大きな物語の終焉——空白は何に埋められたか

結論を先に置く。大きな物語は終わっていない。1979年にジャン=フランソワ・リオタール(THK-0023)が記述したのは、物語の消滅ではなく、物語を正統化していた装置の失効である。そして半世紀が経過した現在、観察されるのは物語が減った世界ではない。物語の供給量はむしろ増大し、供給の担い手が分散し、供給されたものを共同で検定する手続きが痩せた世界である。

この非対称——需要は残り、検定は退いた——が、本記事の中心にある構造である。大きな物語の終焉(NAR-0022)とポスト・トゥルース(NAR-0023)は、しばしば「知的退廃の前後関係」として語られる。しかしデータベース上でこの2つを結ぶエッジは、確度Bの派生関係として登録されており、その説明欄には当事者からの反論があると明記されている。因果は主張されているが、確定していない。この記事は、確定していないものを確定させるためではなく、確定していないという状態を正確に扱うために書かれている。

なお本記事は、現在の政治的分断について、特定の陣営・政党・運動に責任を帰す記述を行わない。それは中立を装うためではない。責任の帰属を主題にした瞬間、記述の対象は構造から敵対関係へ移り、構造の観察が続けられなくなるからである。

1. リオタールが述べたことの範囲

『ポストモダンの条件』(TXT-0019)は、思想の宣言として書かれた本ではない。ケベック州政府の大学評議会からの委嘱を受けた、先進社会における知の状況についての報告書である。副題が「知についての報告」であることは、この文書の性格を正確に示している。刊行は1979年、英訳は1984年、そこから人文社会科学への本格的な流入が始まった。

この報告の中心命題は、しばしば引用される1文に凝縮されている。ポストモダンとは、メタ物語に対する不信である——という定式である。ここで重要なのは、不信の対象がメタ物語に限定されている点である。メタ物語(メタナラティヴ、グラン・レシ)とは、個々の知識主張がなぜ正しいのかを、その知識の外部から保証する上位の物語を指す。リオタールが具体例として挙げたのは3つである。精神が自らを実現していくという弁証法の物語、人類が抑圧から解き放たれていくという解放の物語、そして知が富の創出に奉仕するという有用性の物語である。

この3つが名指されている以上、対立関係は明示的である。データベースはドイツ観念論(NAR-0014)との対立を確度Aで登録している。批判の対象が本人によって明記されているという条件を満たす関係は、実は多くない。

リオタールの論証の核は、科学の知が自己を正統化できないという指摘にある。ある命題が真であることを示す手続きは科学の内部にあるが、その手続きに従うべきである理由は科学の内部から出てこない。理由は必ず物語の形をとる。人類の進歩に資するから、解放をもたらすから、有用だから——つまり科学(NAR-0007)は、自らを支えるために自らとは異質な言語ゲームを必要とする。この構造を、リオタールはヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を借りて記述した。

そして処方として提示されたのは、大きな物語の再建ではなく、小さな物語の複数性と、合意ではなく新しい手を生み出すことを目的とする議論の様式であった。ここに、後年の受容における最大のねじれがある。リオタールは正統化の複数化を論じたのであって、正統化の放棄を論じたのではない。にもかかわらず、この本は「何でも許される」という主張の出典として引かれることが増えた。リオタール自身が後年、この著作を自らの本のなかで最も出来の悪いものと述べたと伝えられるのも、この受容のずれと無関係ではない。

対立関係はもう2つ登録されている。単一神話論(NAR-0021)との対立、そして物語形態論(NAR-0054)との対立である。いずれも確度Bであり、直接論争した史実はなく、理論的含意の水準にとどまるという限定が付されている。ジョーゼフ・キャンベル(THK-0007)が『千の顔をもつ英雄』(TXT-0008)で提示した、あらゆる文化の英雄譚に単一の道筋を見出す立場は、普遍的な物語構造の存在を前提とする。リオタールの立場は、普遍を主張する物語の正統化機能そのものを疑う。両者は同じ問いを共有しているがゆえに対立する。ただし、ここには留保が要る。リオタールの「物語」は知を正統化する装置を指し、プロップやキャンベルの「物語」は説話の形態を指す。同じ語で呼ばれているが、指示対象は同一ではない。

2. 半世紀の検算——何が終わり、何が終わらなかったか

1979年からの半世紀を検算すると、終わったものと終わらなかったものは、きれいに分かれる。

終わらなかったものから挙げる。進歩の物語は消えていない。むしろ形を変えて増殖した。技術によって人類の条件は改善するという語りは、20世紀後半以降の情報技術と生命科学の領域で、19世紀の産業的楽観論に劣らない強度で再生産された。経済成長が社会問題の一般解であるという枠組みも同様である。新自由主義(NAR-0102)は、市場という単一の調整原理があらゆる領域に適用可能であるという点で、正統化の物語としての形式要件を十分に満たしている。解放の物語も終わっていない。反植民地主義とポストコロニアル理論(NAR-0103)が用いた語彙は、抑圧からの解放という時間の形をそのまま継承している。

1989年以降には、体制間の競争の決着をもって歴史の主要な争点が解決されたとする議論が広く流通した。これは大きな物語への不信が語られてから10年後に、新しい大きな物語が世界規模で受容されたという事実である。この事実だけでも、「大きな物語は1979年に終わった」という要約が経験的に成立しないことは示される。

では何が終わったのか。終わったのは、複数の大きな物語を同じ卓上に載せて相互に検定するための、共有された上位の手続きである。19世紀から20世紀半ばまで、対立する物語のあいだにも、どのような証拠が提出されれば議論が前進するのかについての、粗いながらも共通の想定が存在した。歴史的事実の認定、統計の作成、学術的な査読と反証。これらは物語の内容については中立ではなかったが、少なくとも共通の場として機能した。この共通の場が、複数の中心へ分割された。

ここで、リオタールの診断そのものに向けられてきた批判に触れておく必要がある。データベースの記述欄が指摘するとおり、「大きな物語は終わった」という主張は、それ自体が歴史の全体について語る大きな物語ではないかという再帰的な問いが繰り返し提起されてきた。ユルゲン・ハーバーマスは、近代を未完のプロジェクトとして擁護する立場から、正統化の複数化は公共的な討議の基盤を掘り崩すと論じた。この論争は決着していない。

もう1つの派生も記録しておく。データベースはNAR-0022からポストヒューマニズム(NAR-0081)への派生を確度Bで登録している。普遍的な人間主体を前提とする物語への懐疑が、人間と機械・動物・環境の境界を問い直す議論の前提を用意したという経路である。ミシェル・フーコー(THK-0044)の「人間の終焉」という定式が、その出発点として繰り返し参照されてきた。大きな物語への不信は、放棄ではなく、別の問いの生成として機能した側面を持つ。

3. 空白は埋められる——需要は消えない

物語の正統化装置が失効しても、物語への需要は減らない。理由は認知の側にある。

人間は出来事の連鎖を、原因と意図と意味に配置しなければ記憶できない。無関係な事実の列は保持されず、行動にも接続しない。ある統計を知っただけで人が動くことは稀であり、その統計が何の物語のなかに置かれているかによって、同じ数字が正反対の行動を導く。物語は情報を行動へ変換する装置であり、この変換なしに集団的な意思決定は成立しない。だから供給が止まれば、需要は別の供給源を探す。

歴史上、この構造は反復してきた。1450年頃の活版印刷の普及(NAR-0067)は、その代表例である。写本の時代には、テキストの正統性を認定する権威は限られた数の機関に集中していた。印刷はその集中を解体し、俗語の出版物と論争的な小冊子が大量に流通する状況を作った。宗教改革の急速な展開はこの条件なしには説明できないが、同時にこの時期は、根拠の薄い告発文書が広域に伝播した時期でもあった。禁書目録と検閲という統制の制度が印刷とほぼ同時に生まれたのは、共有された認定手続をめぐる争いが、この技術の到来と不可分だったことを示している。

文字(NAR-0041)の成立、印刷、そして電子的なネットワーク。複製費用が段階的に低下するたびに、同じ順序の出来事が起きた。権威の分散、供給の増大、認定手続の争点化、統制の試み。現在の状況をこの系列に置くことは、現在を軽く見積もることではない。反復される構造には、反復されるがゆえに検討可能な性質があるということである。

そのうえで、埋め方には型がある。空白を埋める物語は無限に多様ではなく、いくつかの安定した形式に収束する。以下の2章で扱うのは、そのうち特に反復頻度の高い2つである。

4. 陰謀論という説明形式——需要の側から記述する

陰謀論とは、複雑な出来事を、隠された少数者の意志へ還元する説明形式を指す。この定義は、内容ではなく形式によるものであることに注意が要る。

まず確認しておくべき点がある。隠された意図によって出来事が動かされた事例は、実際に存在する。合衆国公衆衛生局が1932年から1972年にかけて実施した梅毒の観察研究では、被験者に有効な治療が意図的に与えられず、その事実が長期にわたり公表されなかった。この種の記録は複数ある。したがって「権力が情報を隠しているのではないか」という問いの形式そのものは、誤りではない。むしろ、報道と歴史研究の中核的な作業の一部はこの形式で行われてきた。

では何が区別を作るのか。区別は反証の扱いにある。検証可能な疑義は、証拠が提出されれば修正される。陰謀論的な説明形式の特徴は、反証が説明の内部に吸収される点にある。証拠が出てこないことは隠蔽の徹底の証拠として、否定する専門家の存在は買収の証拠として、それぞれ体系の強化に転用される。この自己封鎖の構造が成立したとき、その説明はもはや事実についての主張ではなく、事実の入力を受け付けない完結した体系になる。カール・ポパーはこの形式を「社会の陰謀理論」と呼び、神の意志によって歴史を説明する枠組みが世俗化した結果であると論じた。神の位置に、強力な人間集団が置かれる。

需要の側の条件も記述できる。研究が繰り返し示してきたのは、この種の説明への支持が、不確実性の高さ、自らの状況に対する統制感の低下、そして制度への信頼の低下と相関する傾向である。急激な社会変動を経験した地域、あるいは公的機関との関係において不利な経験を蓄積してきた集団において、支持が高くなる傾向も報告されている。この分布は、知性の欠如という仮説ではうまく説明できない。むしろ、公式の説明が自分の経験を説明してこなかったという履歴に対する応答として理解したほうが、観察されるパターンに適合する。

さらに、この説明形式は物語論的に高い完成度を持つ。単一神話論(NAR-0021)が抽出した英雄の旅の構造——日常からの分離、真実の発見、試練、そして帰還——は、陰謀論の語りにほぼそのまま流用できる。覚醒した主人公がいて、隠された知があり、無知な多数がいて、強大な敵対者がいる。物語としての満足度は、正確な説明の満足度をしばしば上回る。統計的な因果推論には主人公がいないが、陰謀論には必ず主人公がいて、それは語り手自身である。

したがって、この説明形式に対して有効なのは、信奉者の知性への言及ではない。空白を埋める競合的な物語——複雑な因果を、主人公の位置を用意したまま説明する物語——を供給できるかどうかである。この媒体が長文記事という形式を採る理由の1つは、ここにある。1,000字では、留保も因果の複数性も書き込めない。

5. 部族主義——所属が真偽に先行するとき

もう1つの型は、所属によって真偽を判定する認識形式である。

この形式の作動を、知性の不足として説明できないことを示す実証的知見がある。政治的に係争的な主題について、同一のデータセットを提示して解釈を求める実験では、量的推論能力の高い参加者ほど、自らの属する集団の立場に適合する解釈を採用する傾向が強く現れる場合があることが報告されている。同じ参加者が、政治的に中立な文脈で同じ構造の数値を扱うときには、能力どおりの正答率を示す。つまり推論能力は、結論を修正する方向にではなく、望ましい結論を防衛する方向に動員されうる。

この知見の含意は重い。情報を追加すれば分断が解消するという想定——教育や事実確認の拡充を処方とする想定——は、この条件下では期待どおりに働かない。追加された情報は、既存の所属を通過して選別されるからである。

そして、この形式は特定の陣営に固有ではない。陰謀論的な思考傾向の分布を長期の資料で追跡した研究は、それが政治的スペクトラムの片側に偏在するのではなく、主として権力の配置に対する位置——誰が現在優位にあるか——に応じて対象を変えながら、全体としては広く分布することを示している。優位にない側が、優位にある側の隠された意図を疑う。この関係が反転すれば、疑う側も反転する。ここから導かれるのは、責任の一方的な帰属が記述として成立しにくいという結論である。

所属が認識を組織するという構造自体は、近代の発明ではない。しかしその大規模な実装は近代のものである。ナショナリズム(NAR-0017)は、ベネディクト・アンダーソン(THK-0014)が『想像の共同体』(TXT-0014)で記述したように、直接には会わない多数の人間が同時性の感覚を共有することによって成立した。新聞の日付と時刻表が、同じ瞬間を生きているという想定を日常的に更新した。現在のオンラインの共同体は、この装置を地理的な区画から解き放ち、関心と情動に沿って再編成したものと見ることができる。想像の共同体(NAR-0053)の技術的条件が変われば、想像される共同体の輪郭も変わる。

ここで、エドワード・サイード(THK-0037)が『オリエンタリズム』(TXT-0031)で提示した論点(NAR-0080)を接続しておく必要がある。他者を語る言説は、対象を記述するとともに、語る側の位置を構成する。「彼らは非合理である」という記述は、対象についての情報を与えると同時に、語り手を合理性の側に配置する操作でもある。この操作は、分断を論じる言説の内部でも作動する。分断を嘆く記述の多くが、実際には分断の一方の側から書かれているのは、この構造による。集合的記憶論(NAR-0079)が示してきたように、何を記憶し何を忘れるかは集団の枠組みによって規定される。分断についての記憶もまた、その例外ではない。

6. 断片化の機械——ネットワーク、アルゴリズム、複製子

インターネット(NAR-0069)からポスト・トゥルースへの派生は、データベースに確度Bで登録されている。説明欄の要点は簡潔である。情報の複製と配信の費用が消滅し、編集上の選別を経ない流通経路が一般化したことで、事実の共有された認定手続そのものが争点化した。国際電気通信連合の2024年推計では、利用者は約55億人、世界人口の約68%に達している。

ただし、同じ説明欄には留保が併記されている。政治的分極化の主因を技術に帰す説明には、実証的な反証が提出されているという留保である。具体的には、合衆国において分極化の指標の伸びが最も大きかったのは、インターネットとソーシャルメディアの利用率が最も低い高年齢層であったという分析がある。閉鎖的な情報環境についても、オンラインのニュース接触は想像されるほど同質的ではなく、むしろ幅広い情報源に触れているという測定結果が複数ある。他方で、極端に偏った情報消費は少数の高頻度利用者に集中しており、その少数が生産する言説の量が全体の印象を規定するという構造も指摘されている。技術決定論と技術無害論のいずれも、現在の証拠の状態には対応していない。

より確実に言えるのは、設計目標に関することである。推薦アルゴリズムは、真偽を評価する目的で設計されていない。多くの実装が最適化しているのは、接触時間や反応の量である。ここに陰謀は必要ない。真偽と関与度が相関しないという事実だけで、真偽に対して中立な選別が起こる。虚偽を含む情報が事実の情報より速く広く伝播したという大規模な観測は複数の研究で報告されており、その媒介として新規性と情動の強度が指摘されている。新規性が高いものは、既知の事実より新規性が高い。この単純な非対称が、選別の方向を決めている。

ミーム論(NAR-0104)は、この状況を記述する語彙を供給した。リチャード・ドーキンス(THK-0048)が『利己的な遺伝子』(TXT-0040)で提示した文化的複製子の着想は、内容の真偽ではなく伝播しやすさによって言説の広がりを説明する枠組みを与えた。データベースはミーム論からポスト・トゥルースへの派生を登録しているが、確度はCである。この媒体の運用ではCは公開の対象外であり、ここで扱うのは、記述として有用でありながら根拠が薄いという状態そのものが検討に値するからである。

Cとされた理由は2つある。第1に、学術理論としてのミーム学は後退した。複製単位としてのミームを同定し計測できるかという方法論的批判が決定的で、専門誌は2005年に終刊している。第2に、この語彙には固有の危険がある。伝播の説明が、真偽の検討を置き換えてしまうという危険である。ある主張が広まった理由を伝播特性で説明したとき、その主張が正しいかどうかという問いは、答えられないまま議論から抜け落ちる。伝播の記述は真偽の記述の代替物ではない。ネット文化の記述語としての「ミーム」と、学術理論としてのミーム学を区別する必要があるのは、この点においてである。

2020年代に入って加わった条件が、合成メディアの一般化である。映像と音声の生成費用が低下したことは、偽の証拠の作成を容易にしただけではない。真正な記録に対しても「作られたものではないか」という疑義を低コストで発生させられるという、より広い効果を持つ。検証の費用がさらに上昇し、流通の費用がさらに低下する。第3節で述べた非対称は、拡大の方向に動いている。

7. 相対主義に行かないために——確度という手続き

ここまでの記述は、1つの誤読を招きやすい。すべての物語は等価であり、どれを選んでも変わらない、という誤読である。この媒体はその立場を採らない。

まず、系譜の問題を整理しておく。ポストモダンの思想が事実の軽視を用意したという説明は広く流通しているが、データベースはこの派生関係を確度Bとし、当事者からの反論があると明記している。争点は2つある。第1に、リオタールが論じたのはメタ物語の正統化機能であり、個別の事実主張の真偽ではない。第2に、社会的な因果として見た場合、1979年の哲学書を読んだ人の数と、2016年前後に事実認定の共有が困難になった局面に関与した人の数のあいだには、桁の隔たりがある。思想史的な系譜と社会的な因果は、同じ線で結べない。

とはいえ、無関係でもない。ブルーノ・ラトゥールは2004年の論考で、科学的事実の構築過程を記述するために科学社会学が開発した語彙が、事実の否認を望む側に流用されている状況を指摘した。批判の道具が、批判の対象に渡ったという自己反省である。この指摘の価値は、責任を配分することにあるのではなく、記述の語彙が使用の文脈から独立ではないという点を示したことにある。

そのうえで、この媒体の立場を述べる。物語のあいだには差がある。持続した期間、伝播した範囲、生み出した制度、そして——ここが本記事の主題に直結する——支える手続きの厚みに、差がある。この差は記述可能である。

差を記述するための実装が、確度の3段階である。A(学術的定説)、B(有力だが異説あり)、C(要検証)。この記事が扱う2つのレコードにも、この差が付いている。大きな物語の終焉(NAR-0022)は確度Aである。ただしAが意味するのは、リオタールの診断が正しいということではない。1979年にこの著作が刊行され、この主張が提示され、以後の人文社会科学に受容されたという思想史的事実が、複数の独立した手続きによって確認できるということである。一方、ポスト・トゥルース(NAR-0023)は確度Bである。語の初出とされる1992年の用例は最初期のものとして辞書類が挙げるものであり、初出の確定ではない。概念の新規性——宣伝と世論操作の長い歴史との断絶があるのか、程度の変化にすぎないのか——についても、学説が分かれている。

つまり確度は、内容の格付けではなく、主張を支える手続きの状態の申告である。Aは「これを信じよ」ではなく「これを疑うには、次の手続きを通過する必要がある」を意味する。Cを公開しないという運用は、自信のない情報をそれらしい体裁で並べないための制約であり、同時に、確度という概念が実際に機能していることを示すための担保でもある。

この手続きが、相対主義との分岐点になる。すべての物語が等価だという主張は、実は差の記述を放棄した主張である。差を記述する労力を払わないから、等価だと言うほかなくなる。逆に、差を1つずつ記述していけば、等価でないことは記述の副産物として現れる。ある主張には、それを覆すための具体的な条件を指定できる。別の主張には、それができない。この違いは、道徳的な優劣ではなく、構造上の性質である。前者は事実主張として扱え、後者は事実主張としては扱えない。

判決を保留することと、差を消すことは別の操作である。この媒体は前者を行い、後者を行わない。

8. 結び——不在なのは物語ではなく編集者である

半世紀の検算から得られる傾向を、3点に整理する。

最後に、この記事の題が指すものを明示しておく。終わったのは大きな物語ではない。終わったのは、複数の大きな物語を同じ卓上に載せ、相互に検定するための共通の手続きである。物語の生産者は増え、物語の編集者は減った。編集者とは、供給された物語を並べ、出所を確かめ、確度を申告し、他の物語の隣に置く作業を担う機能を指す。その機能が、特定の機関に集中していた時代が終わったこと自体は、必ずしも損失ではない。集中は誤りの集中でもあったからである。損失は、集中が解けたあとに、分散した形で同じ機能を担う仕組みが十分に育っていないことにある。

この空白に対して有効なのは、失われた権威の回復を求めることではない。回復は原理的に難しく、望ましいとも限らない。有効なのは、編集という作業を、権威ではなく手続きとして再実装することである。物語に識別子を与え、成立年代と伝播経路を記録し、関係を独立したレコードとして扱い、確度を申告する。これらはいずれも権威を必要としない。必要とするのは、同じ様式で記述し続けるという反復だけである。

リオタールが小さな物語の複数性に見ていたのも、おそらくこの方向であった。複数性が問題を生むのは、複数のものを並べる机がないときである。机があれば、複数性は資源になる。5,000年分の物語を同じ様式で記述し、同じ棚に並べるという作業は、その机を1つ作る試みである。

断罪せず、補助線を引く。この記事が引いた補助線は1本である。空白は必ず埋められる——この命題を認めたうえで、では何によって埋めるのかを問うこと。問いをこの形に変えるだけで、議論の対象は人々の資質から情報環境の設計へ移る。移った先には、まだ手のつけられていない作業が大量に残っている。

ナラティビスト編集部