記紀と古史古伝
記紀とは、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』を合わせた呼び方である。 前者は現存する日本最古の文献であり、後者は国家が公認して編纂した正史である六国史の第一にあたる。 両書は同じ原資料から出発しながら、文体も構成も対象読者も異なる二つの書物として成立し、 そこで語られた王権の由来譚は、のちに日本の建国神話として長く公的な起源の説明であり続けた。
記紀が唯一の公認された起源譚として立つとき、そこに書かれなかった土地・氏族・王朝は、公的には起源をもたない。 江戸中期以降、記紀以前の「もう一つの古代」を記すと称する文書が相次いで現れたのは、この空白に対してである。 1972年に吾郷清彦がこれらを総称して以来、こうした文献群は古史古伝と呼ばれている。 このページは、記紀の成立事情と本文をめぐる論争、古史古伝の各テキスト、偽書を判定する手続き、 そして「偽書」という概念そのものを、事典として順に整理するものである。
記紀の基礎
両書の性格の差は、文体と構成の差として最も明確に現れる。 『古事記』は変体漢文で伝承をまとまりとして語り、『日本書紀』は純漢文・編年体で中国正史の体裁に倣う。
| 古事記 | 日本書紀 | |
|---|---|---|
| 成立年 | 712年(和銅5年正月28日成立と序文に記す) | 720年(養老4年5月完成・奏上)。『続日本紀』養老4年5月癸酉条に完成の記事がある |
| 編者 | 太安万侶(撰録)/稗田阿礼(誦習) | 舎人親王(総裁)。実質的責任者は藤原不比等とする説が有力。実務の述作者は複数 |
| 巻数 | 全3巻(上巻=天地開闢から神武天皇誕生まで、中巻=神武から応神、下巻=仁徳から推古) | 全30巻+系図1巻(系図は現存しない) |
| 文体 | 変体漢文(漢文と万葉仮名の混在)。紀伝体的に説話を連ねる | 純漢文・編年体。中国正史の体裁に倣う |
| 想定読者 | 国内向け。伝承をまとまりとして語る | 対外的にも通用する正史の形式を採る |
| 現存最古の写本 | 真福寺本(国宝)。1371年から翌年にかけて真福寺僧・賢瑜が書写した3帖 | 京都国立博物館蔵の平安時代(10世紀から11世紀)写本(国宝)。卜部兼方の奥書をもつ |
| 後世の受容 | 近世以前の受容は薄い。1644年に京都で刊本が出版され、1798年に本居宣長が全44巻の『古事記伝』を完成させたことが事実上の再発見となった | 721年から965年まで計7回の日本紀講筵(講書)が催され、ほぼ30年に一度の国家的行事だった。講義の覚書『日本紀私記』のうち4種が現存し、のちの『釈日本紀』の資料となった |
同じ原資料から出発しながら、両書の記述は少なからぬ点で食い違う。以下は差が顕著な5件である。
| 論点 | 古事記 | 日本書紀 | 意味 |
|---|---|---|---|
| 異伝の扱い | 一本の物語として叙述し、異伝を並記しない | 同一事件に「一書曰」として複数の異伝を併記する | 日本書紀の異伝併記は、失われた伝承層を復元する手がかりとなる |
| 黄泉国訪問と三貴子の誕生 | イザナギが黄泉国を訪ねてイザナミと決別し、帰還後の禊によって天照大御神・月読命・須佐之男命が生まれる | 本文では黄泉国訪問を語らず異伝にのみ現れる。三神はイザナギ・イザナミの共同の生成として生まれる | 古事記が死と穢れからの再生という主題を正面に据えるのに対し、日本書紀の本文はそれを傍系に退けている |
| 誓約(うけひ)の勝敗 | 女児(宗像三女神)を生んだスサノヲが勝ちを宣言し、勝ちに乗じて高天原で乱暴を働く | 男児を生んだアマテラスの側の勝ちとされ、スサノヲの乱暴は敗北の後に位置づけられる | 同一の説話で勝敗が逆転する。勝者の驕りか敗者の逆恨みかという物語上の因果が根本的に異なる |
| 出雲神話の比重 | スサノヲ・大国主神をめぐる出雲系神話が全体のおよそ4分の1を占める | 出雲系神話の記述が大幅に削られ、大国主の物語群はほとんど採られていない | 『出雲国風土記』はさらに独自で、スサノヲの登場の仕方が異なり大穴持命との血縁関係も見えない。三系統の比較が神話の中央での再編を示す |
| ヤマトタケルの造形 | 父・景行天皇は狂暴性を恐れて遠征に出す。タケルは父が自分に死ねというのかと嘆く | 遠征は反乱鎮圧という国家的必要に基づく。天皇はタケルを愛し高く評価する | 古事記が父子の相克と英雄の悲哀を語るのに対し、日本書紀は忠誠と国家的功績の物語に組み替えている |
成立の背景
『古事記』の序文は、成立の経緯を次のように記す。天武天皇が673年の即位後に国史編纂を命じ、 稗田阿礼に『帝紀』『本辞(旧辞)』を誦習させた。 のち711年に元明天皇の命で太安万侶が撰録し、712年に献上した、というものである。 ただしこの経緯は序文にのみ記されたものであり、序文そのものの成立年代が論争の対象となっている(次節)。 なお「誦習」を口誦暗記ではなく文字資料の読み方に習熟する行為と解する説(小島憲之・西宮一民)がある。
帝紀・旧辞という共通の原資料から出発しながら、編纂方針の差が性格の異なる二書を生んだと考えられている。 『古事記』が当時利用できた伝承をなるべく採り脇道の説話も厭わないのに対し、 『日本書紀』は煩雑な叙述を嫌い、天皇系統の直線的な継承を重視して横道の物語を削る。
『日本書紀』の成立は、『続日本紀』養老4年5月癸酉条の記事という独立した公的記録によって裏づけられる。 これは古代文献としては例外的な条件であり、以後の六国史の起点となった。 完成の翌721年から965年まで、日本紀講筵はほぼ30年に一度の国家的行事として計7回催されている。 国家が自らの由来の読み方を定期的に確認する制度が存在したということである。 同じ時期、713年5月の官命によって各国に地誌の提出が命じられており(風土記)、 中央が正史を編むのと並行して、地方の地名由来や旧事・異聞が国家の側に集められていた。
対外関係は、『日本書紀』の形式そのものに刻まれている。純漢文・編年体という体裁は中国正史に倣うものであり、 対外的にも通用する正史として設計されたことを示す。 後述する森博達の音韻分析は、その編纂の現場に唐と新羅を経由した人材が加わっていたことを示唆する。 正音に基づく万葉仮名を用いる巻の述作者として持統朝の中国人述作者(続守言・薩弘恪)が、 和習の集中する巻の主筆として新羅留学の経験をもつ山田史御方が、それぞれ候補に挙げられている。
本文をめぐる論争
古事記序文(上表文)の真偽
論点は、序文が太安万侶自身の手になるものか、後代に付されたものか、 さらに本文までも後世の創作とみるかにある。主要な3つの立場を、論者と根拠とともに併記する。
| 立場 | 主な論者 | 根拠 |
|---|---|---|
| 序文は太安万侶の作であり、記された成立経緯は基本的に信頼できる | 伝統的な通説の側。1979年の太安万侶墓誌の出土を重視する立場 | 墓誌の出土により太安万侶の実在と没年(723年)が確認された。本文に上代特殊仮名遣の「モ」の甲乙の書き分けが残るなど、8世紀初頭以前の言語層を示す指標がある |
| 序文は9世紀初頭(弘仁期)の作であり、本文は古いが序文は後付けされた(序文偽書説) | 賀茂真淵、沼田順義、大和岩雄、三浦佑之、宝賀寿男ら。西條勉が用語法の面から9世紀初頭説を支持 | 『続日本紀』に古事記撰進の記事がなく、『新撰姓氏録』にも稗田阿礼の名がない。序文の文体・用語法が本文と乖離し、平安初期の日本紀講筵の文脈に親和的である。弘仁期の講師で太氏の一族である多人長の作とする推測もあるが確証はない |
| 本文を含め全体が平安初期から鎌倉期の後世創作である(本文偽書説) | 中沢見明、松本雅明ら | 成立の公的記録の欠如、近世以前の受容の薄さ |
現状は次のように整理される。本文偽書説は、上代特殊仮名遣の証拠と1979年の太安万侶墓誌の出土によって ほぼ支持を失い、上代文学界・歴史学界ではほとんど受け入れられていない。 他方で序文偽書説は決着していない。序文を9世紀初頭の作とする見方が有力視される一方、伝統的理解も維持されており、 本文の古さと序文の成立年代は別問題として扱うのが現在の標準的な整理である。 三浦佑之のように、序文を後世の偽作としつつ本文の古さは積極的に主張する立場も成り立つ。
日本書紀の区分論
森博達は万葉仮名の音韻分析により、『日本書紀』を言語的性格の異なる2群に区分した (『古代の音韻と日本書紀の成立』1991年、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』1999年)。
| 群 | 巻 | 言語的特徴 | 述作者の想定 |
|---|---|---|---|
| α群 | 巻14から21、24から27 | 正音(当時の中国語音=漢音)に基づく万葉仮名を用い、漢文の誤りが少ない | 中国系渡来者。候補として持統朝の続守言・薩弘恪を挙げる |
| β群 | 巻1から13、22から23、28から29 | 倭音が混在し、和習(日本語的な漢文の誤り)が集中する | 非中国語話者。候補として新羅留学経験のある山田史御方を挙げる。714年以降の紀清人・三宅藤麻呂による潤色加筆も想定される |
区分論そのものは広く受容され、『日本書紀』を巻ごとに性格の異なる複合体として扱うことが標準となった。 個々の述作者比定や巻30の位置づけについては議論が続いている。 内的な言語証拠から文献の成立層を切り分けるこの方法は史料批判の代表例であり、 同じ論理が古史古伝の年代判定にも適用される。
記紀の史料的価値
津田左右吉は、神代から仲哀天皇までは系譜も含め史実としての資料的価値がなく、 応神以前の記述は宮廷官人による政治的造作であり、神話は皇室支配の正当化のため6世紀に創作されたと論じた (『古事記及び日本書紀の新研究』1919年ほか)。 その史料批判の方法と基本結論は現代史学の定説の基礎となった一方、 戦後の考古学・民俗学の側からは、文献批判のみで伝承の古層を切り捨てると 考古資料や地方伝承が示す実態を取りこぼすという「主観的合理主義」批判も向けられている。 現在は、記紀を造作として斥けるのではなく、伝承の重層性や考古学的知見と突き合わせて読む方向へ研究が進んでいる。
関連文献
記紀の周辺には、記紀とは別の伝承や別の氏族の主張を伝える文献群がある。 これらは記紀を相対化する材料であると同時に、偽書判定が一律ではありえないことを示す例でもある。
| 文献 | 成立年 | 性格 | 現在の評価 |
|---|---|---|---|
| 先代旧事本紀 | 9世紀(平安初期)。三上喜孝は806年から810年以後・904年から906年の延喜の書紀講筵以前と推定する | 全10巻。序文は聖徳太子・蘇我馬子撰と称するが偽作。「天孫本紀」は饒速日尊と物部氏・尾張氏の系譜を、「国造本紀」は135氏の国造の祖先伝承を記す | 序文のみが後世の偽作で、本文は記紀・古語拾遺からの引用と独自資料を組み合わせた9世紀の編纂物とする見方が主流。国造本紀は現在も古代地方制度研究に使われる |
| 風土記 | 713年(和銅6年)5月の官命に始まる。『出雲国風土記』は733年成立 | 官撰地誌。国郡郷の名称、産物、土地の肥沃度、地名の由来、伝承される旧事・異聞の5項目の報告を各国に命じた。当時は「風土記」ではなく「解(げ)」と呼ばれた | 出雲・播磨・肥前・常陸・豊後の5か国分が現存し、ほぼ完本は『出雲国風土記』のみ。記紀とは独立した地方の伝承層を伝える。逸文の一部には後世の仮託が疑われるものがある |
| 古語拾遺 | 807年(大同2年)2月13日。写本により806年とするものもある | 斎部広成が平城天皇に上表した。神代から奈良朝までの朝廷祭祀の由来を記し、斎部(忌部)氏が本来朝廷祭祀を担う正統な氏族であることを主張する | 近代には史料価値を限定的とみる評価が強かったが、現在は再評価が進む。氏族が自氏の由緒をどう構成し、記紀とどう異なる伝承を保持したかを示す好例 |
このうち『先代旧事本紀』の評価の変遷は、偽書という判定が段階的でありうることを最もよく示している。 中世には聖徳太子撰の古典として神道界で権威をもったが、江戸時代に序文の偽作が指摘され、 徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。 現在は、序文のみが後世の偽作であり本文は9世紀の編纂物であるとする見方が主流である (鎌田純一ら)。本居宣長自身も第3・5・10巻は他の古書から採ったものと認めていた。 「天孫本紀」の物部氏・尾張氏系譜と「国造本紀」の135氏の祖先伝承には他に代え難い独自情報が含まれ、 9世紀の氏族社会が自らの由緒をどう構成したかを示す史料として利用される。 なお江戸時代延宝年間に成立した『先代旧事本紀大成経』は本書とは別個の偽書であり、 著者は流罪、書は禁書とされた。両者の混同には注意を要する。
古史古伝の一覧
以下の6件は古史古伝の中核テキストとしてデータベースに登録されている。 成立の時期は18世紀後半から20世紀後半にわたり、出現の回路も国学、地方の由緒意識、新宗教教団、 自治体史とそれぞれ異なる。各件について、主張する内容、出現の経緯、偽書とされる根拠、関連する出来事、 現在の評価を記す。
たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ 公開1928年 / TXT-0049
竹内文書
つがるそとさんぐんし 刊行1975年から1977年 / TXT-0050
東日流外三郡誌
ほつまつたゑ 現存最古の写本1775年 / TXT-0051
ホツマツタヱ(秀真伝)
うえつふみ 「発見」1837年 / TXT-0052
上記(ウエツフミ)
みやしたもんじょ 紹介1921年 / TXT-0053
宮下文書(富士古文書)
くかみもんじょ/くきもんじょ 公表1941年 / TXT-0054
九鬼文書
偽書判定の方法
偽書の判定は、内容が奇異かどうかではなく、文書が自ら称する成立年代と、 文書に内在する言語証拠・物証・外部記録とが整合するかどうかによって行われる。 主な手続きは次の4つである。
| 方法 | 内容 |
|---|---|
| 時代錯誤の語彙 | 称する成立年代にはありえない語や知識が本文に混入していないかを見る。東日流外三郡誌には「洗脳」など昭和中期以降の語や、「冥王星」「準星(クエーサー)」など20世紀の天文学知識が含まれる。ホツマツタヱには「妾」など江戸時代以降の語彙が現れる。 |
| 上代特殊仮名遣 | 奈良時代以前の日本語はキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・トなどで甲類乙類の書き分けをもつ。この体系を反映するか否かが、上代を称する文献の年代を切り分ける。『古事記』本文に「モ」の甲乙の書き分けが残り『日本書紀』『万葉集』では既に失われている点は、古事記本文の言語層の古さを示す指標として用いられる。 |
| 書誌学的検証 | 伝来の経緯、現存写本が遡りうる上限年代、外部の独立した記録との照合を行う。『日本書紀』は『続日本紀』に完成記事があり、『古語拾遺』は『日本後紀』に著者の叙位記事がある。『古事記』は逆に『続日本紀』に撰進の記事がないことが論点となる。1979年の太安万侶墓誌の出土のように、外部の物証が説の一角を動かすこともある。 |
| 用紙・筆跡 | 物としての文書を調べる。狩野亨吉は1935年に竹内文書の5枚すべてを偽造と判定した。東日流外三郡誌では、先祖の筆写とされた文書の筆跡が和田喜八郎のものと酷似して同じ誤字まで共有し、紙を古く見せかけるための薬剤が死後に発見された。文書を収納する空間が存在しないことや、1994年の三内丸山遺跡の確認後にのみ同遺跡の記述が現れることも、物と時系列の側からの検証にあたる。 |
神代文字が否定される根拠
神代文字は、漢字伝来以前の日本に固有の文字が存在したとする主張、 およびそれを称する諸文字(阿比留文字、阿比留草文字、豊国文字、阿波文字、ヲシテなど)の総称である。 平田篤胤は『神字日文伝』で鶴岡八幡宮に見出されたという文字を「日文真字」と呼び、 朝鮮の諺文(ハングル)との類似を認識しながらも日本独自のものと結論づけた。 これに対して伴信友は『仮字本末』(1850年刊)で、 阿比留文字は諺文の祖である吏読が日本に伝わったものと論じて批判した。 山田孝雄以降、神代文字の存在を否定することが国語学界の定説となっている。
年代判定として決定的なのは、上代特殊仮名遣との不整合である。 奈良時代以前の日本語はキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・トなどで甲類乙類の書き分けをもつ8母音的な体系であったが、 神代文字はいずれもこれを反映せず、平安以降に成立した5母音の五十音図体系を前提としている。 この書き分けの存在は、1917年に橋本進吉が 石塚龍麿『仮名遣奥山路』(1798年頃)を再評価する論文を発表して初めて学界に広く知られた。 すなわち、それ以前に作られた文字体系が上代特殊仮名遣を反映できないのは論理的必然であり、 反映していないという事実が、その文字の成立を近世以降に限定する。 ヲシテが5母音体系に基づき、上代には存在しなかった撥音「ん」を含むことも同じ指標にあたる。
このほか、表意文字の段階を経ずに整った表音文字が突然出現するのは文字発達史上不自然であること、 漢字伝来以前の遺跡・遺物から神代文字の出土例が一件もないことが根拠に加わる。 一部の神社に神代文字の額や神璽が伝わるが、いずれも近世以降の製作と考えられている。 神代文字は多くの古史古伝の基盤であるため、その否定は古史古伝全体の年代判定に直結する。
判定は必ずしも全体の真偽を一括して決めるものではない。 『先代旧事本紀』のように序文と本文を分けて評価する例があり、 『古事記』についても本文の古さと序文の成立年代は別個に論じられている。
偽書という概念について
偽書とは、著者・成立年代・伝来のいずれかを実際とは異なるものと偽って提示された文書である。 実証史学の基本的な立場からすれば、偽書は記述内容が対象時代の事実を伝えないため、 当該時代の史料としては使えず、排除すべき対象となる。 これに対して現在の偽書研究の主流は、偽書もまた、それが作られた時代の史料であるという視点をとる。 偽史の創作は、それが作成される社会と時代における時代精神を反映する。 誰が何を求めてその文書を作り、誰が何を求めてそれを信じたのかを問うことで、 成立時代の欲求・不安・自己像が読み取れるという立場である。
この視点に立つと、古史古伝は時代ごとに異なる需要に応えた文書として並ぶ。 江戸期のものは、国学が漢意以前の純粋な日本を求めた志向のなかで生まれた。 近代のものは、国家の起源をめぐる欲求と国家神道の枠組みへの緊張のもとに現れた。 戦後のものは、中央史観に対する周縁の対抗史観への希求に応えた。 いずれの場合も、記紀という公認された起源譚が覆っていない領域に、別の起源を書き入れる作業が行われている。
もう一つの共通する構造は、公的権威の獲得である。 『上記』は明治期に教部省が翻訳事業を進め、『九鬼文書』は華族の家伝という由緒と教団組織を回路として流通し、 『東日流外三郡誌』は『市浦村史 資料編』として自治体史に収録されることで信用を得た。 自治体という公的権威が検証なしに与えた信用は、東日流外三郡誌の受容の広がりを説明する要因の一つとして指摘される。 中央に対して「われわれにも独自の歴史があった」と語ろうとする地域の欲求に、この文書が応えた点も同様である。
国家の側もまた、記紀の物語をどう語るかを管理していた。 1892年、久米邦武は論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題視され、 帝国大学教授職と臨時編年史編纂委員の職を辞している。 津田左右吉は1940年2月に著書4冊が発禁処分を受け、同年3月に出版法違反で起訴、 1942年5月に禁錮3か月・執行猶予2年の判決を受けた(1944年に時効により免訴)。 同じ時期、竹内巨麿は不敬罪で摘発されている。 記紀の物語について「過少」に語ることも「過剰」に語ることも禁じられていたという点で、この二つの事件は対をなす。
したがって偽書研究の重心は、真偽の判定から、なぜ生まれ、なぜ受け入れられたのかの分析へ移っている。 原田実は、文字による記録は歴史の真実を後世に伝える手段であるとともに 虚偽を広める手段ともなりえたという立場から、偽書を生んだ時代の欲求を分析し、 偽史運動と陰謀論・カルトとの接続点にも注意を促している。 ホツマツタヱの整った韻文体系と一貫した文字体系のように、 偽書がしばしば相当の学識と労力の産物であることも、この分析の前提となる事実である。
他の物語との関係
記紀が語る建国の物語は、日本に固有の現象ではない。 データベースに登録された他の建国神話と並べると、いくつかの共通した構造が見える。
| 物語 | 発生年代 | 特徴 |
|---|---|---|
| 日本の建国神話(記紀と万世一系) | 8世紀(記紀の成立)/前660年(神武即位の伝承年) | 『古事記』『日本書紀』の編纂により王権の由来譚が文字化され、中世の神道言説、近世の国学を経て再解釈された。幕末から明治期には教育制度・儀礼・祝祭日を通じて国民規模で共有された |
| 中華と天命 | 前11世紀(西周初期) | 天命の授受によって支配の正統性を説明する。データベースでは記紀の対抗物語として登録されている |
| ローマ建国神話 | 前753年(建国の伝承年)/前1世紀(ウェルギリウス・リウィウスによる文学的定式化) | 伝承上の建国年と、それを文学として定式化した年代とが大きく隔たる |
| 檀君神話と韓民族の物語 | 1281年頃(『三国遺事』への記録)/前2333年(伝承上の建国年)/20世紀初頭(近代的な再文脈化) | 記録された年代、伝承上の建国年、近代に国民の物語として読み直された年代の3層をもつ |
| ロシアの物語(第三のローマ/ルーシ起源) | 988年(ルーシの受洗)/16世紀初頭(修道士フィロフェイの書簡における「第三のローマ」) | 既存の帝国の後継を名乗ることで正統性を接続する |
第一に、伝承上の建国年と、それが文字として定式化された年代とが大きく隔たる。 神武即位の伝承年は前660年、記紀の成立は8世紀である。 ローマ建国の伝承年は前753年、ウェルギリウスとリウィウスによる文学的定式化は前1世紀である。 檀君神話の伝承上の建国年は前2333年、『三国遺事』への記録は1281年頃である。 起源は常に、それを必要とする後代の側から書かれる。
第二に、中核となる概念が重なる。記紀の物語は主権と国民を、 中華の物語は天命を軸に据え、ローマ建国神話と檀君神話はその両方を含む。 支配の正統性を、人間が定めた取り決めではなく、それに先立つ由来によって根拠づけるという形式は共通する。
第三に、近代における再文脈化がある。檀君神話は20世紀初頭に国民の物語として読み直され、 ロシアの物語は16世紀初頭の「第三のローマ」の観念を経由して帝国の後継という位置を主張した。 記紀の物語も、幕末から明治期に教育制度・儀礼・祝祭日を通じて国民規模で共有されている。 伝統の創造は、この過程を扱う概念である。 古史古伝は、こうして固まった中央の起源譚に対して周縁から差し出された対抗史であり、 データベースでは記紀の建国神話と古史古伝が相互に対抗物語として登録されている。
物語どうしの派生・対立・習合・輸入翻訳の関係は系統樹で時間軸に沿って通覧できる。 このページで触れた文献・人物・概念の各レコードはデータベースにあり、 それぞれの成立年代・関与した物語・確度を確認できる。