FIG-0106 / 人物・神格(Figure) / 実在の王・大王
崇峻天皇
Emperor Sushun
確度 A学術的定説
別名:長谷部若雀命、泊瀬部天皇、泊瀬部皇子、長谷部天皇
古事記
長谷部若雀命
日本書紀
泊瀬部天皇
欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の子で、蘇我馬子に擁立されて倉梯柴垣宮に都したと伝えられる。百済から僧と工人を迎えて飛鳥寺の造営が始まり、任那復興のための出兵準備も進められる。馬子との対立が深まり、592年に東漢直駒に殺されたと日本書紀は明記する。記紀のなかで天皇が臣下の手で弑されたと記される唯一の例であり、大臣家の権力が王位を左右する段階を示す。
実在性の評価 実在の可能性あり
崇峻朝に始まると日本書紀が記す飛鳥寺の造営は、1956年からの奈良国立文化財研究所による発掘で588年ごろの創建と一塔三金堂の伽藍配置が確かめられ、記事と考古学的所見が対応する。ただし崇峻自身の名を伝える同時代の金石文はなく、実在の直接の裏づけには至っていない。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
祭祀と受容
陵は明治期に桜井市倉橋の小規模な墳丘が倉梯岡陵に治定されたものである。日本書紀が弑逆の当日に葬ったと記すのみで陵の伝承が絶えていたため、治定は地名と記事の照合によって行われた。祀られた形跡は乏しく、同じ桜井市内には別に崇峻天皇の墓と伝える塚もある。