ナショナリズム——想像の共同体
現在の地球上で暮らすほぼすべての人間が、いずれかの国民に分類されている。出生と死亡は国家の登録簿に記され、移動はパスポートによって管理される。国際機構の議席も、統計年鑑の行も、競技大会の入場行進も、この単位で編成される。他の分類法——信仰、階級、職能、言語、都市——のどれも、これほど網羅的に人類を区分してはいない。
そして、この分類法が地球規模で成立してからの時間は、200年あまりにすぎない。narrativist.orgが扱う物語のなかで、ナショナリズム(NAR-0017)はもっとも新しい部類に属する。5,000年前から反復されてきた物語が数多くあるなかで、なぜ最後発の物語が、もっとも広く行き渡ったのか。
本記事の答えは、物語の内容ではなく形式にある。ナショナリズムが強かったのは、他の物語より真実だったからでも、人間の本性に近かったからでもない。次の3つの形式的性質を同時に備えていたからである。
- 空白性:この物語は、何を信じ、何を崇め、どう生きるべきかを指定しない。指定するのは「われわれには共有された過去と共有された運命がある」という枠だけであり、中身は各地で現地調達される。だからこそ、既存のどの物語とも競合せずに、その上に重ねて設置できた
- 複製可能性:国旗、国歌、国語、国民史、記念日、国立博物館、代表チーム——構成要素が標準化された部品の集合になっており、設計図は模倣可能である。19世紀末以降、新しい共同体はこの部品表を参照して自らを組み立てた
- 日常性:新聞の日付、時刻表、教室の暦、天気予報の地図。この物語は特別な儀礼の日にではなく、何でもない日の反復のなかで作動する。信じる努力を要求しないという点で、他のどの物語とも異なる
以下では、この3点がどう成立し、どう世界へ複製されたかを追う。あらかじめ立場を明示しておく。本記事は特定の国のナショナリズムを断罪も美化もしない。ナショナリズムが危険であるという結論にも、愛国心が自然であるという結論にも寄せない。現在進行中の紛争について、当事者のいずれかを評価することもしない。記述の対象は構造であり、その構造は、称揚と断罪のどちらからも等しく見えにくくなるからである。
1. 「国民」という空白の器
ナショナリズムを検討するとき、最初に躓くのは定義である。CON-0009「国民」は、共通の言語・文化・歴史・領域を共有すると想定される政治的共同体の成員全体を指す。問題は「想定される」の部分にある。客観的な指標で国民を定義しようとした試みは、いずれも反例に突き当たってきた。
言語を基準にすれば、4つの公用語を持つスイスも、英語を共有する複数の国家も説明できない。宗教を基準にすれば多宗教国家が、血統を基準にすれば移民によって形成された社会が除外される。領域を基準にすれば、領域を持たないまま数十年にわたって民族的自己主張を維持した集団が説明できない。歴史を基準にすれば、その歴史を書いたのが誰かという問いに戻ってしまう。
この難点を、定義の失敗としてではなく、対象の性質として引き受けた最初期の記述が、1882年にソルボンヌで行われたエルネスト・ルナンの講演である。ルナンは、人種も言語も宗教も地理も国民を定義できないと1つずつ退けたうえで、国民とは共有された記憶と、共に生きようとする現在の同意によって成り立つ「日々の人民投票」であると述べた。同時に彼は、国民の形成には忘却が不可欠だとも指摘している。統合の過程で行われた暴力を思い出さないことが、成員の資格に含まれるという指摘である。
この観察は、20世紀後半の研究によって理論として整えられた。1983年、後に近代主義と呼ばれる立場の主要な著作が相次いで刊行される。アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムが国民を生むのであってその逆ではないと定式化し、その要因を産業社会が要求する標準化された教育と流動的な労働力に求めた。エリック・ホブズボームとテレンス・レンジャーは、古来のものとされる慣習や儀礼の多くが近い過去に構築されたものであることを、複数の事例で示した——CON-0030「伝統の創造」として本データベースに登録されている観念である。そして同年、ベネディクト・アンダーソン(THK-0014)の『想像の共同体』(TXT-0014、NAR-0053)が刊行された。
ただし、この近代主義的な理解が唯一の解釈ではない点は明記しておく必要がある。アンソニー・D・スミスに代表されるエスノシンボリズムの立場は、近代の国民が無から作られたのではなく、前近代から続く神話・記憶・象徴の集積(エトニ)を素材としており、どの素材が利用可能であったかが近代の国民の形を制約したと論じる。近代主義とエスノシンボリズムのどちらを採るかによって、ナショナリズムの発生年代の見積もりは大きく変わる。本データベースがNAR-0017の発生年代を18世紀後半、数値としては1789年と記載しているのは近代主義的解釈に依拠した暫定値であり、この点については有力な異説があると明示されている。以下の記述も同じ留保のもとにある。
2. 同時性の発明——印刷資本主義
アンダーソンの定義は簡潔である。国民とは、想像された政治的共同体である。成員の大多数は互いに会うことも知ることもないが、それでも各人の心のなかには交わりのイメージが生きている。そして、それは限られたものとして——つまり必ず境界の外部を持つものとして——想像され、かつ主権的なものとして想像される。
ここで重要なのは、想像という語が虚偽を意味しない点である。対面で接触できる規模を超えた共同体は、宗教共同体も階級も企業も、すべて想像によって支えられている。問われるのは真偽ではなく、どの様式で想像されるかであり、その様式を可能にした技術的条件は何かである。
アンダーソンが指摘した条件が印刷革命(NAR-0067)である。1450年頃に西欧で金属活字による印刷が実用化された——前史として11世紀の畢昇の膠泥活字、13世紀の高麗の金属活字があり、東アジアには木版印刷の厚い蓄積があった——のち、半世紀のうちに主要都市へ印刷所が広がった。ラテン語市場が飽和すると、出版業者は俗語へ向かう。この市場圧力が、無数の方言を数少ない標準語へと収斂させた。近い話し言葉の集団が同じ印刷語を読むようになり、遠い集団は別の印刷語の読者になる。言語の境界は、こうして人為的に固定された。
もう1つの効果が、同時性の様式の変化である。中世の年代記において、出来事は神的な計画のなかで意味づけられていた。新聞と近代小説が導入したのは、これとは別の時間である。読者は、面識のない他者たちが同じ日付の紙面を読み、同じ時刻に同じ市場と同じ議会を共有していることを、疑いなく前提できるようになった。アンダーソンはヴァルター・ベンヤミンから借りた語で、これを均質で空虚な時間と呼んだ。新聞を読むという毎朝の行為は、数百万人が同時に反復する儀礼であり、それぞれの読者は隣人が同じ儀礼を行っていることを知っている。この確信の反復が、共同体の実在感を作る。
同じ技術は、ナショナリズムに先立ってプロテスタンティズム(NAR-0034)を広域の運動へ転換させてもいた。文字(NAR-0041)という古い物語が、機械的複製という新しい形式を得たとき、そこから派生した物語は1つではない。ただし、印刷を決定的な原因とみるかについては議論がある。エリザベス・アイゼンステインの因果的な主張に対し、ロバート・ダーントンやエイドリアン・ジョンズらは、印刷物の受容と流通を担った社会的条件の側を重視する留保を提示した。本データベースがREL-0100(印刷革命からナショナリズムへの派生)の確度をBとしているのは、出版資本主義を必要条件とみるか複数要因の1つとみるかについて異論が残るためである。
アンダーソンの議論のうち、見落とされやすい論点を2つ補足する。第1に、彼が国民という様式の先駆をヨーロッパではなく南北アメリカ大陸に見出した点である。18世紀後半から19世紀前半にかけて独立した諸共和国の担い手は、本国と言語も宗教も血統も共有するクレオール層であった。彼らを本国から分けたのは、植民地の行政区画のなかで経歴が完結し、本国の中枢へ昇進できないという構造であり、その区画の範囲を共有する地方新聞であった。言語も血統も同じでありながら国民が生じたという事実は、民族的同質性を前提とする説明への反証として提示された。
第2に、後から追いついた側の反応である。アンダーソンは、下からの民族運動に対して王朝と帝国の側が自らを国民化しようとする戦略を公定ナショナリズムと呼んだ。ロマノフ朝のロシア化政策、ハプスブルク帝国の言語政策、そして明治日本の国家形成が、この類型で論じられている。帝国は、ナショナリズムの対抗物語であると同時に、その最初の模倣者でもあった。
3. 伝統の創造——19世紀の装置
想像の様式が可能になっただけでは、共同体は成立しない。19世紀のヨーロッパ諸国家が投入したのは、その様式を国民規模の日常へ変換する装置の一式であった。
国旗、国歌、記念日、国民的英雄の銅像、国立の博物館と文書館、民族衣装、標準化された歴史教科書。これらの多くは、古来の伝統としてではなく、19世紀後半から20世紀初頭にかけて集中的に制度化されたものである。ホブズボームらが提示した事例のうち、スコットランドの氏族別タータンが近代の商業的体系化を経ているという指摘は広く知られる(この事例の細部については批判もあり、諸説ある)。重要なのは個別の暴露ではなく、傾向のほうである。共同体が急速に組み替えられる時期にこそ、連続性を演出する儀礼が大量に新造される。
装置は象徴だけではない。義務教育は標準語の話者を大量生産した。フランス革命期には、共和国の領域内で標準的なフランス語を自在に用いる人口は限られていたことが同時代の調査で報告されており、農村を含む全域が均質なフランス人として編成されるのは、第三共和政の学校・鉄道・徴兵を経た後である(NAR-0038)。徴兵制は、出身の村を越えた同年齢集団を同じ制服のもとに置いた。国勢調査は、住民を国民の内と外に分類し、人種や民族の欄を通じてカテゴリー自体を生産した。地図は、輪郭線として記憶される国土の像を作った。1884年の国際子午線会議に象徴される標準時の整備と、鉄道時刻表と全国紙の朝刊は、同時性を制度として実装した。アンダーソンが増補版で人口調査・地図・博物館を1章に束ねたのは、これらが同じ機能——分類し、輪郭を与え、来歴を保証する——を果たす装置だからである。
ドイツ語圏の事例(NAR-0071)は、この過程を凝縮して示す。ヘルダー以来の言語と民族精神をめぐる議論、ナポレオン支配下でのフィヒテの講演、グリム兄弟の民話収集と文献学、体操運動や合唱協会といった自発的結社。これらが1871年の統一後、学校と徴兵と記念碑によって国家的に制度化された。本データベースがこの関係を輸入翻訳ではなく派生(REL-0107)として登録しているのは、ドイツ語圏が受容地であると同時に、この物語の形成地の1つでもあったためである。
なお、国民の類型を市民的なものと民族的なものに二分し、前者を西欧、後者を中東欧に配当する枠組みが長く流通してきた。この枠組みは、いずれの社会にも両方の要素が併存するという批判を受けており、記述の道具としてよりも、それ自体が国民の自己像を語る言説として検討されることが多い。本記事はこの二分法を採らない。
4. 派生——同じ前提から分岐した2つの物語
ナショナリズムの中核には、主権(CON-0005)の所在をめぐる主張がある。統治の正統性は、王朝の系譜にも、神からの委任にも、征服の事実にもなく、国民に帰属する。この主張は、大西洋革命期に人民主権の主張と結びついて成立した。
ここから民主主義(NAR-0019)が派生する。主権が国民にあるなら、成員は原理的に平等であり、統治は成員自身によって行われねばならない。国民という単位が確定して初めて、誰が投票し、誰が代表されるのかという問いが具体的な制度設計になる。ただし、本データベースがREL-0009の確度をBとしているとおり、この方向づけには異論がある。リア・グリーンフェルドのように、民主主義の理念こそが国民という観念を生んだとして順序を逆に見る説明も有力であり、先後関係は争われている。両者は同じ時期に同じ語彙のなかで形成された双子であって、片方が他方の原因であると単純に述べることはできない。
同じ前提から、もう1つの帰結が導かれる。国民が主権者であるなら、誰が国民に含まれるかは死活的な問いになる。境界(CON-0048)の内と外の区別は、王朝国家では税と兵役の技術的問題にすぎなかったが、国民国家では権利の総量を左右する。参政権の拡大と、成員資格からの排除の精緻化は、しばしば同じ時期に並行して進行した。この両面性は、ナショナリズムの逸脱ではなく、その論理そのものから出てくる。
ファシズム(NAR-0045)は、この論理が特定の歴史的条件下で再編された形態であり、本データベースはREL-0064として派生関係を登録している。第一次世界大戦の総力戦が実証した動員能力、戦後の経済的・地位的な危機、そして議会政治への不信のなかで、国民を諸個人の集合ではなく1つの有機的な統一体とみなす言説が、国民の再生、内部の敵の摘出、指導者への権威集中という綱領へ組み替えられた。起源の比重については学説が分かれる。ゼエヴ・ステルンヘルは革命的サンディカリズム由来の要素を重視し、ロバート・パクストンは民族主義的右派の系譜を重視する。何をファシズムの範囲に含めるかも、イタリアに限定する説からドイツを含む一般概念とする説まで幅があり、決着していない。
ここで確認しておくべきことがある。同じ前提から民主主義とファシズムの双方が派生したという事実は、ナショナリズムが危険であるという命題も、愛国心が自然であるという命題も、いずれもこの構造の説明として不十分であることを示している。ナショナリズムは、それ自体としては帰属の単位を指定する枠でしかない。その枠に何が充填され、どの制度と接続されるかは、時期と条件によって異なる。空白の器であることは、この物語の強さの理由であると同時に、その帰結を一律に予測できない理由でもある。
5. 対立——階級・国家否定・帝国
ナショナリズムの輪郭は、対抗する物語との関係のなかでも定まる。本データベースは3つの対立軸を記録している。
第1に社会主義(NAR-0020)との対立である(REL-0013)。帰属の第一義を国民に置く物語と、階級(CON-0008)に置き国境を越えた連帯を掲げる物語は、19世紀後半を通じて同じ労働者人口を対象に競合した。この競合の帰趨が可視化されたのが1914年である。第二インターナショナルは戦争が起きれば各国の労働者が拒否すると想定していたが、開戦にあたって主要国の社会主義政党の多くは自国の戦時予算に賛成した。国際的連帯の綱領が動員の局面で国民という帰属に敗れた経験は、以後の理論的再検討の出発点になった。ただし、両者が常に排他的だったわけではない。20世紀の脱植民地化(NAR-0101)の局面では、民族解放と社会主義の綱領はしばしば同一の運動のなかで結合している。
第2にアナキズム(NAR-0046)との対立である(REL-0068)。国家という強制装置とその正統化を拒否する立場から見れば、徴兵も国境も国旗も、同じ装置の部品である。もっともこの対立は綱領の水準に限定される。反植民地闘争においてアナキストが民族解放運動と共闘した事例は複数あり、本データベースがこのエッジの確度をBとしているのはそのためである。
第3に帝国(NAR-0006)との対立である。本データベースでは、NAR-0017とNAR-0006の対抗物語欄に相互の記載がある。帝国は複数の言語・宗教・法慣習を持つ集団を、同質化せずに階層的に統べる原理である。これに対しナショナリズムは、統治の単位と文化の単位が一致すべきだと要求する。20世紀前半に多民族帝国が解体し、その領域が国民国家として再編されたのは、この要求が国際秩序の原則として採用された結果である。第一次世界大戦後の講和と、第二次世界大戦後の脱植民地化を通じて、国際連合の加盟国数は原加盟51か国から現在の193か国へ増加した。
ただし、帝国とナショナリズムの関係を単純な交代として描くことはできない。前節で触れた公定ナショナリズムのように、帝国が自らを国民国家として再定義しようとする試みは各地で行われた。また、独立後の国家の多くは帝国が引いた行政区画の境界をそのまま国境として継承しており、この点で新しい国民の器は、対抗したはずの物語から手渡されている。
6. 輸入翻訳——器が世界を一周する
本データベースにおいて、NAR-0017から出るもっとも多いエッジは輸入翻訳である。ヨーロッパで形成された国民の枠組みが各地で受容され、現地の素材によって再文脈化された過程が、12件のエッジとして記録されている。
| 受容の物語 | 時期 | 翻案の焦点 | |---|---|---| | NAR-0009 日本の建国神話 | 1868年〜1890年 | 記紀神話と万世一系を国家の起源譚として制度化 | | NAR-0040 檀君神話と韓民族の物語 | 1900年代〜1940年代 | 文献に伝わる伝承を単一の始祖として再文脈化 | | NAR-0097 ロシアの物語 | 19世紀 | ルーシ起源と第三のローマの語りを国民の物語へ | | NAR-0039 トルコ共和国の物語 | 1908年〜1931年 | 多宗教の臣民秩序に代え領域と言語を基準に | | NAR-0037 イスラエル建国の物語 | 1882年〜1897年 | 民族自決型の語彙と組織形式を集団的自決の構想へ | | NAR-0070 インドの建国神話 | 1885年〜1950年 | 多言語・多宗教の亜大陸に適合する形へ組み替え | | NAR-0012 ナイジェリア国民統合の物語 | 1914年〜1960年 | 植民地行政の境界を所与とした多民族の統合物語 | | NAR-0050 パン・アフリカニズム | 1900年〜1963年 | 帰属の単位を大陸とディアスポラへ拡大 | | NAR-0072 メキシコのメスティサヘ | 1810年代〜1920年代 | 単一の起源を欠く社会で混血を共有の起源とする | | NAR-0098 ブラジルの人種民主主義 | 1930年代 | 同質性の根拠を血統ではなく混淆そのものに | | NAR-0099 シンガポールの多民族国家の物語 | 1960年代 | 複数の人種カテゴリーの共存を国民の定義に | | NAR-0049 ユーラシア主義 | 1921年〜1930年代 | 帰属の単位を単一民族から多民族の文明圏へ |
この一覧から読み取れるのは、翻訳が複製ではないという点である。器が空白であったからこそ、充填される素材は各地で調達された。日本では8世紀に編纂された記紀の系譜が、朝鮮半島では13世紀の文献に記録された伝承が、ロシアでは16世紀の修道士の書簡に由来する語りが、それぞれ近代的な国民史の枠組みへ入れ直された。素材は古く、枠は新しい。この時間差こそが、ナショナリズムが古来の伝統として体験される理由である。
同時に、枠に収まらない素材を抱えた社会では、枠そのものが変形された。単一の民族的起源を主張できないメキシコとブラジルでは、同質性の根拠が血統から混淆へ置き換えられた。シンガポールでは、複数の人種カテゴリーが共存すること自体が国民の定義とされた。多民族を包含するユーラシアという単位を掲げた議論は、ヨーロッパ的近代の否定を掲げながら、その概念装置を用いている点で翻訳としての性格を示す——ただしこの位置づけは研究側の分析であり、運動自身の自己記述とは対立する。パン・アフリカニズムに至っては、単位が国家を越えて大陸とディアスポラへ拡大され、独立国家の樹立と大陸統合という2つの綱領の緊張として制度化された。
これらの翻訳の評価は、本記事の対象ではない。翻訳の完成度や統合の成否については、いずれの事例でも当事者と研究者のあいだで評価が分かれており、本データベースも各レコードの確度をBとして異説の存在を明記している。ここで記述できるのは、共通する手順のほうである。境界を確定し、起源を遡及的に定め、標準語と教科書と祝祭日を整備し、国勢調査によって成員を数える。この手順は、どの大陸のどの事例でも、驚くほど似た順序で実行された。
7. 再燃——同時性の条件が変わるとき
1990年代には、国民国家の時代が終わりつつあるという見通しが広く語られた。資本と情報の移動は国境を無意味にし、超国家的な統合と地域的な分権が主権を上下から侵食する、という診断である。実際には、同じ時期に国家の数は増加していた。ソ連とユーゴスラビアの解体は、20を超える新しい主権国家を生み、そのそれぞれが国旗と国歌と国民史と国語政策を整備した。器の複製可能性は、20世紀末においても十分に機能していた。
現在観察されている再燃は、いくつかの異なる現象の束である。移民をめぐる成員資格の問い直し、通貨統合や広域的な規制権限に対する主権回復の主張、貿易と供給網の再編を国益の観点から語る言説、そして歴史教育と記念の様式をめぐる国内的な争い。これらは同じ語彙を用いるが、駆動している条件は同一ではない。
構造的な水準で1点だけ指摘できるのは、同時性の条件が変化していることである。ナショナリズムを可能にした技術的条件は、全国紙の朝刊と全国放送という、同じ内容を同じ時刻に全成員へ届ける装置であった。この装置は、20世紀の後半に頂点に達し、現在は縮小している。代わりに作動しているのは、受け手ごとに異なる内容を配分するネットワークである。
この変化は、2つの方向に働いている。1つは、国民という単位の内部で複数の共同体が別々の同時性を持つようになる方向である。同じ国土に住み、同じ言語を話しながら、共有する出来事の暦を持たない集団が並立しうる。もう1つは逆に、国境を越えて同じ物語を同時に受け取る集団が形成される方向である。アンダーソン自身が晩年に遠隔地ナショナリズムとして論じたように、移住先から出身国の政治へ資金と言説を送る回路は、印刷資本主義の時代よりもはるかに広帯域になった。国民の輪郭は薄くなっているのではなく、輪郭を決める装置が入れ替わっている。
集合的記憶論(NAR-0079)が示したように、過去の共有は自然に生じるのではなく、社会的な枠組みによって編成される。その枠組みを担う装置が交代する時期には、何を共有された過去とみなすかをめぐる争いが表面化しやすい。現在各地で起きている記念碑や教科書をめぐる論争は、この一般的な傾向の現れとして記述できる。
なお、現在進行中の武力紛争において、当事者のそれぞれが自らの正統性を国民ないし民族の物語によって説明していることは、構造の観察として記述できる。しかし、いずれの主張が正当かという評価は、本データベースの記述対象ではない。同じ土地について相容れない複数の国民史が存在するという事態そのものは、ナショナリズムの例外ではなく、その論理から予期される帰結である。
8. 結び——最後発の物語が最強になった理由
ナショナリズムの歩みには、narrativist.orgが用いる4つの関係のすべてが現れている。印刷革命から派生し、民主主義とファシズムという性格の異なる2つの物語を派生させた。社会主義、アナキズム、帝国と対立した。既存の宗教的物語や王権神話を排除せず、その上に重ねて設置されるという意味で習合的にふるまった。そして12件を超える輸入翻訳のエッジが示すとおり、器として世界を一周した。
冒頭に挙げた3つの形式的性質を、ここで検証する。
空白性については、本記事が扱ったすべての事例が証拠になる。ナショナリズムは、記紀の系譜とも、檀君の伝承とも、正教の伝統とも、混血の経験とも、多人種の共存とも接続できた。神学的な内容を持たないことは、この物語の弱さではなく、宿主を選ばないという強さであった。既存の物語と競合せずに、その上位に自らを置けたのである。
複製可能性については、第3節に挙げた装置の一覧が証拠になる。それらは相互に独立した部品であり、順序を変えても、一部を欠いても組み立てられる。19世紀の西欧で成立した設計図が、20世紀の各地で参照可能な状態にあったことが、脱植民地化の局面で新しい国家が短期間に自らを国民として提示できた理由である。物語は、教義の一貫性によってではなく、部品化の程度によって遠くまで運ばれる。
日常性については、他の物語との対比が明瞭にする。宗教は信仰の告白を求め、階級の物語は立場の自覚を求めるが、ナショナリズムはいずれも求めない。天気予報の地図、通貨の単位、時刻表、スポーツの中継——成員は、自らの帰属を意識しないまま、毎日それを再確認している。信じる努力を必要としない物語は、疑う契機も持ちにくい。この物語が自然なものとして体験されるのは、それが自然だからではなく、自然に見えるように日常へ埋め込まれているからである。
だからこそ、この物語を評価する語彙には慎重でありたい。ナショナリズムを危険と呼ぶことも、愛国心を自然と呼ぶことも、記述としては同じだけの情報しか持たない。情報を持つのは、いつ、誰が、どの素材を、どの枠に入れ直し、どの制度によって反復させたかという手順のほうである。その手順は、称揚する側からも断罪する側からも見えにくい。どちらの立場も、物語が作られたものであるという事実を、それぞれの理由で扱いにくいからである。
不確かな点は少なくない。発生年代の見積もりには近代主義とエスノシンボリズムの対立があり、印刷資本主義の因果的な比重にも異論がある。民主主義との先後関係は争われており、ファシズムの起源の比重も決着していない。いずれについても、諸説あると記すほかない。しかし、200年あまり前に発明された分類法が、現在の地球上のほぼ全人口を覆っているという事実自体は、争われていない。私たちが物語を系統樹として記述しようとするのは、この事実を当然の背景としてではなく、説明を要する出来事として扱うためである。
ナラティビスト編集部