人新世——地球が主語になるとき
結論を先に置く。人新世をめぐる20年余りの議論が明らかにしたのは、人類の活動が地層と大気に痕跡を残しているという事実だけではない。より持続的な効果は、語彙の水準に現れた。近代の政治的語彙は、主権、領土、国籍、管轄という一群の概念を軸に、国民国家を単位として組み上げられている。この語彙は、地球という単一の系に生じる作用を記述する単位を持たない。人新世という語は、その欠落を科学的な命名の問題として可視化した。
したがって「惑星の物語」は、いま組み上がりの途中にある。主語は先に手に入った——地球、惑星、地球システムという語は、既に日常の語彙に入っている。手に入っていないのは述語である。その主語が何を決め、何を執行し、誰に対して責任を負うのかを記述する制度的な語彙は、依然として国家の側にしか存在しない。
- 人新世は2000年に大気化学と地球システム科学の場で提唱され、地質年代としての正式な承認は2024年に見送られたが、非公式の時代診断としての使用は続いている
- その背景には、地球を1つの自己調節系として記述するガイア理論(NAR-0087)以来の系譜があり、プラネタリー・バウンダリーの議論とマルチスピーシーズの思想(NAR-0089)がそれぞれ別の方向から語彙を補っている
- 不一致は3つの水準——因果の及ぶ範囲と管轄の範囲、応答の時間尺度と政治の周期、責任の主体をどの単位で立てるか——に整理できる
1. 2000年の提唱と、2024年の非承認
人新世(Anthropocene)という語は、2000年、大気化学者パウル・クルッツェンと生物学者ユージン・ストーマーによる短い共著文で提示された。クルッツェンは成層圏オゾン層の破壊機構の解明で1995年にノーベル化学賞を受けた研究者であり、この語の提唱は、大気を人間活動が改変しうる対象として扱ってきた研究の延長にあった。ストーマーは1980年代から同種の語を用いていたと伝えられるが、文献上の起点は2000年に置かれるのが通例である。
提唱は2つの回路を同時に走った。1つは層序学、すなわち地層の区分を定める学問の回路である。2009年、第四紀層序小委員会のもとに人新世作業部会が設けられ、新しい地質年代として成立しうるかの審議が始まった。もう1つは人文学とジャーナリズムの回路であり、こちらは審議の結論を待たずに語を採用した。美術館の展示題名、大学の講座名、政策文書の枕詞として、人新世は2010年代を通じて急速に流通した。
層序学の回路は厳密な要件を課す。ある年代を正式な単位として認めるには、地球上のどこで層を見ても対応づけられる明瞭な指標と、その基準点となる特定の地層断面——国際標準模式層断面・地点、通称GSSP——の指定が必要になる。作業部会は2016年に、人新世は層序学的に実在し、開始は20世紀半ばに置くのが妥当だという勧告をまとめた。核実験に由来するプルトニウムの降下物が、世界中の堆積物に同時期の明瞭な層として残っているためである。2023年には、カナダ・オンタリオ州のクロフォード湖の底に堆積した年縞が、基準地点の候補として選定された。
2024年、この提案は上位の小委員会の投票で承認されなかった。手続きをめぐる異議が提起されたが、国際的な上部組織はこの結果を追認した。したがって現在、人新世は正式な地質年代ではない。ただし、否決の理由が「人類が地球を変えていない」という判断だったわけではない点は正確に記録しておく必要がある。争点は主として、数十年という長さの単位を、数百万年を扱う年代尺のなかに正式な「世」として挿入することの適否、および開始点を1つの時点に固定することの妥当性にあった。承認しなかった側の一部からも、人類の影響を記述する語としての有用性は認められている。地質年代ではなく、より柔軟な「イベント」として扱う案も提出された。
この経緯は、物語史の観点から見ると示唆的である。ある語が学術的な認定を得られないまま、認定を求めた動機そのものによって広く流通する。人新世は、地層の名としては採用されなかったが、時代の名としては採用された。ここには、科学的手続きが語の運命を決められないという事実と、それでも人々が科学的手続きに承認を求めたという事実が、同時に含まれている。
開始時期をめぐる論争も、決着していない。主要な候補は3つある。第1は、農耕と牧畜の開始によるメタン濃度の上昇を起点とする案。第2は、産業革命(NAR-0068)による化石燃料の大規模利用を起点とする案であり、クルッツェン自身が当初提示したのはこれである。第3は、1950年代以降の人口、エネルギー消費、施肥、都市化などが同時に急上昇した「大加速」を起点とする案で、作業部会が採用したのはこれであった。どの起点を選ぶかは、責任を誰に帰すかという問いと分かちがたく結びついている。農業を起点とすれば人類全体の宿命の物語になり、産業革命を起点とすれば特定の経済体制の物語になり、大加速を起点とすれば戦後の消費社会の物語になる。年代の選択が、そのまま筋書きの選択でもあるという構造は、地質学の内部にとどまらない。
2. ガイア——地球が1つの系として記述されるまで
人新世が「人類が地球を変えた」と述べるためには、その前に「地球とは1つの変わりうる系である」という記述が用意されている必要があった。この記述を提供したのがガイア理論(NAR-0087)である。
ジェイムズ・ラヴロック(THK-0045)は、1960年代に火星の生命探査計画に関わるなかで、大気の組成に着目した。生命の存在する惑星の大気は化学平衡から大きく外れているはずだ、という着想である。地球の大気は、酸素とメタンが共存するという、平衡状態からすれば説明しにくい構成を長期にわたって保っている。ラヴロックはこれを、生物圏が大気組成を能動的に調節している証拠と解釈した。1972年に最初の定式化が公表され、1979年の『地球生命圏』でまとまった形をとる。ガイアという名は、近隣に住む小説家の助言によるものと伝えられている。微生物学者リン・マーギュリスとの共同作業が、この仮説に生物学の裏づけを与えた。
批判は早く、そして厳しかった。地球が「生命のために」環境を最適化しているという言い方は、目的論そのものではないか。自然選択は個体や遺伝子の水準で働くのであって、惑星という単位に適応が生じる余地はない。リチャード・ドーキンス(THK-0048)らによるこの批判は、進化生物学の側から見れば正当なものであった。ラヴロックの応答が、白色と黒色の雛菊だけが生育する仮想惑星のモデルである。両者がそれぞれ自らの生存に有利な条件を求めて増減するだけで、惑星全体の温度が結果として一定範囲に保たれる——目的を持ち込まずに自己調節を導出できることを示す試みであった。
その後の展開は、仮説の強弱を分ける方向に進んだ。生物と非生物の相互作用が地球規模のフィードバックを生んでいるという弱い形は、地球システム科学という検証可能な分野に吸収された。2001年の宣言文書に「地球システムは単一の自己調節系としてふるまう」という定式が置かれたとき、ガイアは名を残さずに内容だけを継承されたともいえる。他方、地球が生物のために環境を最適化しているという強い形は、現在ほぼ支持されていない。ガイア理論を評価する際には、この2つの形を区別することが前提になる。
同時に、この仮説は科学の外側で別の生を得た。1970年代の環境主義(NAR-0078)は、地球を有限で相互連関した全体として捉える感受性を既に育てており、ガイアはその感受性に科学的な語彙を与えた。逆に運動の側は、仮説に大衆的な受容基盤を供給した。相互強化の関係である。地球を1つの生命とみなす表象は、対抗文化のなかで宗教的・詩的な用法を獲得し、その用法は現在も消えていない。1990年代以降のラヴロック自身は、自己調節の破綻がもたらす帰結を強い調子で語る方向へ移り、その語り口が科学的評価とは別の論争を呼んだ。1つの仮説が、検証可能な部分と表象としての部分に分岐したまま流通し続けているという事態は、この物語の固有の特徴である。
この系譜が用意したのが、「主権者としての惑星」(CON-0054)という考え方の素地である。地球を、個々の国家や人類の利害を超えた独自の均衡を持つ存在として扱う。ガイア理論と人新世が地球システム科学と惑星限界の議論のなかで一体の語彙として用いられるようになったのは、この素地の上でのことであった。目的論的な含意を除いた形での結合である。
3. プラネタリー・バウンダリー——限界を数える試み
2009年、ヨハン・ロックストロームらの研究グループが、地球システムに9つの領域を設定し、それぞれに人類が安全に活動できる範囲の限界値を与えるという枠組みを提示した。プラネタリー・バウンダリー、日本語では惑星限界、地球の限界などと訳される。9つの領域は、気候変動、生物圏の一体性、土地利用の変化、淡水の利用、窒素とリンの生物地球化学的循環、海洋の酸性化、成層圏オゾン層の破壊、大気エアロゾルの負荷、そして新規化学物質である。
この枠組みの効果は、地球システム科学の知見を、政策と経営が扱い慣れた形式——すなわちリスク(CON-0051)の語彙——へ翻訳した点にある。限界値があり、現在値があり、超過の度合いが数値で示される。管理の対象として提示された瞬間に、問題は統治可能なものの一覧に入る。2015年の更新では複数の領域で限界の超過が報告され、2023年の更新では9領域すべての定量化と、うち6領域における超過が報告された。経済学者ケイト・ラワースが、この上限に社会的な下限を組み合わせて円環状に図示した「ドーナツ」の図は、都市や自治体の計画文書にまで流通した。
同時に、方法論的な批判も継続している。第1に、限界値の設定に含まれる判断の幅である。多くの領域では、そこを超えると系が不可逆に転換するという明確な閾値が確認されているわけではなく、限界値は予防的な余裕を含む規範的な選択を伴う。第2に、スケールの問題である。淡水利用や土地利用の変化は本来、流域や地域の単位で意味を持つ現象であり、全球の1つの数値に集約する操作は情報を落とす。第3に、9領域という区切り方そのものが、相互に強く連関する現象を独立の指標として並べているという指摘がある。
これらの批判は、枠組みの否定ではなく精度の限界の指定として理解するのが妥当である。留意すべきなのは、「限界を数える」という操作が、それ自体1つの物語形式だという点である。数えられた限界は、超過と未超過という二値の判定を可能にし、判定は目標と達成率という管理の言語を呼び込む。持続可能性(CON-0014)という語が、1987年の国際委員会報告を通じて広く流通したのも、成長の是非を正面から問わないまま環境と経済を接合できる形式だったからである。有用な形式は、争点を保留する能力によって普及することがある。
4. 「人類」という主語——名指しの政治
人新世の批判のうち、もっとも持続的なのは、主語の設定に向けられたものである。Anthropos、すなわち人類を地質学的な作用力として名指すとき、この主語は一様な集団として提示される。しかし温室効果ガスの累積排出、資源消費、そして気候変動の影響の受け方は、地域と所得階層のあいだで大きく偏っている。均質な「人類」という主語は、この偏りを記述から消してしまう——批判の骨格はこの点にある。
対案として複数の名が提出された。資本蓄積の運動こそが地球規模の改変を駆動したとする資本新世(Capitalocene)。単一作物の大規模栽培と強制労働の編成、すなわち植民地主義(NAR-0100)の農園体制に起点を求める農園新世(Plantationocene)。ダナ・ハラウェイ(THK-0046)はこれらを並置したうえで、人間中心の主語そのものを退ける別の名を提案している。歴史家ディペシュ・チャクラバルティは、気候変動が「種としての人類の歴史」と「資本の歴史」という2つの相容れない記述を同時に要求する事態として問題を定式化した。この指摘は、対案の側にも同じ困難があることを示している。責任の所在を精確にするために主語を分割すると、今度は地球システムに対する作用の総体を1つの主語で語れなくなるからである。
ここに単純な決着はない。人類という主語は責任配分を曖昧にし、資本や特定の経済体制という主語は物理的な作用の総和を記述しにくい。実務上は、両方の記述が並行して使われている。国際的な合意文書が「共通に有しているが差異のある責任」という定式を採用したのは、この二重性を1つの原則として書き込む試みだったといえる。
物語史の観点から重要なのは、命名が争われたという事実そのものである。地質年代の名は本来、記述的な符号にすぎない。それが規範的な争点になったのは、この名が「誰が何をしたのか」という問いを含んでいるからである。人新世をめぐる論争は、科学的な時代区分の提案が、そのまま責任の配分をめぐる論争として受け取られうることを示した稀な事例である。
5. 国民国家という単位との不一致
ナショナリズム(NAR-0017)は、200年あまりをかけて地球上のほぼ全人口を分類する枠組みになった。国民(CON-0009)と主権(CON-0005)を軸とするこの語彙は、国境という線によって責任と権限の範囲を確定する。近代の政治的な語彙のほぼすべて——立法、課税、徴兵、司法、国籍——が、この線の内側で完結するように設計されている。惑星規模の問題との不一致は、この設計に由来する。不一致は3つの水準に分けて記述できる。
第1は、因果の及ぶ範囲と管轄の範囲のずれである。ある場所で排出された温室効果ガスは大気中で混合し、影響は排出地と無関係に分布する。国境は、この物理過程に対して透明である。会計上の困難もここから生じる。排出量を領土内の生産で測るか、消費された財の生産に伴う排出まで遡って測るかによって、同じ経済圏の数値が大きく変わる。どちらの測り方も技術的に可能であり、どちらを採用するかは規範的な選択を含む。
第2は、時間尺度のずれである。大気中に放出された二酸化炭素の一部は数百年から数千年にわたって影響を残す。海洋の熱慣性や氷床の応答は、さらに長い時間をかけて現れる。これに対して、選挙の周期は数年、政権の平均寿命はそれ以下、企業の計画期間や国債の年限も同程度である。政治的な意思決定の装置は、意思決定者の在職期間を大きく超える帰結を扱うようには作られていない。将来世代の利益を現在価値に換算する割引率をどう設定するかという論争は、この不一致を経済学の言語で扱おうとした試みであり、結論は出ていない。長期主義(NAR-0059)が数百年から数千年の尺度を明示的に導入したのは同じ問題への応答だが、遠い将来の膨大な人口を計算に含める操作が現在の被害を相対的に軽く扱う結果を生みうるという批判が、この立場には向けられている。
第3は、責任の主体をどの単位で立てるかという問題である。前節で見た命名の争いは、この水準に属する。国家を単位とすれば、企業活動や個人の消費が国境を越えて連鎖している現実を捉えにくい。産業や階級を単位とすれば、条約に署名し法を執行する能力を持つ主体が不在になる。
それでも、国際的な枠組みは国家を単位として構築されてきた。1992年の気候変動枠組条約以降の交渉は、一貫して国家の集合体として設計されている。2015年の協定が、上から配分された削減量ではなく各国が自ら提出する目標と、その総和を定期的に点検する仕組みを採用したのは、主権の語彙を維持したまま集合的な目標に接近しようとする形式上の工夫であった。この形式の実効性を本記事は判定しない。記述しておくべきなのは、惑星規模の主語を掲げる物語が、実装先としては依然として国家の装置しか持っていないという構造である。主語は変わったが、動詞の所有者は変わっていない。
6. 惑星を主体にする——法と権利の実験
主権者としての惑星(CON-0054)という考え方を、規範ではなく制度として実装しようとする試みは、複数の方向で現れている。
1つは、自然そのものに法的な地位を与える方向である。エクアドルは2008年の憲法に自然の権利を書き込んだ。ニュージーランドでは2017年、先住民マオリとの長期の交渉を経て、特定の河川に法人格を認め、後見人を置く法律が成立している。これらは、法人格(CON-0013)という既存の技術——内面を持たない存在を権利義務の主体として扱う仕組み——を、企業から生態系へ拡張する操作である。人格性(CON-0052)の範囲をどこまで広げうるかという議論が、抽象的な哲学の問いから立法の問題へ移った例といえる。ただし、法人格を得た自然を誰が代表するのかという問題は残る。代表者は結局、人間の集団である。
もう1つは、コモンズ(CON-0053)の法理を拡張する方向である。公海、深海底、南極、そして宇宙空間には、いずれの国家にも帰属させないという原則が既に置かれている。1967年に発効した宇宙条約(NAR-0092、TXT-0045)は、天体の領有を禁じ、宇宙空間の探査と利用を全人類の利益において行うと定めた。主権の語彙を、ある空間について明示的に停止させた先行例である。しかしこの法理を地球そのものに適用することはできない。非領有原則が成立したのは、そこが誰も住んでいない外部だったからであり、地球は既に領土として分割されている。コモンズの管理は、コモンズの外側に管理主体を置ける場合にのみ設計しやすい。地球には外側がない。
第3の方向は、司法である。近年、複数の国で国家や企業の排出削減義務を争う訴訟が提起され、一部で義務を認める判断が出ている。将来の被害という時間的に遠い損害を、既存の権利侵害の枠組みに翻訳する試みである。判断の射程の評価は分かれており、司法が政策決定の代替になりうるかという制度論上の問いも残る。
これら3つに共通するのは、まったく新しい制度を作るのではなく、既存の法的技術——法人格、非領有原則、権利侵害——を転用している点である。物語が新しい語彙を得る通常の経路は、創出ではなく既存の部品の転用である。ヨルバ宗教が聖人崇敬の形式を借りて存続したのと、形式上は同じ操作がここで進行している。
7. マルチスピーシーズ——主語を人間の外へ
もう1つの方向から惑星の語彙を補っているのが、マルチスピーシーズの思想(NAR-0089)である。
この潮流は、2000年代後半から2010年代にかけて、科学技術社会論、動物研究、環境人文学、微生物共生の研究が交差する場で形成された。2010年前後の人類学の特集号と学会の分科会を通じて分野として可視化され、菌類、作物、家畜、微生物叢を人間社会の共同的な参加者として記述する手法が確立していく。理論的な媒介役を果たしたのがハラウェイであり、1985年の「サイボーグ宣言」(TXT-0042)に始まる人間と非人間の境界への問いが、2003年の伴侶種をめぐる議論を経て、フィールド研究の方法へ翻案された。ポストヒューマニズム(NAR-0081)からの派生として記述できる関係である。アナ・チンが松茸の商品連鎖を追った民族誌は、単一の生物種を追跡することで資本主義(NAR-0018)の周縁と生態系の攪乱を同時に記述しうることを示し、この分野の代表的な仕事となった。
ガイア理論との理論的な結び目もある。マーギュリスの共生説——真核細胞は異種の細胞の共生から生じたとする理論——は、個体という単位そのものが複数種の集合であることを示唆する。宿主と微生物叢を一体の単位として扱うホロビオントの概念は、この示唆を現代の生物学の語彙に翻訳したものである。主体の単位を疑うという操作において、ガイアとマルチスピーシーズは同じ方向を向いている。
批判もまた継続している。人間以外の存在の「行為主体性」をどこまで記述に持ち込めるかについては、擬人化に傾き説明力を落とすという方法論的な指摘があり、分野の内部でも立場が分かれる。もう1つは研究倫理上の問いである。この分野の記述は先住民の存在論を参照することが多く、その参照が適切な帰属と手続きを伴っているかが問われている。他者(CON-0028)と共同体(CON-0038)の範囲を人間の外へ広げる作業が、人間のあいだの非対称を再生産しうるという指摘である。
処方の水準では、この思想はエコモダニズム(NAR-0057)と正面から対立する。エコモダニズムは、技術によって人間の活動を集約し自然から切り離すことに解決を求める。マルチスピーシーズの思想は、人間と他種の絡まり合いを解消できない前提として扱う。保全のあり方——土地を人間の利用区域と保護区域に分離するか、同じ土地を共有する形で両立させるか——をめぐって、両者の処方は分岐する。この分岐は経験的な検証にも開かれているが、どちらの方式が有効かは生態系や作物によって異なり、一般解は得られていない。
8. 診断は共有され、処方が分岐する
惑星の物語の内部には、はっきりした対立がある。脱成長(NAR-0056)は、経済的な産出と物質・エネルギー消費の切り離しが必要な速度で起きた証拠はないという判断に立ち、消費総量の計画的な縮小と、成長を政策目標から外すことを掲げる。エコモダニズムは同じ危機認識から逆の処方を導き、技術による集約で負荷を減らしながら生活水準を維持できるとする。加速主義(NAR-0058)は、技術的近代化の抑制ではなく徹底に活路を求める。宇宙移住の物語(NAR-0090)は、限界の内側で解くのではなく限界の外部へ拡張することに解決を求め、有限な惑星を診断の核とする語りと正面から衝突する。ソーラーパンク(NAR-0060)は、これらの論争を美学と創作の水準で可視化する回路になっている。
これらの分岐は既に別の記事で扱われているため、ここでは語彙の水準に絞って観察する。注目すべきは、対立するすべての立場が、同じ2つの前提を共有している点である。第1に、地球が有限な系であり、現在の物質的な軌道をそのまま延長できないという診断。第2に、処方の実装先が国家の政策装置であるという想定。宇宙移住の物語でさえ、実際の資源配分は国家の予算と規制を経由する。惑星を主語とする物語は、対立の全域にわたって、述語を国家から借りている。
この構造は、進歩(CON-0007)と無限成長(CON-0010)という近代の中核概念に対する関係にも現れる。人新世という語は、進歩の物語が前提としてきた直線史観(CON-0035)に、地質学的な時間という別の尺度を持ち込んだ。数百年の産業の歴史が、数百万年の尺度に痕跡を残す。この重ね合わせは、直線的な向上の物語を相対化する効果を持つ一方で、循環史観(CON-0034)への単純な回帰を意味しない。地球システムの応答は反復ではなく、不可逆な移行として記述されるからである。時間の型としては、直線でも円環でもない第3の形式が要求されているが、その形式に定着した名はまだない。
9. 結び——組み上がりの途中にあるもの
人新世をめぐる20年余りを、narrativist.orgが用いる4つの関係——派生、対立、習合、輸入翻訳——に照らすと、いくつかの傾向が浮かぶ。
派生の関係では、この物語は上流に複数の接続を持つ。産業革命(NAR-0068)が残した物質的な痕跡の認識が新しい地質年代の提唱を導き、環境主義(NAR-0078)の感受性がガイア理論の受容基盤を用意し、ポストヒューマニズム(NAR-0081)の理論がマルチスピーシーズの民族誌へ翻案された。1972年の『成長の限界』(TXT-0016)と1962年の『沈黙の春』(TXT-0035)は、この系譜の下流にある物語が繰り返し参照するテキストであり続けている。
習合の関係では、ガイア理論と人新世の結合が典型例である。地球を単一の自己調節系として扱う枠組みと、人類を地質学的な作用力として位置づける時代診断は、地球システム科学と惑星限界の議論のなかで一体の語彙として用いられるようになった。ただし、この結合は目的論的な含意を除去したうえで成立している。習合は、要素の取捨を伴わずには起きない。
対立の関係では、争点が診断ではなく処方に集中しているという特徴がある。脱成長とエコモダニズム、人新世と宇宙移住の物語、エコモダニズムとマルチスピーシーズの思想——いずれの対も、有限性の認識そのものは共有している。同じ問いを共有する物語のあいだでしか、正面からの対立は成立しない。
輸入翻訳の関係では、訳語の揺れが継続している。Anthropocene には人新世と人類世が併存し、planetary boundaries には惑星限界、地球の限界、音写の3通りが流通している。sustainability が持続可能性という規範的な語に定着したこととあわせて、訳語の選択がそのまま受容の形を左右している。加えて、この物語群の主要な語彙が英語圏と北西ヨーロッパで形成され、そこから各地へ移動しているという偏りも記録しておく必要がある。影響をもっとも受ける地域と、語彙を供給する地域は一致していない。マルチスピーシーズの思想が先住民の存在論を参照する際の帰属の問いは、この偏りの一部である。
これらを重ね合わせると、1つの一般的な傾向が見える。惑星の物語は、主語を先に獲得し、述語を後から探している。国家の物語が200年をかけて、国籍、徴税、教育課程、地図という具体的な器を作り上げたのに対して、惑星の物語は同等の器をまだ持たない。自然の権利も、非領有原則の拡張も、気候訴訟も、既存の器の転用であり、規模において対応していない。
ここから、悲観的な結論も楽観的な結論も導けない。器がないという事実は、器が作れないことを意味しないし、作られるとも保証しない。物語史が示してきたのは、語彙が制度に先行する場合があるという事実だけである。国民という語も、それが指す制度が整う前から流通していた。惑星を主語とする語彙が、同じ経路をたどるのかどうかは、現時点では確定できない。少なくとも、主語が既に日常の語彙に入り、述語が空白のまま残されているという現在の配置は、正確に記述しておく価値がある。空白の所在が特定されている物語は、特定されていない物語よりも、埋められる可能性が高いからである。
ナラティビスト編集部