独立を語る言葉——ウブントゥ、ネグリチュード、パン・アフリカニズム
結論を先に置く。20世紀の脱植民地化は、統治権の移譲だけでは完結しなかった。旗が掲げられ、議席が与えられ、国境が確定した後にも、独立した側には片づかない仕事が残された。自分たちが何者であり、なぜ統治する資格があるのかを、自分たちの言葉で語り直す作業である。この作業が難航したのは能力の問題ではない。支配の正当化に用いられた語彙——文明、発展段階、未開、後進——が、被支配側の教育制度と行政言語を通じて、すでに内面化されていたからである。独立とは、その語彙の内側で語彙そのものを書き換える試みだった。
本記事が扱う3つの物語は、この試みに対する時期と場所の異なる解答である。
- パン・アフリカニズム(NAR-0050)は、大陸ではなくディアスポラで発生した。1900年ロンドンの第1回パン・アフリカ会議から1963年のアフリカ統一機構設立までの63年をかけて、離散した人々の連帯が大陸の政治綱領へ転換した
- ネグリチュード(NAR-0016)は、1930年代のパリという帝国の中心で、フランス語という支配の言語によって書かれた。反転——貶められた属性を価値へ裏返す操作——を戦略として選び、その本質主義ゆえに批判された
- ウブントゥ(NAR-0015)は、政治闘争が終わりかけた1990年代の南部アフリカで、和解の語彙として公共圏に登場した。3つのなかでもっとも新しく、伝統の呼称をまといながら、もっとも近代的な再構成を経ている
3つは相互に翻訳可能ではない。共通するのは、いずれも植民地主義(NAR-0100)という対抗物語を前提として初めて意味を持つという構造である。そしてこの構造こそが、独立後にそれぞれが直面した困難の原因でもあった。
1. 語る資格を奪う統治——何が問題だったのか
植民地主義は領土と労働と資源の収奪であると同時に、記述の体制でもあった。この点を強調しておく必要がある。暴力の事実——強制労働、土地収用、懲罰遠征、人口の強制移動——は歴史的に確認されており、記述を和らげる理由はない。だが、それらの暴力がなぜ長期にわたって統治として成立しえたかを問うと、物理的強制だけでは説明が足りない。
植民地主義は、遠隔地を支配下に置く帝国(NAR-0006)という統治形式の近代的な変種である。本国と海外領域を法的に区別し、人口の強制的な移動と資源の一方向的な移転を体系化した点に、その特徴がある。19世紀後半の分割期に整えられた正当化の論理は、時間の比喩を用いた。支配される側は「まだ」その段階に達していない、という語り方である。この論理は、支配を永続的なものとしてではなく、教育的・過渡的なものとして提示できた点で強力だった。反論は困難である。反論する側が用いる言語も、書く文体も、その体制が供給したものだからである。宗主国の大学で学んだ知識人ほど、この二重拘束を強く経験した。
もう1つ、より深い作用があった。支配は、被支配地域を歴史のない場所として記述した。文字記録の不在は歴史の不在と等置され、口承は資料として算入されず、都市も王権も交易網も、外来の影響として説明された。したがって独立運動は、主権を要求する前に、要求する主体が過去を持つことを示さなければならなかった。反植民地主義・脱植民地化(NAR-0101)が、政治綱領であると同時に文化的な運動として展開したのは、この順序による。
19世紀にはすでに先行者がいた。西インド諸島に生まれリベリアで活動したエドワード・ウィルモット・ブライデン(1832年-1912年)は、「アフリカ的人格」という語で、ヨーロッパとは異なる固有の資質を主張した。この主張は、後の3つの物語がとる基本形——差異を欠如ではなく固有性として読み替える——を先取りしている。同時に、その難点も先取りしていた。差異を肯定的に語り直す操作は、差異の存在そのものを前提として受け入れてしまう。この難点は、以後1世紀にわたって繰り返し現れる。
2. パン・アフリカニズム——離散から大陸へ
パン・アフリカニズムの発生地は、アフリカ大陸ではない。トリニダード出身の法律家ヘンリー・シルヴェスター・ウィリアムズの呼びかけで1900年にロンドンで開かれた第1回パン・アフリカ会議には、カリブ海、北米、そしてわずかに大陸からの参加者が集まった。この会議で採択された宣言のなかで、W.E.B.デュボイス(THK-0042)は「20世紀の問題は皮膚の色の境界線の問題である」と述べた。この一文は3年後の『黒人のたましい』に再録され、以後の20世紀を通じて引用され続けた。
なぜ大陸ではなくディアスポラだったのか。答えは条件の違いにある。奴隷貿易によって離散した人々は、出身地の言語も宗族も失っていた。残されたのは、外部から一括して押しつけられた分類——黒人——だけである。この分類は、押しつけられたがゆえに広く、広いがゆえに連帯の単位になりえた。大陸では、人々は依然としてそれぞれの言語と政体に属しており、括る必要が生じていなかった。皮肉なことに、共通の呼称は収奪の産物だった。
デュボイスは1919年のパリを皮切りに、1921年、1923年、1927年とパン・アフリカ会議を組織した。同じ時期、ジャマイカ出身のマーカス・ガーヴィーは万国黒人地位改善協会を率い、ハーレムを拠点に大衆規模の運動を作った。両者の路線は鋭く対立した。デュボイスは教育を受けた層による漸進的な権利獲得を、ガーヴィーは経済的自立とアフリカへの帰還を掲げた。この対立——エリート主導か大衆動員か、統合か分離か——は、以後の運動に繰り返し再現される。
転回点は1945年のマンチェスターで訪れた。第5回パン・アフリカ会議は、それまでの請願の言語を捨て、植民地支配の終結を明示的な綱領として掲げた。この会議には、ガーナ独立の指導者となるクワメ・エンクルマ(THK-0016)、ケニアのジョモ・ケニヤッタ、トリニダード出身の理論家ジョージ・パドモアが集まっていた。ディアスポラで練られた議論が、帰国する指導者たちによって大陸へ運ばれる回路が、ここで開通した。関係の型としては輸入翻訳にあたる。ヨーロッパ由来の民族自決と国民国家の語彙が、単一の国民ではなく大陸とディアスポラという単位へ拡大されて翻案されたのである。
1957年、ガーナがサハラ以南で最初に独立を達成する。エンクルマは「まず政治的王国を求めよ」と述べ、政治権力の獲得を他のすべてに先行させた。彼の構想は単独国家の独立にとどまらず、大陸規模の連邦政府にまで及んだ。1963年にアディスアベバでアフリカ統一機構が設立されたとき、この構想は部分的にしか実現しなかった。即時の政治統合を求めるカサブランカ・グループと、既存国家の主権を尊重する漸進派のあいだで、後者が優勢だったからである。
翌1964年、アフリカ統一機構はカイロで、植民地時代に引かれた国境を原則として承認する決議を採択した。分割の産物である線が、独立国家の枠として固定された。この決定は、国境紛争の連鎖を回避する現実的判断であったと同時に、統一の理想からの明確な後退でもあった。エンクルマ自身は1965年に新植民地主義を論じた著作を発表し、形式的独立と実質的従属の乖離を告発したが、翌1966年に軍事クーデターで失脚した。
3. ネグリチュード——反転という戦略
パン・アフリカニズムが政治の言語で応答したとすれば、ネグリチュードは詩の言語で応答した。関係は派生である。1920年代のパン・アフリカ会議とハーレム・ルネサンスの言説が、パリに学ぶカリブ海・西アフリカ出身の学生に受容され、文芸運動として結晶した。
舞台はパリだった。マルティニーク出身のエメ・セゼール、セネガル出身のレオポール・セダール・サンゴール、フランス領ギアナ出身のレオン=ゴントラン・ダマスが、1935年に短命の学生誌『黒人学生』を刊行する。この時期に先立って、マルティニーク出身のポーレット・ナルダルとジャーヌ・ナルダルの姉妹が主宰したサロンと、1931年から翌年にかけて発行された二言語誌が、英語圏のハーレム・ルネサンスの作品をフランス語圏へ橋渡ししていた。運動史の記述で長らく手薄だったこの媒介の役割は、近年になって再評価されている。
ネグリチュードという語の初出は、セゼールが1939年に発表した長篇詩『帰郷ノート』とされる。ダマスの詩集『色素』は1937年に刊行されており、作品としてはこちらが先行する。運動の起点をどの作品に置くかについては諸説ある。
戦略の核心は反転である。「ニグロ」という侮蔑語をそのまま引き受け、価値の符号を裏返す。理性・抽象・技術の側にヨーロッパを置き、感性・律動・生命との交感の側に黒人を置いたうえで、後者を劣位ではなく別種の卓越として提示する。サンゴールが定式化した「感動は黒人的であり、理性はギリシャ的である」という一文は、この操作をもっとも簡潔に、そしてもっとも危うい形で表している。
危うさは明白である。ヨーロッパの人種論が設定した対立軸を、そのまま温存しているからだ。1948年、サンゴールが編んだ詩選集に序文を寄せたジャン=ポール・サルトルは、ネグリチュードを「反人種主義的な人種主義」と呼び、階級なき社会へ至る弁証法の否定的契機、やがて乗り越えられるべき通過点として位置づけた。擁護のかたちをとった格下げである。この序文への反発は、運動内部に長く残った。
運動は制度を得た。1947年にアリウン・ジョップが創刊した誌『プレザンス・アフリケーヌ』は思想の交換路となり、1956年にパリで開かれた第1回黒人作家芸術家会議は、フランス語圏と英語圏、大陸とカリブ海と北米の書き手を初めて同じ卓に着かせた。1966年にダカールで開かれた第1回黒人芸術祭は、独立国セネガルの大統領となったサンゴールが国家事業として組織したものであり、ネグリチュードが文化政策として実装された到達点だった。
政治的にも展開した。サンゴール、そしてタンザニアのジュリウス・ニエレレらは、マルクス主義の疎外論と計画経済の構想を受容しつつ、階級闘争と無神論を退け、共同体的伝統を基礎に据える「アフリカ社会主義」(NAR-0020との習合)を定式化した。マルクス主義の側からは折衷との批判が向けられ、実際の経済的成果についても評価は分かれている。
4. 反転への批判——ショインカ、ファノン、そして内部から
批判はまず、同じアフリカの側から来た。
もっとも有名な一撃は、ナイジェリアの劇作家ウォーレ・ショインカ(THK-0008)によるものである。1962年にウガンダのマケレレで開かれたアフリカ人作家会議での発言として伝えられる「虎は自らの虎性を宣言しない。虎はただ飛びかかる」という言葉は、以後この論争を代表する引用となった。発言の正確な場と文言については異同があり、ショインカ自身も後年、伝えられている形とは違うと述べている。趣旨は明快である。本質を宣言しなければならないこと自体が、宣言する側の従属を示している。虎は自分が虎であることを証明する必要がない。
ショインカの批判は、単なる警句ではなかった。彼の主張は、アフリカの創作はヨーロッパへの応答としてではなく、自らの神話的資源を思考の道具として用いるべきだというものである。彼がヨルバの神格オグンを論じたのは、誇るべき血統としてではなく、創造と破壊が不可分に結合した行為者の型としてであった。ヨルバ宗教(NAR-0004)は、ここでは信仰の対象ではなく、演劇論と行為論のための概念装置として動員されている。1967年から1969年まで、ナイジェリア内戦のさなかに彼が独房で拘禁されたことは、この立場が抽象的な文学論ではなかったことを示している。
より体系的な批判は、フランツ・ファノン(THK-0041)から出た。マルティニーク生まれの精神科医であるファノンは、1952年の著作で、サルトルによる格下げに強く反発しつつ、同時にネグリチュード自体の限界も指摘した。決定的な定式化は、死の年である1961年に刊行された『地に呪われたる者』(TXT-0037)の民族文化を論じた章にある。彼の議論は3段階を描く。植民地の知識人はまず宗主国の文化に同化し、次にそれを拒んで自らの過去へ回帰し、最後に、現に闘っている人々のただなかで、闘争そのものの内側から文化を作る。ネグリチュードは第2段階である。必要な段階だが、そこに留まることはできない。大陸全体を包括する黒人文化という抽象は、具体的な民族的・社会的現実に着地しなければならない、というのがファノンの主張だった。
ギニアビサウとカーボベルデの独立運動を率いたアミルカル・カブラル(1924年-1973年)は、同じ論点をさらに実務的に述べた。文化とは所有すべき本質ではなく、支配のもとで実際に営まれ続けた抵抗の実践であり、解放運動は民衆の文化的現実へ「源へ帰る」ことによってしか根を持てない。同時に彼は、人は理念のためだけに闘うのではないとも述べている。この現実主義は、反転の詩学が届かない領域を指していた。
ファノンをめぐっては、暴力の位置づけが最大の論争点であり続けている。『地に呪われたる者』の冒頭章は、植民地支配が暴力によって設立された以上、その解体も暴力の局面を避けられないと論じ、被支配者にとっての暴力に主体の回復という機能を認めた。この議論がどこまで暴力の推奨であり、どこまで現象の記述であるかについては、当初から評価が分かれている。ハンナ・アーレント(THK-0043)は1970年の論考で、この読解の流通にはサルトルの序文が大きく作用したと指摘し、暴力を創造的な力として語ることの危険を批判した。ファノン自身の位置づけと、序文が増幅した像を区別すべきだという整理は、現在では広く共有されている。
批判はフランス語圏の内部からも出た。1970年代のベナンの哲学者スタニスラス・アドテヴィやカメルーンのマルシアン・トワは、ネグリチュードを植民地支配の裏面にすぎない神秘化として退けた。他方でセゼールは、サンゴール的な生物学的本質主義と自らの立場を区別し、ネグリチュードは本質ではなく歴史的経験の共有を指すと繰り返し述べている。運動を単一の教義として要約できないのは、この内部差のためである。
5. 独立の翌日——受け取り物としての国境と国民
1960年前後、多数の国家が独立した。そこで直面したのは、要求の言語から統治の言語への切り替えである。この移行は容易ではなかった。
ナイジェリアはその典型例を提供する。1914年に南北の保護領が行政上の都合で統合され、1960年に独立したこの国家が引き受けたのは、自らが選んだのではない境界であった。国民統合の物語(NAR-0012)は、ナショナリズム(NAR-0017)というヨーロッパ由来の器を、植民地行政単位の輪郭に流し込むことによって形成された。国旗、国歌、標語に加え、公職の配分に地域的均衡を求める連邦性格原則や、大学卒業者を出身地以外の州へ派遣する全国青年奉仕団のような制度が、統合の装置として設計された。1967年から1970年の内戦の後、州の増設と連邦制の再編が同じ目的で用いられた。
ここには構造的な緊張がある。パン・アフリカニズムは、大陸とディアスポラという広い単位で連帯を語った。ネグリチュードは、人種という、さらに国境を無視する単位で価値を語った。ところが独立によって実際に成立したのは、分割線に沿った国民国家である。広い単位の物語で動員し、狭い単位の制度で統治するという不整合を、独立後の各国は抱え込むことになった。
3つの物語の位置関係を整理しておく。
| 物語 | 発生の場所と時期 | 動員の単位 | 中心的な操作 | 主な批判 | |---|---|---|---|---| | パン・アフリカニズム | ロンドン・大西洋世界/1900年〜 | 大陸とディアスポラ | 連帯の制度化 | 統合の理想と国家主権の現実の乖離 | | ネグリチュード | パリ/1930年代〜 | 人種 | 価値の反転 | 本質主義、対立軸の温存 | | ウブントゥ | 南部アフリカ/1990年代〜 | 共同体と国民 | 和解の規範化 | 伝統の再構成、政治的動員への転用 |
この表は要約であり、いずれの物語も内部に複数の立場を含んでいる点を再度断っておく。
制度としての成果は残った。アフリカ統一機構は2002年にアフリカ連合へ改組され、地域経済共同体と大陸自由貿易圏が積み上げられている。奴隷制と植民地支配に関する賠償、収奪された文化財の返還、ディアスポラの市民権をめぐる現在の議論は、いずれも1900年に定式化された枠組みの延長線上にある。理念が実現しなかったと述べるだけでは、この持続を説明できない。
6. ウブントゥ——遅れて登場した語彙
3つのなかでもっとも新しいのがウブントゥである。そしてもっとも、伝統と近代の切り分けが難しい。
語そのものは古い。ングニ語系のズールー語・コサ語で「人は他の人々を通じて人である」と表現される言い回しがあり、ソト・ツワナ語系ではボト、ショナ語ではフンフという対応語がある。バントゥ語圏に広く分布する人格観であり、19世紀の辞書類にも「人間らしさ」を意味する語として記録されている。争点は語の存在ではなく、それが「哲学」あるいは「政治理念」として体系化されたのがいつかである。
体系化は20世紀後半に進んだ。1970年代の南アフリカの著述家や、1980年にジンバブウェで刊行された著作が、この語を土着の政治哲学として提示した。決定的だったのは1990年代の南アフリカである。1993年の暫定憲法の後文は、報復ではなく理解を、報い返しではなく償いを、そして犠牲者化ではなくウブントゥを必要とする、と述べた。1995年、憲法裁判所は死刑を違憲と判断した判決のなかで、複数の裁判官がこの語を援用した。1996年に成立した最終憲法の条文にこの語は現れないが、公共的な語彙としての地位はすでに確立していた。真実和解委員会の議長を務めたデズモンド・ツツ大主教は、加害の全面開示と引き換えに恩赦を与えるという設計を、キリスト教の赦しの神学とウブントゥの人間観の接合として説明した。関係の型としては習合である。
有効性は否定できない。国家の全面的崩壊が予想された移行を、比較的低い流血で通過させた点において、この語彙は実務的な機能を果たした。加害の事実を公的記録に残す装置としても機能した。
同時に、公平な扱いが要求される論点が3つある。第1に、来歴の問題である。この概念が数千年の伝統の直接の継承であるのか、20世紀後半に近代的な問題設定に合わせて再構成されたものであるのかについては、学術的な論争が続いている。伝統の呼称をまとった近代的構築であるとする立場は、南アフリカの研究者自身からも提出されており、単純な外部からの疑義ではない。年代の確定は困難であり、諸説あると述べるほかない。
第2に、和解の代価である。恩赦を得た加害者に対して、被害者側が求めた司法的な処罰と物的補償は、多くの場合実現しなかった。ウブントゥの名において赦しを規範化することが、被害の当事者に赦す義務を課す圧力として作用しうるという批判は、委員会の活動当時から提起されていた。共同体的調和を優先する語彙は、個人の権利主張を後回しにする方向へ働きやすい。
第3に、政治的転用である。共同体への忠誠を説く語彙は、指導部への異論を共同体の分裂として封じる用途に転じうる。労働現場で、企業への献身を求める管理の言葉として用いられた例も指摘されている。さらに、2008年と2015年に南アフリカで外国出身者に向けられた集団的暴力は、ウブントゥの理念が現に共有された規範として機能する範囲に限界があることを示した。理念を掲げることと、理念が働くことは別である。
これらの論点は、ウブントゥを否定する材料としてではなく、扱いの精度を上げる材料として記録されるべきである。ある理念が政治的に利用されうるという事実は、その理念の内容の真偽とは別の問題だからだ。逆に、利用の履歴を消して純粋な伝統として提示する記述は、ネグリチュードが受けたのと同じ批判——本質化——を招き寄せる。
7. 理論への移動、素材への移動
1970年代以降、これらの物語は2つの方向へ移動した。
1つは学術理論への転位である。ポストコロニアル理論(NAR-0103)は、ファノンやセゼールの反植民地主義のテクストを、フーコーの言説分析、デリダの脱構築、グラムシのヘゲモニー論と接合することで成立した。エドワード・サイード(THK-0037)が1978年に発表した『オリエンタリズム』(TXT-0031)は直接には中東を対象としたが、支配の側が対象を語る枠組みそのものを分析するという手法において、セゼールとファノンの系譜を引いている。オリエンタリズム(NAR-0080)として名指されたこの知の体制の分析は、対象と地域を拡張しながら制度化された。分野はインドのサバルタン研究、カリブ海のクレオール化論、ラテンアメリカのデコロニアル論と相互に翻訳されながら広がった。
この転位には代価もあった。理論の主要な担い手が旧宗主国と北米の大学に位置することの構造的な意味、そして難解な文体が対象とされる人々から理論を切り離しているという批判は、分野内部で継続的に論じられている。ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴが1986年に、英語での執筆をやめてギクユ語で書くと宣言したのは、この乖離に対する実践的な応答だった。言語の選択は、ネグリチュードがフランス語で書かれたという出発点の問題に、半世紀後に返された解答でもある。
もう1つは、想像力の素材への転位である。黒人性を積極的価値として再定義し、固有の未来像を構想する構えは、アフロフューチャリズム(NAR-0024)の系譜へ引き継がれたと論じられてきた。ただしアフロフューチャリズムは合衆国の音楽実践と大衆文化から独立に立ち上がった面が強く、ネグリチュードからの直接的な派生として主張するには留保が要る。系譜の記述は、影響の有無ではなく、影響の程度をめぐる問題である。
大西洋の反対側にも作用は及んだ。大西洋を越えた黒人の共通経験と連帯を語る枠組みは、ブラジルの黒人運動に、混淆による調和を国民の物語として掲げてきた人種民主主義(NAR-0098)を検証する視座を与えた。1978年の統一黒人運動の結成以降、その物語は達成された現実ではなく不平等を覆い隠す語りとして問い直されている。
大陸側でも、文化祭典は思想の実装形式であり続けた。1966年ダカールの黒人芸術祭がネグリチュードの国家的展示であったとすれば、1977年にラゴスで開かれた第2回世界黒人・アフリカ文化芸術祭は、より広い黒人世界を単位とし、パン・アフリカニズムの系譜に近い枠組みで組織された。同じ大陸の2つの祭典が、異なる物語を実装していたのである。
近年の展開も、この系譜の内部にある。2015年に南アフリカの大学から始まった記念像の撤去と教育課程の見直しを求める運動は、脱植民地化を独立後の制度内部の課題として再設定した。自己に関する記述と知識を誰が統治するのかという問いは、統計、ゲノム、言語資料の領域に適用され、データ主権(NAR-0082)という新しい語彙を生んでいる。植民地主義批判が扱う対象は、領土から表象へ、そして記録へと移動してきた。
8. 結び——語り直しに完成がない理由
3つの物語を並べると、共通の構造が見える。
いずれも、対抗物語を必要とする物語である。植民地主義(NAR-0100)という参照点があって初めて、反転も連帯も和解も意味を持つ。これは弱点であると同時に、発生の条件でもある。対立するには、同じ問いを共有していなければならない。誰が語る資格を持つのか、という問いを植民地主義と共有していたからこそ、3つの物語はそれに応答できた。
第2に、これらはすべて翻訳の産物である。パン・アフリカニズムは、ヨーロッパ由来の民族自決の語彙を大陸とディアスポラという単位へ拡大して翻案した。ネグリチュードは、フランス語の詩の形式で書かれた。ウブントゥは、口承的な人格観を憲法と司法の語彙へ移した。翻訳は常に変形をともなう。ネグリチュードが本質主義に傾いたのは、反転という操作が元の対立軸を運搬してしまうからであり、ウブントゥが動員に転用されうるのは、共同体の倫理を国民の規範へ翻訳した時点で単位が入れ替わっているからである。訳語と単位の選択そのものが、その後の帰結を規定している。
第3に、いずれも理想化に耐えない。これは3つの物語の欠陥ではなく、思想一般の性質である。ある理念を、批判を受けつけない純粋な伝統として提示することは、その理念を政治から守るのではなく、政治による利用に対して無防備にする。ネグリチュードへの内外からの批判、ウブントゥの政治的利用への検証、パン・アフリカニズムにおける統合の理想と国家主権の現実の乖離——これらを記録することは、思想を貶めることではない。使用可能な状態に保つことである。
そして、これらの物語を外部から眺める側にも、対称的な注意が要る。アフリカ思想を、西洋の合理主義に欠けたものを補う癒しの資源として受け取る受容は、サンゴールの図式を符号だけ変えて再生産する。感性の側に配置するという操作自体が、批判されてきた当のものだからである。ウブントゥを経営理論の一節として引用するとき、ネグリチュードの詩をリズムの称揚として読むとき、この危険は日常的に作動している。
最後に、冒頭の主張へ戻る。独立は制度だけでは完成しなかった。ではいつ完成するのか。この問いに完成時点を設定できないことが、本記事のもう1つの結論である。自らを語る言葉は、一度作れば済むものではない。語彙が公共圏に定着した瞬間から、その語彙は別の目的に流用されはじめ、次の世代は流用された語彙の内側で、もう一度語り直すことを求められる。1900年のロンドンから1930年代のパリ、1945年のマンチェスター、1963年のアディスアベバ、1993年のヨハネスブルグ、2015年のケープタウンへと続く系譜は、達成の年表ではなく、更新の年表として読むほうが正確である。物語を系統樹として記述しようとするのは、この更新の履歴を、失敗の記録としてではなく作動の記録として保存するためである。
ナラティビスト編集部