FIG-0137 / 人物・神格(Figure) / 豪族・臣

物部守屋

Mononobe no Moriya

確度 A学術的定説

別名:物部守屋大連、弓削大連、物部弓削守屋

古事記
登場しない
日本書紀
物部守屋

尾輿の子で敏達・用明朝の大連。日本書紀は、疫病の流行を仏法のためとして寺を焼き仏像を難波の堀江に流したと記し、用明の没後の587年に穴穂部皇子を擁立しようとして蘇我馬子らの軍に攻められ、河内の渋川の家で子とともに討たれたとする。この丁未の乱により物部氏の本宗は絶え、蘇我氏が朝廷の主導権を握る。仏教の受容をめぐる対立として語られるこの争乱を、王位継承と豪族間の勢力争いとして読む見方も有力である。

実在性の評価 実在が有力

日本書紀のほか元興寺伽藍縁起并流記資財帳と上宮聖徳法王帝説が587年の争乱を伝え、先代旧事本紀「天孫本紀」も物部氏の系譜にこの人物を大連として記す。ただし旧事本紀の物部氏系譜は物部氏側が伝えた資料に基づくとみられ、鎌田純一以来その史料価値は認められつつも独立の検証にはならない。

この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。

祭祀と受容

大阪府八尾市の大聖勝軍寺の付近に守屋の墓と伝える塚があり、討った側の四天王寺にも守屋を祀る祠が置かれて、敗者を鎮める形の祭祀が続いてきた。八尾の渋川神社など河内の古社は物部氏の勢力圏に立地するが、守屋自身を主祭神とする例は多くない。長野県の守屋山や諏訪大社の神長官守矢氏をこの人物に結びつける説は近世以降に生じたもので、古代の資料に根拠はない。

種別
豪族・臣
役割
抵抗
系譜(親)
(記載なし)
系譜(子)
(記載なし)
配偶
(記載なし)
初出テキスト
日本書紀
登場テキスト
日本書紀先代旧事本紀