日本の建国神話——記紀と万世一系
日本の建国神話は、しばしば「世界に類のない連続性」として語られる。本記事はその評価を採用も否定もせず、別の位置に立つ。すなわち、この物語は他国の建国神話と同じ手順で作られた事例のひとつであり、比較の対象として扱ったときにこそ、その実際の構造が見えるという位置である。
手順は3つに整理できる。起源の年代が後代に遡及して算定されること。王権の系譜が神々の系譜に接続されること。そして近代の国家が、教育・暦・儀礼という制度を通じてその物語を国民規模で共有させること。この3つは、ローマの建国神話(NAR-0036)にも、檀君神話(NAR-0040)にも、ロシアの起源譚(NAR-0097)にも観察される。日本の事例が特異なのは、この3つを踏まないからではなく、3つを踏んだうえで、正統性の原理として「断絶」ではなく「連続」を選択した点にある。
そしてこの選択は、真空のなかで行われたのではない。隣に、断絶を正統性の原理とする巨大な物語——中華と天命(NAR-0011)——があったからこそ、連続は主張として意味を持った。物語の輪郭は、対抗する物語との関係のなかで決まる。以下、8世紀の文字化から、中世・近世の再解釈、明治の制度化、そして1945年以降の断絶と連続までを、この視点から追う。
1. 前660年はどこから来たか
『日本書紀』は、初代とされる神武天皇の即位を辛酉の年の正月と記す。この年を西暦に換算すると前660年になる。日本の建国神話を検討する出発点として、この数字ほど適した対象はない。年代が算定される仕組みが、比較的はっきり見えるからである。
有力な説はこうである。中国由来の讖緯説では、干支が一巡する60年の周期を21回重ねた1,260年ごとに大きな革命が起こるとされ、その起点は辛酉の年に置かれた。推古天皇の治世下にあった601年は辛酉の年にあたる。ここから1,260年を遡ると、前660年——これもまた辛酉の年——に到達する。編纂者は、王朝の起点を宇宙論的な周期の節目に一致させたことになる。この解釈は19世紀末に那珂通世が提示して以来、広く受け入れられてきたが、算定の詳細については諸説あり、決着したとは言えない。
重要なのは、この算定が例外的な操作ではないという点である。ローマの建国年とされる前753年は、共和政末期の学者ウァロによる遡及的な計算の産物であり、考古学的に確認されるローマの集落形成はより漸進的だった。檀君による古朝鮮の建国年とされる前2333年も、13世紀以降の記録に基づく後代の算定である。起源の年代は、しばしば発見されるのではなく設定される。設定の基準は、天文暦法であったり、他国より古いことを示す必要であったり、宗教的な周期であったりする。
前660年という数字は、その後も働き続けた。1873年、明治政府はこの伝承年の即位日を太陽暦に換算し、紀元節という祝日を制定した。当初1月29日とされたものが同年中に2月11日へ改められた経緯は、換算という技術的作業が、実際には制度設計の作業でもあったことを示している。1940年には、この起点から2,600年目にあたるとして、大規模な記念行事が国家事業として実施された。数字が算定された8世紀と、その数字が国民的な祝典を組織した20世紀のあいだには、1,200年以上の距離がある。
2. 記紀の編纂——7世紀の危機と8世紀の文字化
『古事記』(TXT-0006)は712年、『日本書紀』(TXT-0013)は720年に成立したとされる。この2つを合わせて記紀と呼ぶ。両書は同じ神話を共有しながら、性格を大きく異にする。
『古事記』は上巻を神代に、中下巻を歴代の天皇に充て、漢字を用いつつ日本語の語順と音を写す独特の表記で書かれている。序文によれば、天武天皇が帝紀と旧辞の誤りを正すよう命じ、稗田阿礼が誦習した内容を太安万侶が撰録して元明天皇に献上した、とされる。ただしこの序文の成立時期と信頼性については、712年成立そのものを疑う説を含めて諸説あり、学術的に決着していない。
『日本書紀』は30巻からなり、全編が漢文で書かれている。編年体という中国の正史の形式を採り、同一の出来事について「一書に曰く」として複数の異伝を併記する。舎人親王らが中心となって撰進したと伝えられる。漢文で書かれたという事実は、想定された読者を示唆する。国内の官人だけでなく、東アジアの国際秩序のなかで日本という政体の由来を説明する文書としての性格が指摘されてきた。
なぜ8世紀だったのか。7世紀後半の日本列島の政体は、連続する危機のなかにあった。663年の白村江での敗戦は朝鮮半島での軍事的地歩を失わせ、672年の壬申の乱は王位継承をめぐる内戦だった。この過程で、律令に基づく中央集権的な統治機構の整備が進み、「日本」という国号と「天皇」という君主号が定着したとされる。両者の成立時期は7世紀後半、天武・持統朝を有力とする説が主流だが、これにも諸説ある。新しい統治機構には、新しい由来譚が必要だった。記紀の編纂は、この必要に対する応答として理解される。
記紀が語る神話の骨格は次のようなものである。イザナキとイザナミの2神が国土を生み、イザナキの禊から太陽神アマテラスが生まれる。アマテラスの孫ニニギが、稲穂と鏡・剣・玉——後に三種の神器と呼ばれる——を携えて地上に降り、その子孫である神武が東へ進んで大和に王権を樹立する。
この構造で決定的なのは、神々の系譜と王家の系譜が切れ目なく接続されている点である。神話が王権の由来譚として機能するには、この接続が不可欠になる。同じ操作は他所にも見られる。ローマ建国神話では、建国者ロムルスの系譜が、女神ウェヌスの子アエネアスを経てトロイアに遡る。系譜の接続は、建国神話という形式にほぼ内在する部品であって、特定の文化の独創ではない。
2書の異同も、それ自体が資料になる。『古事記』が記述を推古天皇の代で閉じるのに対し、『日本書紀』は持統天皇の代まで続く。神代の記述でも、天孫降臨に至る経緯や、出雲の神々の扱いに差がある。同じ王権の由来を語る文書が、わずか8年の間隔で、異なる言語形式と異なる射程をもって2種類作られたという事実は、8世紀の編纂が単一の正典を確定する作業ではなかったことを示す。むしろ、複数の異伝を抱えたまま、公的な由来譚の骨格だけを共有させる形で編纂は行われた。『日本書紀』が異伝を「一書に曰く」として併記し続けたのは、この編纂方針の痕跡である。後代に単一の神話体系として読まれるようになるのは、この併記を整理する解釈作業が積み重なった後のことになる。
同時に、記紀は各地の在地伝承を大量に取り込んでいる。出雲を舞台とする一連の物語、地方の神々の服属譚、氏族ごとの祖先伝承がそれである。中央の王権の物語は、地方の物語を消去するのではなく、階層的に配置することで成立した。この点は、後に神道(NAR-0030)が体系化される際の素材の厚みにもつながる。
3. 天命との対比——断絶を原理とする物語の隣で
日本の律令国家は、統治の語彙の多くを中国から輸入した。官制、法典の形式、都城の設計、暦、そして「天」「皇」「詔」といった漢語の政治語彙が含まれる。ところが、その中国の政治思想の中核をなす1つの観念だけは、統治の原理として採られなかった。天命である。
中華と天命の物語(NAR-0011)では、統治者の正統性は天という超越的・道徳的な審級から授与される。統治者が徳を失えば天命は他者へ移り、王朝は交替する。易姓革命と呼ばれるこの枠組みは、王朝の交替を説明し、同時に正当化する装置として機能した。つまりこの物語では、断絶こそが正統性の証明になりうる。新王朝は、前王朝が徳を失ったがゆえに天命を受けたのだと主張する。
記紀が提示したのは、その正反対の原理である。王権の正統性は徳の有無によって審査されるのではなく、系譜の連続そのものによって担保される。天壌無窮の神勅——天孫の子孫が永くこの地を統べるという趣旨の言葉——は、正統性の根拠を起源に固定する。起源に固定された正統性は、後代の統治の質によっては動かない。
この2つの原理が相互排他的であることは、当初から自明だったわけではない。対比が言説として明示化するのは近世に入ってからである。1669年、山鹿素行は『中朝事実』において、王朝交替を繰り返した中国に対し、皇統の連続する日本こそが「中朝」であると主張した。中華という概念そのものを反転させるこの操作は、対抗物語との関係が、自己の物語の輪郭を作ることを示す典型例である。
ただし、ここで比較を止めてはならない。連続を主張する建国物語は日本に固有ではないからである。ロシアの「第三のローマ」の物語(NAR-0097)は、正統信仰の守護者としての地位がローマからコンスタンティノープルを経てモスクワへ継承されたと語る。神聖ローマ帝国も、東ローマも、ローマの継承を主張した。異なるのは連続を主張するかどうかではなく、何の連続を主張するか——血統か、信仰か、制度か——である。日本の事例は、血統の連続を選んだ点で分類されるのであって、連続を主張したこと自体で特別視されるものではない。
4. 習合の層——仏と儒と国学
記紀に文字化された神話は、その後の1,000年をそのままの形で通過したわけではない。むしろ、外来の思想体系と結合することで繰り返し読み替えられた。この読み替えの層を無視すると、8世紀の物語が近代までそのまま届いたかのような像を描いてしまう。
第1の層は仏教(NAR-0002)との習合である。8世紀から12世紀にかけて、本地垂迹説が形成された。記紀の神々は、仏や菩薩が衆生を救うために日本の地に仮の姿で現れたものだと解釈される。皇祖神を含む神話体系が、仏教の世界観のなかに位置づけ直されたことになる。中世には、この枠組みに基づく伊勢神道や両部神道の教説が展開した。ただし習合の主たる対象は神祇信仰の全般であって、建国神話に限定して語るには留保が要る。1339年の『神皇正統記』が皇統の正統を論じたのも、こうした中世的な言説空間のなかでのことである。
第2の層は儒教(NAR-0003)との習合である。17世紀以降、垂加神道と後期水戸学が、儒教の名分論・大義名分の語彙と記紀の皇統観を結合させた。水戸藩が1657年に着手した『大日本史』の編纂事業は、正統の所在を歴史叙述として確定する試みであり、完成は1906年にまで及んだ。1825年、会沢正志斎は『新論』において「国体」の語に体系的な内容を与え、祭祀と統治と民心を一体のものとして論じた。尊王を軸とする政治的正統性の物語は、この結合から生まれ、幕末の政治運動の思想的基盤となる。
第3の層が国学である。本居宣長(THK-0027)は1764年から1798年にかけて、44巻におよぶ『古事記伝』(TXT-0023)を完成させた。この仕事は2つの側面を持つ。1つは文献学的な達成である。漢字で表記された上代日本語をどう読むかという問題に、宣長は膨大な用例の照合によって取り組んだ。『古事記』が読める書物になったのは、この作業の後である。もう1つは規範的な主張である。宣長は、漢籍由来の理屈——彼が「漢意」と呼んだもの——を排して神話を受け取るべきだと説いた。皮肉なのは、この「漢意の排除」という主張自体が、儒学の方法論的訓練を土台として構成されている点である。純粋な起源への回帰を掲げる運動が、回帰の技術を対抗相手から借りるという構図は、他の復古運動にも広く観察される。
そして、ここで押さえておくべき事実がある。神道(NAR-0030)という体系そのものが、記紀の神話から派生して成立した側面を持つ。中世の伊勢神道・両部神道、近世の垂加神道と復古神道を経て、神道は体系的な教説として再構成された。他方、在地の神祇祭祀は記紀に先行するのだから、両者の先後関係は層によって逆転する。「神道」を古代から連続する単一の宗教とみなす立場と、教説としての成立を中世以降に置く立場は、現在も対立しており、諸説あると記すほかない。
5. 明治の再編——輸入された枠と在来の素材
1868年以降に起こったことを、単なる伝統の継承として記述することはできない。同時に、無からの捏造として記述することもできない。起こったのは、既存の素材を、外から輸入された新しい枠に入れ直す作業だった。
輸入されたのはナショナリズム(NAR-0017)である。19世紀後半の国際環境において、独立を維持するには「国民」という単位を持つ必要があった。国民は、共通の起源、共通の言語、共通の記憶を持つと想定される集団である。日本の場合、その起源として利用可能な素材は、すでに1,000年以上にわたって蓄積されていた。記紀の神話と、近世の水戸学・国学が整えた皇統の物語である。
制度化は速やかに進んだ。1868年の神仏分離令は、中世以来の習合の層を行政的に切り離した。これに続く廃仏毀釈は各地で寺院と仏像に大きな損失をもたらしたが、この点は建国神話の主題とは別に検討されるべき事象である。1873年に紀元節が制定され、暦のうえに起源が刻まれた。1889年の大日本帝国憲法は、第1条に「万世一系」の語を置き、神話に由来する系譜の連続を法文の水準に定着させた。1890年の教育勅語は、この起源譚を臣民の徳目と結びつけて学校教育に流し込んだ。1903年に定められた国定教科書制度は、全国の児童が同一の文面で同一の起源を学ぶ状態を作り出した。神社は制度的に再編され、国家の祭祀体系のなかに位置づけられた。
語彙の水準にも、この再編の痕跡が残っている。「万世一系」という4字の定式は、記紀の本文に現れる語ではない。幕末から明治初期にかけて流通し、1889年の憲法第1条に採り入れられることで、法的な地位を持つ表現として固定された。8世紀の文書が語っていた内容と、19世紀に作られた定式とは、指し示す対象が重なりながらも、同じものではない。定式が短く、記憶しやすく、法文に収まる長さであったことは、それが国民規模で流通するうえで実際的な条件だった。物語史において、訳語や標語の選択は装飾ではなく、しばしば一次資料そのものである。
この過程を分析するとき、想像の共同体(NAR-0053)の議論が有効な補助線になる。ベネディクト・アンダーソン(THK-0014)は1983年の同名の著作(TXT-0014)で、国民を「想像された政治的共同体」と定義し、出版資本主義、国民教育、地図、国勢調査、博物館といった媒介を通じて、互いに面識のない人々が同時性の感覚を共有するに至る過程を論じた。同書が「公定ナショナリズム」と呼ぶのは、既存の王朝が国民の枠を上からまとって延命する型であり、明治日本はその代表例として言及されている。
ここで注意が必要である。この分析は、物語が偽であることを主張するものではない。分析されているのは真偽ではなく、共有の規模と経路である。18世紀の農村において、記紀の神話が日常的な参照枠であったとする根拠は乏しい。それが列島の全域で共有される起源譚になったのは、暦と学校と徴兵と新聞が同時に稼働した後である。物語は変わらなくても、その物語を共有する人間の数と、共有の密度は変わりうる。
同時に、近世以来の言説との連続性を強調する立場もあることを記しておく必要がある。水戸学と国学がすでに準備していた語彙を、明治国家が採用したにすぎないという見方である。輸入翻訳と見るか、在来の展開と見るかで、翻訳の度合いの評価には幅がある。この記事は、両者を排他的な選択肢としては扱わない。輸入された枠と在来の素材の双方がなければ、この規模の再編は成立しなかったと考えるほうが、事実の説明として無理が少ないからである。
そして、この作業は同時代的な現象だった。ドイツ国民の物語も、トルコ共和国のケマリズムも、韓民族の起源譚も、おおむね同じ数十年のあいだに、同じ種類の制度——義務教育、標準語、国民の暦、記念碑——を通じて構築された。日本の再編を孤立した事例として論じることは、この同時性を見落とすことになる。
6. 系譜の綻び——学問と正統性の緊張
連続を原理とする物語は、連続が学術的に検証されうる形をとる限り、検証の圧力にさらされ続ける。この緊張は日本の事例で特に可視的に現れた。
第1に、系譜そのものに論点がある。6世紀初頭に即位したとされる継体天皇について、記紀は応神天皇の5世の孫であり、越前から迎えられたと記す。5世の孫という遠隔の血縁で王位が継承されたという記述は、実系としての連続を疑う余地を残す。20世紀には、これを王朝交替とみなす説——たとえば三王朝交替説——が提起された。この論点は現在も決着しておらず、諸説あるとしか言えない。付け加えれば、記紀が伝える初期の天皇の在位年数には、100歳を大きく超える例が並ぶ。これらを実年代として扱わないことは、現在の歴史学ではほぼ共有された前提である。
第2に、正統をめぐる論争が政治問題化した例がある。1911年、南北朝のどちらを正統とするかをめぐって、国定教科書の記述が国会と新聞で争点となった。歴史叙述の細部が政治日程を左右したという事実は、この物語が制度に組み込まれていたことの帰結である。
第3に、学術的な史料批判への圧力があった。津田左右吉は、記紀の神代の記述を後代の政治的意図に基づく構成として分析した。1940年、その著書は発禁処分を受け、著者は起訴された。物語が国家の正統性の基礎に置かれているとき、その物語への史料批判は、しばしば学問の内部にとどまらない扱いを受ける。
第4に、考古学との関係がある。天皇陵として比定された古墳の多くは、被葬者の同定が江戸後期から明治期に確定されたもので、学術調査への立ち入りは長く制限されてきた。近年、一部の陵墓で研究者の限定的な立ち入り観察が認められた例があり、状況は少しずつ変化している。
この緊張は、しかし日本に固有のものではない。前2333年という檀君の建国年も、前753年というローマの建国年も、学術的な検証に耐えるかどうかとは別の水準で、国民的な起源として機能してきた。建国神話は歴史学の仮説ではなく、共同体が自らを説明するための語りである。両者を混同しないことが、比較を可能にする条件になる。
7. 対外への転用と、戦後の断絶と連続
起源の物語は、内向きの統合装置であるあいだは共同体の輪郭を描くにとどまる。それが外に向けて拡張されるとき、性格が変わる。
『日本書紀』の神武紀には「掩八紘而為宇」という句がある。20世紀初頭、田中智学がこの句から八紘一宇という4字の標語を作り、1930年代を通じて流通した語彙は、1940年に国策上の文言に採り入れられた。同じ年、大東亜共栄圏(NAR-0075)の語が公式に用いられる。国内の統治を説明していた物語が、地域秩序における指導性の主張へと転用されたことになる。この転用は、記紀に由来する語彙が、明治期以来の興亜論・汎アジア主義の語彙と結合する形で進んだ。掲げられた解放という自己記述と、占領地における資源動員や軍政の実態との落差は、日本国内外の歴史研究における中心的な論点であり続けている。
隣接する現象として、起源の物語が他者の起源の物語と正面から衝突した事例がある。植民地期の朝鮮では、日本と朝鮮の起源を同一の系譜に置く歴史叙述——日鮮同祖論——が公教育で用いられた。これに対し、申采浩らは檀君を起点とする独自の民族史を対置した(NAR-0040)。2つの建国物語は、起源の系譜をめぐって相互排他的な主張をなす。注意すべきは、いずれも近代国家の自己叙述として構築されたものであり、どちらか一方だけを構築物として扱う扱い方は、比較として成立しないという点である。
1945年以降、制度の水準では明確な断絶が起こった。同年12月の神道指令は、国家と神社との公的な結びつきを解体した。1946年1月の詔書は、天皇と国民の紐帯が神話と伝説によるものではないと述べた。1947年に施行された日本国憲法は、第1条で天皇の地位を日本国民の総意に基づく象徴と定めた。紀元節は1948年に廃止された。
他方、連続もまた観察される。紀元節と同じ2月11日は、1966年の法改正を経て建国記念の日として祝日に復した。元号は1979年の元号法によって法的根拠を得て存続し、1989年と2019年の代替わりで運用された。皇位継承にともなう儀礼——大嘗祭や、三種の神器に関わる所作——も、位置づけを変えながら実施されている。1990年の大嘗祭をめぐっては、公費支出と政教分離の関係を問う複数の訴訟が提起され、請求はいずれも退けられたが、判決のなかには憲法上の疑義に言及したものもある。より広く、公的機関と神社の関係については、1977年と1997年の最高裁判決が異なる判断を示しており、この領域の線引きは司法判断の積み重ねによって形成されてきた。
本記事は、これらの制度の是非を論じない。ここで観察されるのは、より一般的な事象である。物語が法的な正統化の機能を失っても、儀礼の形式、暦の区切り、名称の体系としては残りうるということ。そして、残った形式が何を意味するかは、その都度あらためて争点になるということである。この構造は、共和政移行後も古代の祭祀語彙を保持した諸事例と比較可能である。
8. 結び——比較可能な事例として
日本の建国神話をめぐる議論は、しばしば2つの極のあいだで往復してきた。1つは、この連続を人類史上の例外として称揚する語り方である。もう1つは、近代の産物にすぎないとして退ける語り方である。この記事の立場から見ると、2つは対立しているようで、同じ欠落を共有している。どちらも比較の手続きを省略している。
比較を通して見えるのは、次の傾向である。
- 起源の年代は算定される:前660年も、ローマの前753年も、檀君の前2333年も、後代の遡及的な計算の産物である。算定の基準(暦法、周期、他国との相対的な古さ)を特定できるとき、その物語がどの問題に応答していたかが見える
- 輪郭は対抗物語が決める:万世一系という定式が主張として機能したのは、隣に易姓革命という断絶の原理(NAR-0011)があったからである。対抗する物語を抜きにして、ある建国神話の特徴を記述することはできない
- 規模は制度が作る:記紀の物語が列島規模で共有されたのは、8世紀ではなく、義務教育・国民の暦・徴兵・新聞が同時に稼働した後である。物語の年齢と、その物語の共有の年齢は、区別して数える必要がある
この3点は、日本の事例に固有の発見ではない。むしろ、日本の事例がこの3点をきれいに示すからこそ、標本として有用である。1つの物語のなかに、派生(記紀から神道へ、そして大東亜共栄圏へ)、対立(天命との、檀君神話との)、習合(仏教との、儒教との)、輸入翻訳(ナショナリズムの枠への再配置)という4種類の関係のすべてが観察できる事例は、それほど多くない。
私たちが物語を系統樹として記述しようとするのは、優劣を判定するためではない。ある共同体が自らの起源をどう語ってきたかを、他の共同体の同じ営みと並べて置けるようにするためである。並べて置いたとき、称揚も断罪も、記述としては同じだけの情報しか持たないことがわかる。情報を持つのは、いつ、誰が、どの素材を、どの枠に入れ直したかという手順のほうである。
日本の建国神話は、その手順が比較的よく記録された事例である。8世紀の編纂の事情、近世の再解釈の論争、近代の制度化の年表、そして戦後の再定義——いずれについても、一次史料と学術的な検討の蓄積がある。不確かな点は依然として多く、記紀の成立過程についても、継体天皇の系譜についても、諸説あると記すほかない。しかし、不確かさが記録されていること自体が、この事例を扱いやすくしている。何が確かで何が不確かかを区別できる物語は、比較の対象として扱える。この記事が試みたのは、その扱いである。
ナラティビスト編集部