FIG-0140 / 人物・神格(Figure) / 豪族・臣
中臣鎌足
Nakatomi no Kamatari
別名:藤原鎌足、中臣鎌子、中臣連鎌足、大織冠
中臣氏の出身で、日本書紀は法興寺の打毬の場で中大兄皇子と結び、645年に蘇我入鹿を討ったと記す。孝徳朝では内臣として、天智朝では669年の死の直前に大織冠と藤原の姓を賜り、藤原氏の始祖となる。日本書紀の編纂は子の不比等が政権の中枢にあった時期に完了しており、乙巳の変とその後の政治過程の記述にこの立場が反映した可能性は、直木孝次郎・遠山美都男らによりくり返し論じられてきた。学説の分布としては、当該巻の潤色を認めつつ変そのものの実在は動かないとする立場が多数を占め、変の意義や規模の評価には幅がある。
日本書紀に加え、760年ごろに藤原仲麻呂が編んだとされる藤氏家伝上巻「大織冠伝」が伝記を伝え、大阪府高槻市の阿武山古墳から出土した金糸を伴う漆塗籠棺と玉枕を大織冠にあたるとみて被葬者をこの人物とする説が有力である。ただし藤氏家伝は子孫が自家の由緒として編んだ書であり、記述の性格には注意を要する。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
奈良県桜井市の多武峰は鎌足の墓を移したと伝え、十三重塔と聖霊院を中心に藤原氏の追善の場となったが、1869年の神仏分離で寺は廃されて談山神社となり、鎌足を祭神とする神社へ改められた。藤原氏の氏神である春日大社が祀るのは武甕槌命ら4座であって鎌足自身ではなく、祖の祭祀と氏神の祭祀は別に立てられている。1934年に高槻市の阿武山古墳で見つかった夾紵棺と玉枕・金糸の冠帽は、被葬者を鎌足とする説の根拠として現在も論じられている。