FIG-0117 / 人物・神格(Figure) / 皇族・王族

市辺押磐皇子

Prince Ichinobe no Oshiha

確度 A学術的定説

別名:市辺之忍歯王、市辺忍歯別王、磐坂市辺押羽皇子、天万国万押磐尊、市辺天皇命

古事記
市辺之忍歯王
日本書紀
市辺押磐皇子(磐坂市辺押羽皇子)

履中天皇の子で、日本書紀は安康天皇3年に大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に近江の蚊屋野へ狩に誘い出されて射殺され、舎人とともに一つの穴に埋められたと記す。子の億計・弘計は播磨へ逃れ、のちに仁賢天皇・顕宗天皇として即位する。播磨国風土記は美嚢郡志深里条にこの人物を市辺天皇命の名で挙げ、その子らの潜伏を伝える。雄略による王位の奪取と、断たれた履中系がのちに復するという記紀の筋を成り立たせる結節点にあたる。

実在性の評価 実在の可能性あり

播磨国風土記の美嚢郡志深里条がこの人物を「市辺天皇命」の名で記し、記紀とは別系統の伝承が存在したことが確かめられる。ただし同時代史料や金石文による裏づけはなく、即位しなかった王子を天皇と呼ぶ風土記の記載をどう扱うかについては、直木孝次郎らの検討以来なお定説をみない。

この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。

祭祀と受容

滋賀県東近江市に市辺押磐皇子墓が治定され、宮内庁の管理下にある。日本書紀が顕宗天皇による遺骨の捜索と双墓の造営を記すことに拠る治定であり、被葬者を確かめる資料はない。播磨国風土記が市辺天皇命と記すことから、播磨には天皇として扱う伝承が並行して存在した。

種別
皇族・王族
役割
犠牲
系譜(親)
履中天皇
系譜(子)
顕宗天皇仁賢天皇
配偶
(記載なし)
初出テキスト
古事記