FIG-0112 / 人物・神格(Figure) / 実在の王・大王
弘文天皇
Emperor Kōbun
確度 B有力だが異説あり
別名:大友皇子、伊賀皇子、淡海帝
古事記
登場しない
日本書紀
大友皇子
天智天皇の子で、671年に太政大臣に任じられて近江朝廷の中枢に立つ。天智の没後、吉野へ去った大海人皇子と対立し、672年の壬申の乱に敗れて自ら死んだと日本書紀は記す。日本書紀はこの人物に独立の巻を与えず、天智紀の末尾と天武紀の上巻のなかで扱う。歴代天皇の一人とされるのは明治期の追諡によるものであり、記紀が定めた皇統の枠が後世に改められた事例にあたる。
実在性の評価 実在が有力
大友皇子の実在は日本書紀の天智紀・天武紀と751年成立の懐風藻が伝と詩を載せることから疑われないが、日本書紀は即位を明記せず即位前紀も立てないため、即位の有無をめぐって大日本史以来の即位説と非即位説が対立してきた。歴代に加えて弘文天皇と追諡したのは1870年であり、記紀の記述に基づく諡号ではない。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
祭祀と受容
壬申の乱の敗者として長く歴代に数えられず、諡号も陵ももたなかったが、1870年に弘文天皇の諡が贈られて歴代に加えられ、1877年に大津市の長等山前陵が治定された。記紀が定めた皇統の枠が明治の行政判断によって改められた事例であり、陵の治定もこの追諡に伴って行われている。