科学革命——「知らない」から始める方法

結論を先に置く。1543年から1687年にかけて西ヨーロッパで起きたとされる変化に固有だったのは、地動説でも血液循環でも万有引力でもない。固有だったのは、「これはまだ知られていない」という言明を、恥や欠陥としてではなく、作業の正当な出発点として扱う手続きが、個人の資質から制度へ移されたことである。重要なことはすでに聖典と古典に書かれており、知識の仕事とはその正しい解釈である——長く広く共有されていたこの前提の代わりに、未記入の欄を作り、そこを埋める作業を分担し、埋めた結果を他者の検証にさらす、という工程が組み立てられた。

あらかじめ2点を断っておく。第1に、本記事は科学と宗教を対立関係として描かない。後述するとおり、その図式自体が19世紀後半に作られた比較的新しい物語であり、現在の科学史研究の主流はこれを支持していない。第2に、科学の名において行われた加害を事実として記述するが、現存する特定の国家、集団、職業共同体に責任を帰属させる書き方はしない。責任の配分を主題にした瞬間、記述の対象は構造から敵対関係へ移るからである。

1. 何が「革命」だったのか——時期区分そのものが論争である

データベースはこの物語(NAR-0007)を1543年から1687年として登録し、確度をBとしている。Bである理由は説明欄に明記されている。この期間を1つの「革命」として一括する枠組み自体に、連続説からの有力な異説があるからである。

区切りの根拠は明快ではある。1543年には、コペルニクスの『天球の回転について』とヴェサリウスの『人体の構造について』が刊行された。天と身体という2つの領域で、権威ある古典の記述が観測と解剖によって修正された年として、象徴的に扱いやすい。終点の1687年はニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』であり、地上の落下と天体の運行が同一の数式で記述された年とされる。

しかしこの区切りは、20世紀に作られたものである。「科学革命」という語を歴史記述の単位として定着させたのは、1930年代以降のアレクサンドル・コイレの仕事と、1949年のハーバート・バターフィールドの概説書であった。それ以前、この150年ほどの期間は他の時代区分に溶けていた。

そして、区切りには反論が積み重ねられてきた。中世の自然哲学の連続性を強調する立場は、ピエール・デュエムの研究以来、一貫して存在する。14世紀パリのビュリダンらが論じたインペトゥス理論は、投射体の運動をアリストテレスの枠組みの内側から修正する試みであり、オックスフォードのマートン学派は等加速度運動についての平均速度定理を到達している。大学という制度、論理学の訓練、自然についての体系的な議論の場は、いずれも中世に整備されたものである。科学史家スティーヴン・シェイピンが著書の冒頭に置いた「科学革命などというものはなかった。そして本書はそれについての本である」という一文は、この論争の位置を要約している。断絶を強調する記述と連続を強調する記述は、いずれも同じ史料群から構成できる。

本記事が採るのは、その中間の位置である。個々の理論の内容は連続的に準備された。不連続だったのは、理論を作り、検定し、流通させる工程の組み立て方であった。

2. 単一の起源ではない——材料の輸入経路

データベースは発生地域をREG-0008、西ヨーロッパと登録している。この登録は成立の場所についての記述であって、材料の出所についての記述ではない。

11世紀のイブン・アルハイサム(アルハゼン)は『光学の書』において、視覚を対象から目へ光が入る過程として説明し、暗室と孔を用いた検証の手順を記述した。仮説を立て、それを退けうる観察を設計するという構えが、まとまった形で提示されている。13世紀から14世紀のマラーガ天文台とダマスカスでは、プトレマイオスのモデルに残る力学的な難点を除去するための数学的な工夫が重ねられた。トゥースィーの対円やイブン・シャーティルのモデルが、コペルニクスの用いた作図と数学的に一致することは、複数の研究者が指摘してきた。ただし、その知識がどの経路で西ヨーロッパへ渡ったのか、あるいは独立に再発見されたのかについては、決定的な史料が欠けており、諸説ある。

インド起源の位取り記数法とゼロは、アラビア語圏を経由してヨーロッパの計算の基盤になった。中国の天文記録は、超新星や彗星の出現を長期にわたって残しており、後世の天文学が参照可能な唯一の観測系列となっている場合がある。12世紀の翻訳運動——トレドやシチリアでのアラビア語からラテン語への大規模な翻訳——は、ギリシアの著作を含む厚い蓄積を西ヨーロッパへ移した。文字(NAR-0041)と印刷(NAR-0067)が知識の運搬に果たした役割は、この移転の前提である。

この事実を確認しておくことには、実務的な意味がある。「科学は西ヨーロッパの発明である」という要約と、「科学は西ヨーロッパで制度化された」という記述は、別の主張である。前者は経験的に支持されない。後者は、なぜそこで、その時期にという問いを開いたまま保持する。

3. 「知らない」の制度化——実験、数学、そして公開

工程の設計者として繰り返し引かれるのがフランシス・ベーコンである。1620年の『ノヴム・オルガヌム』が提示したのは、既知の権威から演繹するのではなく、系統的に集めた観察から一般命題へ上がるという手順であった。同書を含む未完の大著の口絵には、古代世界の限界とされたジブラルタルの海峡を船が越えていく図が置かれている。既知の外へ出ることが、事業として構想されている。

ガリレオが加えたのは、記述の言語を数学に固定するという操作である。斜面を転がる球の落下距離が時間の2乗に比例するという定式は、観察の記録ではなく、観察を数式に変換した結果である。宇宙は数学の言語で書かれているという有名な表現は、比喩ではなく作業方針であった。数式で書かれた主張は、書いた者の権威から切り離して検定できる。誰が言ったかを問わずに真偽を扱う可能性が、ここで開かれる。

そして、事実を確立する社会的な手続きが整えられた。ロバート・ボイルの空気ポンプによる実験は、装置が高価で操作が難しく、結果を再現できる者が限られていた。シェイピンとシャッファーが1985年の共著で論じたように、この条件下で「事実」を成立させるには、信頼できる目撃者を立ち会わせ、装置と手順を詳細に記述して読者が紙上で追体験できるようにする、という工夫が必要であった。事実は発見されるだけでなく、確立される手続きを必要とする。

この手続きを常設化したのが学会と学術誌である。1660年にロンドンで王立協会が発足し、1666年にパリで科学アカデミーが設立された。王立協会が掲げた標語 Nullius in verba は、「誰の言葉も鵜呑みにしない」と訳される。権威ある人物の言明を根拠として認めないという宣言が、組織の看板に置かれた。1665年には『フィロソフィカル・トランザクションズ』と『ジュルナル・デ・サヴァン』が創刊される。初代書記ヘンリー・オルデンバーグが各地の研究者と交わした膨大な書簡は、誌面の原料であると同時に、発見の優先権を公開と引き換えに認定する仕組みでもあった。何を発見したかを隠さずに書けば、最初に書いた者として記録される。秘匿より公開が有利になるように、報酬の構造が設計されたのである。

ここで印刷革命(NAR-0067)との接続が効く。図版と数値を含む同一のテキストが遠隔地に複製されて初めて、他者の追試が可能になる。ただしデータベースは、印刷を宗教改革や科学革命の原因とみなす因果的主張について、社会史的な立場からの留保があることを明記して確度をBとしている。印刷は必要条件の候補であって、十分条件ではない。

4. 対立テーゼという後代の物語

科学と宗教を戦争として描く枠組みは、19世紀後半に成立した。1874年のジョン・ウィリアム・ドレイパーの著作と、1896年のアンドリュー・ディクソン・ホワイトの大著が、その定式化として繰り返し引かれる。両書は当時の教育制度と学問の自律をめぐる論争のなかで書かれており、その論争的な文脈を離れた歴史記述として読むことはできない。

現在の科学史研究の主流は、この「対立テーゼ」を支持していない。理由は複数ある。第1に、17世紀の自然哲学者の多くは、自然の探究を神の設計の解読として理解していた。ケプラーの著作にも、ニュートンが残した神学と年代学に関する厖大な草稿にも、その動機は明示されている。第2に、教会の制度は天文学の主要な後援者の1つであった。1582年のグレゴリオ暦改革は高精度の観測を必要とし、いくつかの大聖堂の床には太陽の南中を測るための子午線が敷設された。第3に、ガリレオの裁判は、教義と科学の正面衝突として要約するには要素が多すぎる。聖書解釈の権限をめぐる争い、後援者との関係の変化、対抗宗教改革期のカトリック(NAR-0064)における正統と異端(CON-0037)の管理の強化、当事者間の個人的な軋轢が絡み合っており、評価は現在も分かれる。

逆方向の説明も、確定してはいない。1938年にロバート・マートンが提出した、ピューリタンの価値観が17世紀イングランドの科学活動を促進したというテーゼ(NAR-0034との接続)は、繰り返し検証され、繰り返し批判されてきた。カトリック圏の貢献の大きさ、標本の取り方、価値観と行動の因果の向きが主要な論点である。マックス・ウェーバー(THK-0022)が用いた「脱魔術化」という語も、世界から意味が失われる過程の記述であって、宗教が科学に敗北した過程の記述ではない。

観察されるのは、対立でも調和でもない。同じ人物、同じ制度、同じ資金の流れのなかで、両者が絡み合いながら形を変えていく複合である。対立テーゼが広く流通し続けているという事実自体は、記述の対象になる。単純な二項対立は、複雑な複合よりも語りやすく、記憶しやすいからである。

5. 進歩——時間の形が変わる

工程の制度化は、時間についての感覚を変えた。

来年は今年より多くを知っているだろうという想定は、自明ではない。黄金時代を過去に置き、現在を劣化の途上とみなす時間感覚は、多くの社会に広く分布してきた。循環史観(CON-0034)の下では、そもそも累積という概念が働かない。直線史観(CON-0035)は一神教の系譜において先に成立していたが、その直線が向かう終点は神の介入によって与えられるものであり、終末論(CON-0002)の枠内にあった。

科学革命が行ったのは、この直線の構造を保持したまま、終点へ向かう推進力を人間の作業の累積に置き換えることであった。17世紀末のフランスで争われた「古代人と近代人の論争」は、この転換が可視化された局面の1つである。古典古代の達成を超えることが可能かという問いに対し、少なくとも自然の知識については超えたという回答が、実証的な事例とともに提出された。ベーコンが真理を時間の娘と呼んだ定式は、この方向を先取りしている。1794年、獄中で書かれたコンドルセの『人間精神進歩史』は、この時間感覚を人類全体の無限の完成可能性という形にまで拡張した。進歩(CON-0007)が、知識の領域を越えて道徳と社会の領域を含む歴史像になる。無限成長(CON-0010)という想定は、この延長線上に置かれている。

ただし、注意すべき非対称がある。進歩という物語は、科学の内部から論理的に導かれない。知識が累積することと、その累積が人間の条件を改善することは、別の命題である。前者は工程の性質から言えるが、後者は工程の外部にある価値の主張である。科学が自らを正当化するために自らとは異質な物語を必要とするというこの構造は、大きな物語の終焉(NAR-0022)をめぐる議論の中心論点であり、この媒体では別記事で扱っている。本記事はその指摘を前提として引き継ぐにとどめる。

6. 転用——産業革命と帝国

データベースはNAR-0007からNAR-0068への派生を確度Bで登録している。実験と定量化の作法、大気圧と熱についての知見、技術者と自然哲学者が交わる社交の圏が、蒸気機関と製鉄の改良に転用されたという記述である。トリチェリとパスカルとボイルの真空をめぐる研究がなければ、大気圧で仕事をさせるという発想は成立しにくい。

同時に、説明欄には論争が明記されている。科学を直接の原因とみるか、多数ある条件の1つとみるかについて、実用的な職人知の役割を重視する立場との間で決着がついていない。ニューコメンもワットも、理論から機械を演繹したのではなく、既存の装置を作り替える過程で改良に到達している。産業啓蒙という概念で知識と生産の接続を強調する立場と、資本の蓄積、石炭の立地、労働と燃料の相対価格を重視する立場は、現在も並立している。資本の側の説明については、この媒体の資本主義(NAR-0018)の記事が扱っている。

もう1つの接続は、帝国(NAR-0006)との関係である。データベースは帝国から科学革命への習合を確度Bで登録しており、種別の当てはめには判断が入ると但し書きが付されている。18世紀から19世紀にかけて、探検、測量、博物学、統計、熱帯医学が統治の道具として制度化された。1802年に始まったインド大三角測量は、亜大陸を三角網で覆う事業であり、地図は徴税と軍事の基盤でもあった。植物園の網は有用作物の移植を担い、標本は本国の分類体系へ送られた。同じ制度が、知識の生産と支配の実務を同時に担っていたという事実は、科学の物語を評価する際に外せない。

この節が示すのは、工程が可搬的だったということである。無知を宣言し、測り、記録し、公開するという手順は、対象を選ばない。星の位置にも、蒸気の圧力にも、植民地の人口にも、同じ手順が適用できた。可搬性は長所であり、同時に、次章の主題が発生する条件でもある。

7. 1859年——人間が自然史の内側に入る

データベースは『種の起源』(TXT-0022)を、科学革命を運ぶテキストとして登録している。1859年に提示された自然選択という機構は、設計者を想定せずに複雑な適応を説明する形式であり、生物学の内側の理論であることを超えた効果を持った。人間が、他の生物と同じ説明の枠内に置かれたからである。

この一手は、少なくとも2つの方向へ延長された。第1は説明形式の一般化である。データベースはNAR-0007からミーム論(NAR-0104)への派生を登録している。リチャード・ドーキンス(THK-0048)が『利己的な遺伝子』(TXT-0040)の第11章で提示した文化的複製子の着想は、自然選択の説明形式を遺伝子以外の複製子へ拡張する試みであった。この語彙の学術的な扱いと限界については、この媒体の別記事が扱っている。第2は宇宙論的な延長である。物理法則が至るところで同一であるという想定は、地球が特別な場所ではないという帰結を導き、地球外文明論(NAR-0091)という問いの形を用意した。

そして第3の延長が、人間集団の差異を序列として説明する方向であった。ここから次章に入る。

8. 万能の物語になるとき——科学主義と優生政策

科学主義とは、科学的方法が、それが適用可能な領域を越えて、あらゆる問いに対する唯一の正当な解答形式であるとする立場を指す。この立場に向けられてきた基本的な批判は形式的なものである。「科学的に検証できないものは意味を持たない」という命題それ自体を、科学的に検証する手続きは存在しない。

科学主義が実際の政策に接続した最大の事例が、優生学である。1883年にフランシス・ゴルトンが命名したこの分野は、人間集団の遺伝的な質を管理の対象として扱った。その理論的な前提——複雑な形質が単純な遺伝様式で決まり、社会的な地位がその形質の指標になるという想定——は、遺伝学の展開のなかで支持を失っている。

しかしその前に、政策が実装された。合衆国では1907年にインディアナ州が断種を認める法を制定し、1927年には連邦最高裁が州法を合憲とする判断を8対1で示した。以後、複数の州で手術が行われた。20世紀前半から中葉にかけて、北欧諸国、カナダの一部の州、ドイツ、日本を含む多くの国で、同様の法制度が置かれた。日本では1948年に制定された法が、関連条項の削除される1996年まで存続している。被害者数の推計は国によって幅があり、記録の残り方も一様ではない。ナチス期の人種政策においては、この語彙が体系的な迫害と大量殺害の正当化に用いられた。

記述として重要なのは2点である。第1に、これらは科学の周縁で起きた逸脱ではない。主要な大学の講座、専門学会、査読誌、統計学の中心的な手法の開発者が関与していた。第2に、それでも当時から学術的な反論は存在した。統計学と遺伝学の内部から、集団の遺伝的構成についての推論が根拠を欠くことを指摘する研究者がいた。1950年にユネスコが公表した人種に関する声明は、この批判の蓄積が国際的な文書として結実したものである。

そして、この経験に対する応答は、手続きの側で行われた。1947年のニュルンベルク綱領は、被験者の自発的な同意を研究の必要条件として明文化した。1964年のヘルシンキ宣言と1979年のベルモント・レポートがこれを継承し、研究倫理審査の制度が各国に整備された。人格性(CON-0052)という概念をめぐる議論も、この文脈で精緻化されてきた。ここから読み取れる構造は明瞭である。加害が起きたのは、科学の工程が働きすぎたからではない。結論の権威が工程から切り離され、検証と反論の回路を通過せずに政策へ直行したからである。

9. 自己修正の装置——反証、パラダイム、再現性

工程が働くとはどういうことかについて、20世紀は2つの有力な記述を生んだ。

カール・ポパーは1934年の著作で、反証可能性を科学と非科学の境界設定の基準として提示した。ある主張が科学的であるのは、それを退けうる観察をあらかじめ指定できるときである。トマス・クーンは1962年の『科学革命の構造』で、別の記述を与えた。通常の研究は共有された枠組み(パラダイム)の内側でのパズル解きとして進み、蓄積した変則事例が枠組みを圧迫したときに、枠組みごとの交代が起こる。この記述は、科学の進行を連続的な真理への接近として描く像を修正した。

クーンの受容には、注意すべきねじれがある。枠組みの間の通約不可能性という論点は、あらゆる知識主張が等価であるという主張の資源として引かれることが多かった。クーン自身は繰り返しその読み方を否定している。記述としてのパラダイム論と、相対主義的な結論のあいだには、本人が引いた線がある。

より直接に工程を試したのは、2010年代の再現性をめぐる検証である。心理学の主要誌に掲載された研究を大規模に追試した2015年の共同プロジェクトでは、追試された100件のうち、元の結果と同方向の有意な効果が再現されたのは4割弱にとどまった。がん生物学の分野でも、独立の追試の成功率は低い水準が報告されている。原因として指摘されたのは、統計的に有意な結果のみが公表されやすい出版バイアス、標本規模の不足、解析の自由度、そして追試と否定的結果を評価しない業績評価の構造である。

この事態の解釈には、慎重さが要る。低い再現率は、科学の破綻の証拠として引かれることがある。しかし、この事実が明らかになった経路そのものが、公開された手順に基づく追試という工程であった。工程は失敗を生み、同じ工程が失敗を検出した。応答として導入された事前登録、登録報告、データとコードの公開、統計的実践の見直しは、いずれも第3節で記述した公開と検証の設計を強化する方向にある。科学不信をめぐる現在の言説状況(NAR-0023、REL-0017)については、この媒体の別記事が構造分析を行っているため、ここでは科学の側の応答を記録するにとどめる。

10. 未来へ——延長された系譜

データベースはNAR-0007からトランスヒューマニズム(NAR-0083)への派生を確度Bで登録している。自然を操作可能な対象として記述する構えを人間自身に適用し、生物学的な制約を改変可能な条件として扱う立場である。1957年にジュリアン・ハクスリーが用いた語が、1990年代に団体と宣言を通じて運動として組織された。

この系譜には、繰り返し指摘される形式上の特徴がある。有限な身体という条件からの解放を、技術の累積によって達成するという構図は、救済の物語が持つ形式と類似する。データベースがトランスヒューマニズムの中核概念に進歩とともに救済を挙げているのは、この対応を記録したものである。ただし、形式が似ていることは内容が同じであることを意味しない。この対応づけを因果関係として扱うことはできない。

シンギュラリティ(CON-0015)は、データベース上で確度Cとされている。人工知能の能力が人間を超え、自己改良の加速によって以後の帰結が予測不能になるという転換点の仮説であり、到来の必然性と時期について専門家の見解の幅がきわめて大きいことが、確度の理由として記されている。この語が持つ機能は、予測というより、時間の形を1点に集約させる装置に近い。直線の先に特異な1点を置くという構造は、終末論が持っていた形式と共通する。

対抗する記述も登録されている。ポストヒューマニズム(NAR-0081)は、ダナ・ハラウェイ(THK-0046)らの仕事を経由して、人間という単位を強化する方向ではなく、その境界を問い直す方向へ議論を向けた。データベースはこの2つの対立を確度Bで登録している。

科学革命から伸びる系譜は、これらに限られない。冷戦期の公的研究資金と、査読と公開を旨とする学術的な作法が、パケット交換網と公開仕様の設計思想に反映されたという経路(NAR-0069)。環境問題の解決を技術的能力の向上に求める立場(NAR-0057)——ただしこのエッジには、当事者の自己記述が必ずしもこの系譜を認めていないという但し書きが付されている。人新世(NAR-0088)と環境主義(NAR-0078)は、同じ工程が生んだ計測能力によって、工程の産物である産業活動の帰結を可視化した事例である。そして長期主義(NAR-0059)は、リスク(CON-0051)という枠組み——不確実性を推計と管理の対象へ変換する近代的な認識様式——を、遠い未来の世代にまで拡張しようとする試みである。AI共生の物語(NAR-0055)へのエッジは確度Cであり、前提となる知識観の継承という水準にとどまる。

11. 結び——無知の告白は謙遜ではなく技術である

5世紀分の経路を辿った結果として、3つの傾向を記録しておく。

第1に、発明されたのは知識の内容ではなく、知識を作る工程であった。だからこそ輸出可能だった。地動説や万有引力の法則を輸入することと、無知を宣言して測り記録し公開するという手順を輸入することは、別の作業である。19世紀以降に各地で起きたのは主として後者であり、大学制度、技術教育、広域の調査事業がその器となった。日本では蘭学から明治期の学制へと接続したという経路が、データベースの伝播経路欄に記録されている。

第2に、工程から切り離された結論は、権威としてしか作動しない。優生政策の記録が示すのはこの構造である。「科学が示している」という言明が、どの手続きを通過したかを問われずに通るとき、その言明は聖典の引用と機能的に同じ位置に立つ。皮肉なのは、それが科学革命の出発点で否定されたはずの位置だという点である。Nullius in verba という標語は、権威ある者の言明を根拠として認めないという宣言であり、その権威ある者に科学者自身が含まれることまでを射程に入れている。

第3に、「知らない」を出発点にできるかどうかは、個人の誠実さより制度の設計に依存する。撤回しても職を失わず、否定的な結果を公表しても評価が下がらず、追試のための資源が配分されている場合にのみ、無知の告白は現実的な選択肢になる。再現性をめぐる10年余りの議論が最終的に到達したのが、個人の倫理ではなく評価制度と公開手続の設計であったのは、この理由による。

科学革命という物語が5世紀にわたって拡張し続けてきたのは、それが真理を独占したからではない。空欄を作り、空欄を埋め、埋めた内容を他者が消せるようにしておく——この3段構えが、他のどの知識の様式よりも、誤りを抱えたまま前進することを許したからである。誤りを抱えられるということは、誤りを訂正できるということでもある。物語としての強度は、正しさの総量ではなく、訂正の回路の太さに宿る。

そしてこの物語の弱点も、同じ場所にある。訂正の回路は費用を要し、その費用は誰かが負担しなければ維持されない。回路が痩せたとき、残るのは結論の権威だけである。5,000年分の物語を同じ様式で記述しようとするこの媒体が、確度という段階を記事ごとに申告するのは、その回路を、規模は小さくとも同じ形で再実装する試みにあたる。

ナラティビスト編集部