけたとされ、以後、息長宿禰王を経て神功皇后に至る系統の起点となる。山城・丹波・近江を結ぶ形で系譜が構成されている点に、この系統の性格が現れている。",
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      "historicity_basis": "古事記の系譜記述にのみ現れ、日本書紀に対応する記載がない。事績を伴わない名のみの世代であり、日子坐王から神功皇后へ至る4代の連結を支える位置にある。",
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      "description": "古事記が山代之大筒木真若王の子とし、丹波之遠津臣の女高材比売を娶って息長宿禰王を生んだと記す王である。事績は伝えられず、系譜上の中継点としてのみ現れる。父と同じく丹波の女性を妻とする形で記されており、この系統が丹波との婚姻を重ねて描かれていることを示す。",
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      "historicity_basis": "古事記は迦邇米雷王の子とし、葛城之高額比売命との間に息長帯比売命・虚空津比売命・息長日子王を生んだと記す。日本書紀も気長宿禰王を神功皇后の父とするが事績を記さず、近江坂田郡を本拠とする息長氏については史料が乏しい。岡田精司は継体天皇を息長氏に出自をもつ新王朝の始祖とする説を提唱しており、この系譜は継体の出自論とも接続する。",
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      "description": "古事記が神功皇后の父とする王で、日子坐王から数えて4代目にあたる。近江坂田郡の息長を名に負い、この系統によって日子坐王の後裔が仲哀天皇の后、応神天皇の母へと接続される。丹波・山城・近江を経由してきた系譜がここで王統に合流する形になっており、系譜が後の政治的必要に応じて整えられた可能性が論じられてきた。",
      "worship": "滋賀県米原市の日撫神社に少毘古名命・応神天皇とともに祀られ、近隣の山津照神社古墳を墓とする伝承がある。伝承であって、被葬者を示す考古資料に基づくものではない。",
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      "historicity_basis": "記紀はともに神功皇后の母とするが事績を記さず、検証手段のある同時代史料はない。古事記が母方を天之日矛の後裔とする系譜に置くことについては、新羅遠征譚との対応から系譜構成上の意図を読む見方がある。",
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      "description": "古事記は息長宿禰王の妻、息長帯比売命すなわち神功皇后の母とし、但馬に渡ったとされる天之日矛の後裔にあたると記す。日本書紀も葛城高顙媛を神功皇后の母とし、母方の先祖として天日槍を挙げる点は両書に共通する。渡来伝承をもつ系統と近江の息長氏とを婚姻で結ぶ位置にあり、神功皇后の新羅遠征譚はこの系譜構成と対応している。",
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      "historicity_basis": "古事記は開化天皇と旦波之大県主由碁理の女竹野比売の子とし、日本書紀も彦湯産隅命として同様に記すが事績はない。日本書紀垂仁紀には丹波道主命の父をこの人物とする別伝があり、丹波に関わる系譜が複数流れていたことを示す。",
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      "historicity_basis": "記紀はともに旦波之大県主由碁理の女で開化天皇の妃と記すのみである。丹後には弥生後期から大規模な墳丘墓と玉作工房が存在し、大陸との交易を持つ勢力があったことが確認されるが、記紀の個々の人物と遺跡を結びつける手段はない。",
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      "description": "記紀が開化天皇の妃として挙げる丹波の女性で、比古由牟須美命の母とされる。丹波の大県主という在地の首長の娘が王権に入る最初の例として記され、垂仁・景行朝に繰り返される丹波系后妃の記事はこの形の反復にあたる。日本書紀が垂仁天皇の妃として記す丹波道主命の女の竹野媛は同名の別人であり、そちらは容姿を理由に本国へ返されたと記される。",
      "worship": "丹後国竹野郡の竹野神社（京都府京丹後市丹後町宮）は延喜式神名帳に大社として記載され、郡内で唯一の大社にあたる。社名の由来を竹野媛の名に求める説があるが、社伝と記紀の記述を結ぶ史料上の根拠はない。",
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      "description": "古事記が比古由牟須美命の子とし、弟に讃岐垂根王があると記す王である。娘の迦具夜比売命が垂仁天皇の后となったとされ、古事記はこの二王の女が5人あったとのみ付記する。事績は伝えられず、名と系譜だけが残る。",
      "worship": "大筒木は山城国綴喜郡の古名にあたり、京都府京田辺市には竹取物語のかぐや姫にちなむ伝承地がある。ただし古事記の迦具夜比売命と竹取物語との関係自体が決着しておらず、伝承地の由緒も同じ不確実さを共有する。",
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      "description": "古事記が比古由牟須美命の子、大筒木垂根王の弟として名を挙げる王である。古事記はこの二王の女が5人あったと記すのみで、個々の名も事績も伝えない。竹取物語の竹取の翁が讃岐造と呼ばれることからこの王との関連を説く議論があるが、名の共通以上の根拠はなく、竹取物語の成立年代も作者も未詳である。",
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      "description": "古事記が垂仁天皇の后の一人として名を挙げる女性で、大筒木垂根王の娘、袁邪弁王の母とされる。古事記の記述はこれだけであり、竹の中から生まれることも月へ帰ることもない、系譜上の后妃の一人である。竹取物語のかぐや姫との関係については、物語が古事記の名を借りたとする説、両者の背後に共通の伝承があったとする説などが提出されているが決着していない。竹取物語は遅くとも10世紀半ばまでに成立したとされる一方で作者も正確な成立年も未詳であり、比較の基準そのものが定まらない。",
      "worship": "父の名に含まれる大筒木は山城国綴喜郡の古名にあたり、京都府京田辺市はこの地をかぐや姫の里として顕彰している。古事記の記述と竹取物語との関係が未決着である以上、この顕彰も学説上の確定を意味しない。",
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      "description": "古事記は日子坐王と沙本之大闇見戸売の子とし、妹の沙本毘売命が垂仁天皇の后であったと記す。妹に天皇の暗殺を求めたが果たされず、稲城を築いて立てこもり、妹とともに滅ぼされたとされる。日子坐王の子が、丹波では討伐する側、大和では討伐される側として現れる構成になっている。",
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      "description": "古事記は日子坐王と沙本之大闇見戸売の子、垂仁天皇の最初の后とする。兄の沙本毘古王に天皇の暗殺を求められて果たせず、涙によって謀反が露見し、燃える稲城の中で本牟智和気命を産んで天皇に託し、兄に殉じたと記す。日本書紀もほぼ同じ筋を狭穂姫命の名で伝える。次の皇后として丹波から日葉酢媛命が迎えられるため、大和の后が滅んだのちに丹波の后が立てられるという順序をとる。",
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      "description": "古事記は崇神天皇段で、日子坐王が旦波国に遣わされてこの人物を殺したと記す。記述はその一文だけで、身分も勢力も語られず、古事記自身が「これは人の名である」と注を加えるにとどまる。記紀の丹波記事は討伐譚と婚姻譚が併存する形をとっており、そのうち討たれた側の名として残るのはこの人物のみである。",
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      "worship": "住吉大社（大阪市住吉区）の第一本宮に祀られ、延喜式神名帳には摂津国住吉郡の住吉坐神社四座として名神大に列する。津守氏が奉斎し、明治4年に近代社格制度の官幣大社に列した。三神を祀る神社は全国に多数あり、第四本宮には神功皇后が息長足姫命として祀られる。",
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      "description": "古事記は、イザナキが筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をしたとき、瀬の中ほどで生まれたと記す。中筒之男命・上筒之男命または底筒之男命とあわせて住吉三神と総称され、古事記は墨江之三前大神とも呼ぶ。日本書紀は神功皇后が新羅遠征に先立ってこの三神の託宣を受けたと記し、海上交通の守護神として畿内と瀬戸内の航路に関わる。神名の「ツツ」については、星を意味する古語とする説、津すなわち港とする説、船霊を収めた筒とする説、槌とする説、対馬の豆酘の地名によるとする説などが並立しており、いずれも定説となっていない。",
      "worship": "住吉大社（大阪市住吉区）の第二本宮に祀られ、延喜式神名帳には摂津国住吉郡の住吉坐神社四座として名神大に列する。津守氏が奉斎し、明治4年に近代社格制度の官幣大社に列した。三神を祀る神社は全国に多数あり、第四本宮には神功皇后が息長足姫命として祀られる。",
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      "historicity_basis": "記紀はともにイザナキの禊から生まれた神とする。神名の「ツツ」の語義には複数の説が並立して定説がなく、歴史的実在を想定する対象ではない。",
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      "description": "古事記は、イザナキが筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊をしたとき、水の表で生まれたと記す。中筒之男命・上筒之男命または底筒之男命とあわせて住吉三神と総称され、古事記は墨江之三前大神とも呼ぶ。日本書紀は神功皇后が新羅遠征に先立ってこの三神の託宣を受けたと記し、海上交通の守護神として畿内と瀬戸内の航路に関わる。神名の「ツツ」については、星を意味する古語とする説、津すなわち港とする説、船霊を収めた筒とする説、槌とする説、対馬の豆酘の地名によるとする説などが並立しており、いずれも定説となっていない。",
      "worship": "住吉大社（大阪市住吉区）の第三本宮に祀られ、延喜式神名帳には摂津国住吉郡の住吉坐神社四座として名神大に列する。津守氏が奉斎し、明治4年に近代社格制度の官幣大社に列した。三神を祀る神社は全国に多数あり、第四本宮には神功皇后が息長足姫命として祀られる。",
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        "瑞江浦嶋子",
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      "historicity_basis": "丹後国風土記逸文が与謝郡筒川の里の人、日下部首の先祖と記し、日本書紀雄略天皇22年秋7月条にも同じ人物として現れるが、内容は他界訪問譚であって検証の対象にならない。丹後には弥生後期から大規模な墳丘墓と玉作工房が存在し、大陸との交易を持つ勢力があったことが確認されるが、記紀の個々の人物と遺跡を結びつける手段はない。",
      "role": "媒介",
      "description": "丹後国風土記逸文が伝える最古の浦島説話の主人公で、丹後国与謝郡筒川の里の人、日下部首の先祖とされる。釣り上げた五色の亀が女性に変じ、その導きで蓬山へ渡って3年を過ごしたが、故郷に戻って玉匣を開いたために時を失ったと記す。日本書紀は雄略天皇22年7月条に簡略な記事を載せ、万葉集の高橋虫麻呂の長歌も同じ主題を歌う。蓬山を常世と重ねるこの説話は、丹後が日本海の交通に面した地域であることと結びつけて語られてきた。",
      "worship": "浦嶋神社（宇良神社、京都府与謝郡伊根町本庄浜）が浦嶋子を筒川大明神として祀り、社伝は天長2年（825年）の創祀とする。延喜式神名帳には丹後国与謝郡の宇良神社として記載される。同社は重要文化財の紙本著色浦嶋明神縁起を伝え、中世以降の絵巻や御伽草子を通じて浦島太郎の物語として広く流布した。",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "丹後国風土記逸文にのみ名が現れる神女で、歴史的実在を想定する対象ではない。海の彼方の他界から来訪して人を導く女性という型に属する。",
      "role": "媒介",
      "description": "丹後国風土記逸文は、筒川嶼子が釣り上げた五色の亀が女性に変じたものとし、みずから天上仙家の人と名のって嶼子を蓬山へ導いたと記す。蓬山は常世とも記され、そこでの3年が地上の300年余りにあたるという時間の落差が説話の中心をなす。日本書紀の雄略天皇22年条は亀が女に化したとのみ記して名を伝えず、名が残るのは風土記逸文である。",
      "worship": "中世以降の御伽草子や近世の絵本では竜宮の乙姫として語られるようになり、蓬山も竜宮に置き換えられていく。風土記逸文の亀比売が海神の系統に属し、行き先が蓬萊すなわち常世とされている点は、後の竜宮譚とは異なる。",
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        "豊受大御神",
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        "豊宇賀能売命（丹後国風土記逸文）"
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      "confidence_label": "学術的定説",
      "kind": "神格",
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      "historicity": "神話的存在",
      "historicity_basis": "古事記は伊邪那美命から生まれた和久産巣日神の子とし、日本書紀には現れない。丹後国風土記逸文の奈具社の天女豊宇賀能売命との同一視は文献相互の対応についての解釈であり、歴史的実在を想定する対象ではない。",
      "role": "秩序化",
      "description": "古事記が豊宇気毘売神として名を挙げる食物の神で、伊勢神宮外宮の祭神豊受大御神とされる。外宮の社伝である止由気宮儀式帳は、雄略天皇の夢に天照大神が現れ、丹波国比治の真名井にいる等由気大神を近くに呼び寄せよと告げたことによって迎えられたと記す。丹後国風土記逸文の奈具社縁起は、比治の真名井で水浴していた8人の天女の1人が羽衣を隠されて天に帰れず、老夫婦のために酒を造り、のちに奈具の村に鎮まって豊宇賀能売命と呼ばれたと伝え、この天女を豊受大神と同一とする理解が行われてきた。丹後の在地の女神が伊勢の外宮に迎えられたという構図は、丹後と王権の祭祀を結ぶ経路として語られる。",
      "worship": "伊勢神宮外宮（豊受大神宮）の祭神であり、丹後では比沼麻奈為神社・籠神社奥宮の真名井神社・豊受大神社（福知山市大江町）・奈具社などが祀る。鎌倉後期に成立した伊勢神道（度会神道）は、度会行忠・度会家行らによって外宮の神を天之御中主神・国常立神と同一の始源神とし、外宮を内宮と同格またはそれ以上に位置づける教説を立てた。外宮の域外にある別宮の月夜見宮と重ねて豊受大神を月読に結ぶ解釈はここから派生したものであり、中世の神学に属する。記紀にはそうした記述はない。",
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    "FIG-0158": "意富富杼王",
    "FIG-0159": "乎非王",
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    "REG-0018": "丹後・丹波",
    "FIG-0162": "息長水依比売",
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    "FIG-0165": "朝廷別王",
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