FIG-0150 / 人物・神格(Figure) / 神格
伊和大神
Iwa no Ōkami
別名:伊和大神命、葦原志許乎命、葦原志挙乎命、伊和君等の奉斎する大神
播磨国風土記に播磨の国土を作り地名の由来を残した大神として広く現れ、宍禾郡では渡来した天日槍命と国占めを争う。揖保郡粒丘の条では、葦原志許乎命として宇頭川に来た天日槍命に海を宿として与え、その勢いを畏れて先に国を占めようと巡り、口から落ちた米粒が丘の名になったと語られる。同書は大汝命の名でも国作りの神を記すが、これら三つの呼称を明示的に一つの神として結んではいない。記紀のオオクニヌシと同一視されてきたのは事実だが、それは同じ神であることの証明ではなく、播磨の在地神が中央の国作り神に重ねられてきたという事実の記録である。
播磨国風土記(715年前後の成立とされ、平安末期の三条西家本により大半が伝わるが総説・明石郡・赤穂郡などを欠く)に播磨の国作りの神として繰り返し現れ、宍粟の伊和神社に祀られる。記紀のオオクニヌシと重ねられてきたが、同書は葦原志許乎命・大汝命の呼称も併用しており、複数の在地伝承が一つの大神に集約された過程を示すとみるのが秋本吉郎・植垣節也らの校注の立場である。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
播磨国一宮の伊和神社は延喜式神名帳に播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社として名神大に列し、明治期に国幣中社へ列した。この社名は10世紀の段階で在地の伊和大神が既に大名持すなわち大己貴命として記録されていたことを示しており、風土記の記す土地固有の大神が中央の国作り神へ読み替えられる過程は延喜式の編纂までに完了していたことになる。現在の祭神表記も大己貴神である。