FIG-0093 / 人物・神格(Figure) / 伝承上の天皇
履中天皇
Emperor Richū
確度 B有力だが異説あり
別名:伊邪本和気命、去来穂別天皇、大兄去来穂別尊、伊射報和気命
古事記
伊邪本和気命
日本書紀
去来穂別天皇
仁徳天皇の子で、難波の宮を焼かれて石上に逃れ、弟の住吉仲皇子の乱を鎮めたのち磐余稚桜宮に都したと伝えられる。日本書紀は諸国に国史を置き、蔵の出納を阿知使主らに管理させたと記し、記録と財の管理が王権の機能として現れる最初の記事群をこの代に置く。播磨国風土記には伊射報和気命の名で巡行の記事が見える。仁徳の子3人が相次いで即位する系列の最初に立ち、父子継承ではなく兄弟継承という王位継承の型を示す位置にある。
実在性の評価 実在の可能性あり
宋書倭国伝の倭王讃を履中に比定する説が藤間生大らにより唱えられる一方、讃を仁徳または応神とする説も併存し、坂元義種が整理したとおり讃と珍の比定は決着していない。古事記が崩年干支を壬申と記す点も、432年に当たるとする理解を含めて文献内部の推算にとどまる。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
祭祀と受容
陵は堺市の上石津ミサンザイ古墳が百舌鳥耳原南陵に治定されている。考古学的にはこの古墳の築造を仁徳陵とされる大山古墳より先行するとみる説が有力で、父から子へという記紀の順序と治定された陵の前後関係が一致しない。治定は幕末から明治にかけての行政上の判断であり、被葬者を確定する資料に基づくものではない。