記紀と古史古伝

記紀とは、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』を合わせた呼び方である。 前者は現存する日本最古の文献であり、後者は国家が公認して編纂した正史である六国史の第一にあたる。 両書は同じ原資料から出発しながら、文体も構成も対象読者も異なる二つの書物として成立し、 そこで語られた王権の由来譚は、のちに日本の建国神話として長く公的な起源の説明であり続けた。

記紀が唯一の公認された起源譚として立つとき、そこに書かれなかった土地・氏族・王朝は、公的には起源をもたない。 江戸中期以降、記紀以前の「もう一つの古代」を記すと称する文書が相次いで現れたのは、この空白に対してである。 1972年に吾郷清彦がこれらを総称して以来、こうした文献群は古史古伝と呼ばれている。 このページは、記紀の成立事情と本文をめぐる論争、古史古伝の各テキスト、偽書を判定する手続き、 そして「偽書」という概念そのものを、事典として順に整理するものである。

記紀の基礎

両書の性格の差は、文体と構成の差として最も明確に現れる。 『古事記』は変体漢文で伝承をまとまりとして語り、『日本書紀』は純漢文・編年体で中国正史の体裁に倣う。

古事記日本書紀
成立年712年(和銅5年正月28日成立と序文に記す)720年(養老4年5月完成・奏上)。『続日本紀』養老4年5月癸酉条に完成の記事がある
編者太安万侶(撰録)/稗田阿礼(誦習)舎人親王(総裁)。実質的責任者は藤原不比等とする説が有力。実務の述作者は複数
巻数全3巻(上巻=天地開闢から神武天皇誕生まで、中巻=神武から応神、下巻=仁徳から推古)全30巻+系図1巻(系図は現存しない)
文体変体漢文(漢文と万葉仮名の混在)。紀伝体的に説話を連ねる純漢文・編年体。中国正史の体裁に倣う
想定読者国内向け。伝承をまとまりとして語る対外的にも通用する正史の形式を採る
現存最古の写本真福寺本(国宝)。1371年から翌年にかけて真福寺僧・賢瑜が書写した3帖京都国立博物館蔵の平安時代(10世紀から11世紀)写本(国宝)。卜部兼方の奥書をもつ
後世の受容近世以前の受容は薄い。1644年に京都で刊本が出版され、1798年に本居宣長が全44巻の『古事記伝』を完成させたことが事実上の再発見となった721年から965年まで計7回の日本紀講筵(講書)が催され、ほぼ30年に一度の国家的行事だった。講義の覚書『日本紀私記』のうち4種が現存し、のちの『釈日本紀』の資料となった

同じ原資料から出発しながら、両書の記述は少なからぬ点で食い違う。以下は差が顕著な5件である。

論点古事記日本書紀意味
異伝の扱い一本の物語として叙述し、異伝を並記しない同一事件に「一書曰」として複数の異伝を併記する日本書紀の異伝併記は、失われた伝承層を復元する手がかりとなる
黄泉国訪問と三貴子の誕生イザナギが黄泉国を訪ねてイザナミと決別し、帰還後の禊によって天照大御神・月読命・須佐之男命が生まれる本文では黄泉国訪問を語らず異伝にのみ現れる。三神はイザナギ・イザナミの共同の生成として生まれる古事記が死と穢れからの再生という主題を正面に据えるのに対し、日本書紀の本文はそれを傍系に退けている
誓約(うけひ)の勝敗女児(宗像三女神)を生んだスサノヲが勝ちを宣言し、勝ちに乗じて高天原で乱暴を働く男児を生んだアマテラスの側の勝ちとされ、スサノヲの乱暴は敗北の後に位置づけられる同一の説話で勝敗が逆転する。勝者の驕りか敗者の逆恨みかという物語上の因果が根本的に異なる
出雲神話の比重スサノヲ・大国主神をめぐる出雲系神話が全体のおよそ4分の1を占める出雲系神話の記述が大幅に削られ、大国主の物語群はほとんど採られていない『出雲国風土記』はさらに独自で、スサノヲの登場の仕方が異なり大穴持命との血縁関係も見えない。三系統の比較が神話の中央での再編を示す
ヤマトタケルの造形父・景行天皇は狂暴性を恐れて遠征に出す。タケルは父が自分に死ねというのかと嘆く遠征は反乱鎮圧という国家的必要に基づく。天皇はタケルを愛し高く評価する古事記が父子の相克と英雄の悲哀を語るのに対し、日本書紀は忠誠と国家的功績の物語に組み替えている

成立の背景

『古事記』の序文は、成立の経緯を次のように記す。天武天皇が673年の即位後に国史編纂を命じ、 稗田阿礼に『帝紀』『本辞(旧辞)』を誦習させた。 のち711年に元明天皇の命で太安万侶が撰録し、712年に献上した、というものである。 ただしこの経緯は序文にのみ記されたものであり、序文そのものの成立年代が論争の対象となっている(次節)。 なお「誦習」を口誦暗記ではなく文字資料の読み方に習熟する行為と解する説(小島憲之・西宮一民)がある。

帝紀・旧辞という共通の原資料から出発しながら、編纂方針の差が性格の異なる二書を生んだと考えられている。 『古事記』が当時利用できた伝承をなるべく採り脇道の説話も厭わないのに対し、 『日本書紀』は煩雑な叙述を嫌い、天皇系統の直線的な継承を重視して横道の物語を削る。

『日本書紀』の成立は、『続日本紀』養老4年5月癸酉条の記事という独立した公的記録によって裏づけられる。 これは古代文献としては例外的な条件であり、以後の六国史の起点となった。 完成の翌721年から965年まで、日本紀講筵はほぼ30年に一度の国家的行事として計7回催されている。 国家が自らの由来の読み方を定期的に確認する制度が存在したということである。 同じ時期、713年5月の官命によって各国に地誌の提出が命じられており(風土記)、 中央が正史を編むのと並行して、地方の地名由来や旧事・異聞が国家の側に集められていた。

対外関係は、『日本書紀』の形式そのものに刻まれている。純漢文・編年体という体裁は中国正史に倣うものであり、 対外的にも通用する正史として設計されたことを示す。 後述する森博達の音韻分析は、その編纂の現場に唐と新羅を経由した人材が加わっていたことを示唆する。 正音に基づく万葉仮名を用いる巻の述作者として持統朝の中国人述作者(続守言・薩弘恪)が、 和習の集中する巻の主筆として新羅留学の経験をもつ山田史御方が、それぞれ候補に挙げられている。

本文をめぐる論争

古事記序文(上表文)の真偽

論点は、序文が太安万侶自身の手になるものか、後代に付されたものか、 さらに本文までも後世の創作とみるかにある。主要な3つの立場を、論者と根拠とともに併記する。

立場主な論者根拠
序文は太安万侶の作であり、記された成立経緯は基本的に信頼できる伝統的な通説の側。1979年の太安万侶墓誌の出土を重視する立場墓誌の出土により太安万侶の実在と没年(723年)が確認された。本文に上代特殊仮名遣の「モ」の甲乙の書き分けが残るなど、8世紀初頭以前の言語層を示す指標がある
序文は9世紀初頭(弘仁期)の作であり、本文は古いが序文は後付けされた(序文偽書説)賀茂真淵、沼田順義、大和岩雄、三浦佑之、宝賀寿男ら。西條勉が用語法の面から9世紀初頭説を支持『続日本紀』に古事記撰進の記事がなく、『新撰姓氏録』にも稗田阿礼の名がない。序文の文体・用語法が本文と乖離し、平安初期の日本紀講筵の文脈に親和的である。弘仁期の講師で太氏の一族である多人長の作とする推測もあるが確証はない
本文を含め全体が平安初期から鎌倉期の後世創作である(本文偽書説)中沢見明、松本雅明ら成立の公的記録の欠如、近世以前の受容の薄さ

現状は次のように整理される。本文偽書説は、上代特殊仮名遣の証拠と1979年の太安万侶墓誌の出土によって ほぼ支持を失い、上代文学界・歴史学界ではほとんど受け入れられていない。 他方で序文偽書説は決着していない。序文を9世紀初頭の作とする見方が有力視される一方、伝統的理解も維持されており、 本文の古さと序文の成立年代は別問題として扱うのが現在の標準的な整理である。 三浦佑之のように、序文を後世の偽作としつつ本文の古さは積極的に主張する立場も成り立つ。

日本書紀の区分論

森博達は万葉仮名の音韻分析により、『日本書紀』を言語的性格の異なる2群に区分した (『古代の音韻と日本書紀の成立』1991年、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』1999年)。

言語的特徴述作者の想定
α群巻14から21、24から27正音(当時の中国語音=漢音)に基づく万葉仮名を用い、漢文の誤りが少ない中国系渡来者。候補として持統朝の続守言・薩弘恪を挙げる
β群巻1から13、22から23、28から29倭音が混在し、和習(日本語的な漢文の誤り)が集中する非中国語話者。候補として新羅留学経験のある山田史御方を挙げる。714年以降の紀清人・三宅藤麻呂による潤色加筆も想定される

区分論そのものは広く受容され、『日本書紀』を巻ごとに性格の異なる複合体として扱うことが標準となった。 個々の述作者比定や巻30の位置づけについては議論が続いている。 内的な言語証拠から文献の成立層を切り分けるこの方法は史料批判の代表例であり、 同じ論理が古史古伝の年代判定にも適用される。

記紀の史料的価値

津田左右吉は、神代から仲哀天皇までは系譜も含め史実としての資料的価値がなく、 応神以前の記述は宮廷官人による政治的造作であり、神話は皇室支配の正当化のため6世紀に創作されたと論じた (『古事記及び日本書紀の新研究』1919年ほか)。 その史料批判の方法と基本結論は現代史学の定説の基礎となった一方、 戦後の考古学・民俗学の側からは、文献批判のみで伝承の古層を切り捨てると 考古資料や地方伝承が示す実態を取りこぼすという「主観的合理主義」批判も向けられている。 現在は、記紀を造作として斥けるのではなく、伝承の重層性や考古学的知見と突き合わせて読む方向へ研究が進んでいる。

関連文献

記紀の周辺には、記紀とは別の伝承や別の氏族の主張を伝える文献群がある。 これらは記紀を相対化する材料であると同時に、偽書判定が一律ではありえないことを示す例でもある。

文献成立年性格現在の評価
先代旧事本紀9世紀(平安初期)。三上喜孝は806年から810年以後・904年から906年の延喜の書紀講筵以前と推定する全10巻。序文は聖徳太子・蘇我馬子撰と称するが偽作。「天孫本紀」は饒速日尊と物部氏・尾張氏の系譜を、「国造本紀」は135氏の国造の祖先伝承を記す序文のみが後世の偽作で、本文は記紀・古語拾遺からの引用と独自資料を組み合わせた9世紀の編纂物とする見方が主流。国造本紀は現在も古代地方制度研究に使われる
風土記713年(和銅6年)5月の官命に始まる。『出雲国風土記』は733年成立官撰地誌。国郡郷の名称、産物、土地の肥沃度、地名の由来、伝承される旧事・異聞の5項目の報告を各国に命じた。当時は「風土記」ではなく「解(げ)」と呼ばれた出雲・播磨・肥前・常陸・豊後の5か国分が現存し、ほぼ完本は『出雲国風土記』のみ。記紀とは独立した地方の伝承層を伝える。逸文の一部には後世の仮託が疑われるものがある
古語拾遺807年(大同2年)2月13日。写本により806年とするものもある斎部広成が平城天皇に上表した。神代から奈良朝までの朝廷祭祀の由来を記し、斎部(忌部)氏が本来朝廷祭祀を担う正統な氏族であることを主張する近代には史料価値を限定的とみる評価が強かったが、現在は再評価が進む。氏族が自氏の由緒をどう構成し、記紀とどう異なる伝承を保持したかを示す好例

このうち『先代旧事本紀』の評価の変遷は、偽書という判定が段階的でありうることを最もよく示している。 中世には聖徳太子撰の古典として神道界で権威をもったが、江戸時代に序文の偽作が指摘され、 徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。 現在は、序文のみが後世の偽作であり本文は9世紀の編纂物であるとする見方が主流である (鎌田純一ら)。本居宣長自身も第3・5・10巻は他の古書から採ったものと認めていた。 「天孫本紀」の物部氏・尾張氏系譜と「国造本紀」の135氏の祖先伝承には他に代え難い独自情報が含まれ、 9世紀の氏族社会が自らの由緒をどう構成したかを示す史料として利用される。 なお江戸時代延宝年間に成立した『先代旧事本紀大成経』は本書とは別個の偽書であり、 著者は流罪、書は禁書とされた。両者の混同には注意を要する。

古史古伝の一覧

以下の6件は古史古伝の中核テキストとしてデータベースに登録されている。 成立の時期は18世紀後半から20世紀後半にわたり、出現の回路も国学、地方の由緒意識、新宗教教団、 自治体史とそれぞれ異なる。各件について、主張する内容、出現の経緯、偽書とされる根拠、関連する出来事、 現在の評価を記す。

たけうちもんじょ/たけのうちもんじょ 公開1928年 / TXT-0049

竹内文書

主張する内容
神代文字で記されたと称し、現皇統以前に「上古25代」および「不合朝(うがやふきあえずちょう)73代」が存在したとする。天皇が天空浮舟で世界を巡幸し、世界各地の王が来日して日本の天皇に朝貢したという世界統治史観を語る。イエス・キリストが来日して青森県に墓があるとし、モーセ、釈迦ら世界の宗教指導者もすべて来日したとする。
出現の経緯
竹内巨麿(1874年から1965年)は富山県新川郡新保村の出身で、1892年に上京、1893年頃に御嶽教に入信し、1899年に茨城県磯原へ移住して1900年に御嶽教天津教会を開設した(のちの皇祖皇太神宮天津教)。1928年3月29日に「神代文字神霊宝巻」を公爵一条実孝らに拝観させたのが本格的な公開の端緒で、以後多くの名士が磯原を訪れた。
偽書とされる根拠
1935年に鑑定を依頼された狩野亨吉が、提示された5枚すべてを偽造と判定し、1936年6月号『思想』(岩波書店)に「天津教古文書の批判」を発表した。使用される神代文字が国語学的に成立しえない体系であること、19世紀末以降の西洋オカルト文献に由来するムー大陸説など近代の知識が前提となっていることも根拠とされる。
関連する出来事
1936年2月13日、竹内巨麿は不敬罪・文書偽造行使罪・詐欺罪の容疑で逮捕され、1937年12月11日に水戸地方裁判所で不敬罪により起訴された。第一審・控訴審は有罪。1944年12月、大審院は宗教上の問題であって裁判所の判断の範囲を超える旨の判断を示し無罪とした(判決日については12月1日とする記述と12月12日とする記述があり、確認されていない)。戦後は1946年に大日教を設立するが1950年に団体等規正令違反で解散命令を受け、1952年に皇祖皇太神宮天津教を再設立した。
現在の評価
学術的には近代の偽作という判定が確立している。皇祖皇太神宮の側は現在も真書として伝承している。近代日本の偽史運動の中核テキストとして思想史・宗教社会学の研究対象であり、長谷川亮一はムー大陸説の影響を指摘した。国家神道の枠組みを内側から拡張し「日本こそ世界の中心」という願望に形を与えたテキストとして分析されるとともに、これを不敬罪で処罰した国家の側の論理も研究の対象となっている。

つがるそとさんぐんし 刊行1975年から1977年 / TXT-0050

東日流外三郡誌

主張する内容
古代の津軽に中央とは別の独自文明があったとし、複数民族が混血して「荒羽吐(アラハバキ)族」を形成したとする。大和朝廷に追われた者が津軽に落ち延び、安倍貞任を経て安東氏に繋がるという系譜を語る。十三湊が満洲・中国・朝鮮・欧州・アラビア・東南アジアと交易して栄え、1341年の大津波で壊滅したとし、遮光器土偶をアラハバキのイメージに結びつけた。
出現の経緯
和田喜八郎(1927年から1999年)が、青森県北津軽郡(現・五所川原市飯詰)の自宅の天井裏から大量の古文書が落ちてきたと説明した。「発見」の年は1948年とする記述と1949年とする記述があり確定していない。書中では寛政年間に秋田孝季と和田吉次が編纂し、和田末吉が1870年から1910年に写したと称する。1975年から1977年にかけて市浦村(現・五所川原市)が『市浦村史 資料編』全3部として刊行し、自治体史に収録されたことで権威づけられた。
偽書とされる根拠
「洗脳」など昭和中期以降の語、「冥王星」「準星(クエーサー)」など20世紀の天文学知識を含む。曾祖父・祖父の筆写と主張されたが筆跡が和田喜八郎のものと酷似し、同じ誤字まで共有していた(2007年に公開された「寛政原本」も従来の写本と筆跡が一致した)。紙を古く見せかけるための薬剤が和田の死後に発見された。三内丸山遺跡が1994年に大規模集落と確認された後、1995年以降の文書にのみ同遺跡への直接的記述が現れる。東奥日報が2003年2月25日付で和田家内部の写真を掲載し、主張される量の文書を収納できる空間がないことを示した。当時の家屋に天井裏がなかったことも後に指摘されている。
関連する出来事
1992年に青森地方裁判所で訴訟が起こされ、これを契機に真偽論争が本格化した(係争の全体像と各判決の確定内容は確認されていない)。和田喜八郎は論文・写真の盗用をめぐる民事裁判の被告ともなっている。原本を公開しないまま1999年に死去した。東奥日報記者の斉藤光政による長期の調査報道が偽作の実証に決定的役割を果たし、安本美典が偽作説を主張して古田武彦と論争し、原田実が『幻想の津軽王国』(1995年)などで詳細な批判を行った。
現在の評価
近代(戦後)の偽作であることが学術的に確定しており、青森県教育庁の発掘調査報告書にも偽書という評価が定着していると記載され、公的機関の判断としても確定している。戦後最大の偽書事件と評される。争点は既に真偽ではなく、自治体史への収録、地域おこしとの結合、中央史観に対して独自の歴史を求めた地域の欲求という受容の構造に移っている。

ほつまつたゑ 現存最古の写本1775年 / TXT-0051

ホツマツタヱ(秀真伝)

主張する内容
「ヲシテ」と呼ばれる文字で記された、全40アヤ(章)・10,700行余の五七調長歌体の叙事。天地開闢からヤマト政権初期までを記す。ヲシテは1音1字の体系で基本48字、変体を含め197字が確認されている。支持者は記紀の原資料であると主張する。
出現の経緯
写本に和仁估安聡本(1775年)、小笠原長弘本(明治33年頃)、小笠原長武本、内閣文庫本などがある。編集者の松本善之助(1919年から2003年)が1966年8月に神田の古書店で3アヤ(小笠原長武奉呈本)を見出したのが再発見の端緒で、1967年に宇和島で追加文献を発見、1973年以降『ミカサフミ』『秀真政伝紀』などを入手し、仙台・東京・名古屋・大阪で研究会を組織した。1992年には滋賀県高島市の日吉神社蔵から全40アヤが発見されている。
偽書とされる根拠
「妾」など江戸時代以降の語彙が現れる。上代日本語は上代特殊仮名遣による甲乙の区別をもつ8母音的体系であるはずだが、ヲシテは現代と同じ5母音体系に基づき、上代には存在しなかった撥音「ん」を含む。現存写本が18世紀後半以降にしか遡らない。
関連する出来事
学界一般では18世紀後半の修験者・井保(伊保)勇之進、すなわち和仁估安聡(わにこやすとし)による創作とされるが、表記に揺れがあり、その実在の裏づけは確認されていない。肯定派は記紀との本文比較からホツマが原書であると主張している。
現在の評価
江戸中期から後期(18世紀後半)の創作とするのが学界の通説。近世国学の周縁で生まれた「もう一つの古代」の構築物として、また戦後の受容を通じて近代・現代における古代への憧憬の形を示す資料として研究される。整った韻文体系と一貫した文字体系という完成度の高さ自体が、作者の学識と創作意欲を示すものとして評価される面もある。

うえつふみ 「発見」1837年 / TXT-0052

上記(ウエツフミ)

主張する内容
「豊国文字」という神代文字で記される。神武天皇以前の歴史に加え、天文・暦・医学・産業技術・民話民俗を網羅する博物誌的性格をもつ。神武天皇はウガヤフキアエズ王朝の第73代であるとし、日本が中国に農業や文字を伝えたとする。
出現の経緯
1837年(天保8年)に豊後国大野郡(現・大分県)で発見されたと称する。序文は1223年に豊後国守護・大友能直が古文書をもとに編纂したとするが、史実とみなされていない。写本には幸松葉枝尺による1848年の普通仮名への改編版および1872年の特殊仮名のままの写本(宗像本系)と、臼杵の旧家に秘蔵されたという大友本系がある。明治期には教部省が翻訳を進め、吉良義風が『上記鈔訳』を著した。関連資料は国立公文書館・国立国会図書館で閲覧できる。
偽書とされる根拠
19世紀初頭に京都吉田神学館の玉田永教が偽書と断定した。学界で存在が認められていない神代文字で書かれており、1223年の大友能直編纂という主張に同時代的な裏づけがなく、内容に近世以降の知識が含まれる。
関連する出来事
偽作の主体は確定していない。豊後の吉良義風の作とする説が有力視される一方、吉良義風は明治期に教部省の翻訳事業で『上記鈔訳』を著した人物としても記述され、1837年の発見との時系列に整合しない可能性がある。発見者とされる幸松葉枝尺の役割も確定していない。豊国文字がサンカ文字に類似するとされ大友能直によるサンカ弾圧伝承が語られるが、これは三角寛以外に紹介した者がなく学術的検証ができていない。
現在の評価
偽書とするのが学界の一致した見解であり、実際は19世紀前半(幕末期)の成立とみられる。幕末期の地方の国学的関心と豊後という土地の由緒意識が結晶したテキストとして、地域史・思想史の対象となる。明治期に教部省が翻訳を試みた事実は、近代国家が国民統合の神話を探索していた過程を示す。

みやしたもんじょ 紹介1921年 / TXT-0053

宮下文書(富士古文書)

主張する内容
富士山北麓に「富士高天原王朝」があったとし、神武天皇以前の超古代史を記す。ウガヤフキアエズ王朝の存在を主張する。中核部分は秦から渡来した徐福の筆録と称する。
出現の経緯
富士山北麓の北東本宮小室浅間神社(旧・阿曽谷宮守神社)の宮司家である宮下家に伝来したとされる。相模国の寒川神社に保管されていたという記録もある。三輪義熈による概説書『神皇紀』が1921年6月25日に隆文館から刊行されて広く知られた。1986年に影印本『神傳富士古文獻大成』全7巻、2011年に現代語訳版が刊行されている。
偽書とされる根拠
言語学的特徴から幕末期の成立と判断される。神武以前の王朝という主張に他史料の裏づけがなく、写本の伝来経緯も確認できない。
関連する出来事
筆者・成立事情はいずれも不明である。
現在の評価
偽書であり、古史古伝の代表例に数えられる。史料としての信頼性は低いとされるが、噴火伝承の部分に地域の記憶が反映されている可能性から、富士山の噴火史研究において参考資料として検討されることがある。富士信仰・富士講の文脈で生まれた地域的な由緒書という側面から研究される。

くかみもんじょ/くきもんじょ 公表1941年 / TXT-0054

九鬼文書

主張する内容
古代出雲王朝の正統性を主張し、艮(うしとら)の金神をめぐる神統譜を含む。天児屋根命の時代に神代文字で記されたものを藤原不比等が漢字に改め、九鬼氏が保管したと称する。
出現の経緯
九鬼隆治(1886年から1980年)は綾部藩10代藩主・九鬼隆備の長男で、1897年に家督を相続し子爵を襲爵した。1918年に明石へ移居し、1920年に自邸の長持の底から艮の金神の御神体を発見したとして皇道宣揚会を創設した。教勢拡大のため神道研究家・三浦一郎に家伝の文書を渡して研究させ、1941年に三浦が『九鬼文書の研究』として出版した。
偽書とされる根拠
大本(大本教)の教義および竹内文書からの影響を色濃く受けていることが明らかで、それらに先行しえない。神代文字による原記録という由来主張に裏づけがなく、文書の伝来経緯も確認できない。
関連する出来事
九鬼隆治は、艮の金神は本来九鬼家が祭祀していたと主張して大本と交渉し、代償として10万円の世襲財産と丹波綾部の邸宅建築を取り付けたとされる。
現在の評価
偽書である。大本を軸とする近代新宗教運動と旧華族の由緒意識が交差した地点に生まれたテキストとして、近代宗教史・偽史運動研究の対象となっている。

偽書判定の方法

偽書の判定は、内容が奇異かどうかではなく、文書が自ら称する成立年代と、 文書に内在する言語証拠・物証・外部記録とが整合するかどうかによって行われる。 主な手続きは次の4つである。

方法内容
時代錯誤の語彙称する成立年代にはありえない語や知識が本文に混入していないかを見る。東日流外三郡誌には「洗脳」など昭和中期以降の語や、「冥王星」「準星(クエーサー)」など20世紀の天文学知識が含まれる。ホツマツタヱには「妾」など江戸時代以降の語彙が現れる。
上代特殊仮名遣奈良時代以前の日本語はキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・トなどで甲類乙類の書き分けをもつ。この体系を反映するか否かが、上代を称する文献の年代を切り分ける。『古事記』本文に「モ」の甲乙の書き分けが残り『日本書紀』『万葉集』では既に失われている点は、古事記本文の言語層の古さを示す指標として用いられる。
書誌学的検証伝来の経緯、現存写本が遡りうる上限年代、外部の独立した記録との照合を行う。『日本書紀』は『続日本紀』に完成記事があり、『古語拾遺』は『日本後紀』に著者の叙位記事がある。『古事記』は逆に『続日本紀』に撰進の記事がないことが論点となる。1979年の太安万侶墓誌の出土のように、外部の物証が説の一角を動かすこともある。
用紙・筆跡物としての文書を調べる。狩野亨吉は1935年に竹内文書の5枚すべてを偽造と判定した。東日流外三郡誌では、先祖の筆写とされた文書の筆跡が和田喜八郎のものと酷似して同じ誤字まで共有し、紙を古く見せかけるための薬剤が死後に発見された。文書を収納する空間が存在しないことや、1994年の三内丸山遺跡の確認後にのみ同遺跡の記述が現れることも、物と時系列の側からの検証にあたる。

神代文字が否定される根拠

神代文字は、漢字伝来以前の日本に固有の文字が存在したとする主張、 およびそれを称する諸文字(阿比留文字、阿比留草文字、豊国文字、阿波文字、ヲシテなど)の総称である。 平田篤胤は『神字日文伝』で鶴岡八幡宮に見出されたという文字を「日文真字」と呼び、 朝鮮の諺文(ハングル)との類似を認識しながらも日本独自のものと結論づけた。 これに対して伴信友は『仮字本末』(1850年刊)で、 阿比留文字は諺文の祖である吏読が日本に伝わったものと論じて批判した。 山田孝雄以降、神代文字の存在を否定することが国語学界の定説となっている。

年代判定として決定的なのは、上代特殊仮名遣との不整合である。 奈良時代以前の日本語はキ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・トなどで甲類乙類の書き分けをもつ8母音的な体系であったが、 神代文字はいずれもこれを反映せず、平安以降に成立した5母音の五十音図体系を前提としている。 この書き分けの存在は、1917年に橋本進吉が 石塚龍麿『仮名遣奥山路』(1798年頃)を再評価する論文を発表して初めて学界に広く知られた。 すなわち、それ以前に作られた文字体系が上代特殊仮名遣を反映できないのは論理的必然であり、 反映していないという事実が、その文字の成立を近世以降に限定する。 ヲシテが5母音体系に基づき、上代には存在しなかった撥音「ん」を含むことも同じ指標にあたる。

このほか、表意文字の段階を経ずに整った表音文字が突然出現するのは文字発達史上不自然であること、 漢字伝来以前の遺跡・遺物から神代文字の出土例が一件もないことが根拠に加わる。 一部の神社に神代文字の額や神璽が伝わるが、いずれも近世以降の製作と考えられている。 神代文字は多くの古史古伝の基盤であるため、その否定は古史古伝全体の年代判定に直結する。

判定は必ずしも全体の真偽を一括して決めるものではない。 『先代旧事本紀』のように序文と本文を分けて評価する例があり、 『古事記』についても本文の古さと序文の成立年代は別個に論じられている。

偽書という概念について

偽書とは、著者・成立年代・伝来のいずれかを実際とは異なるものと偽って提示された文書である。 実証史学の基本的な立場からすれば、偽書は記述内容が対象時代の事実を伝えないため、 当該時代の史料としては使えず、排除すべき対象となる。 これに対して現在の偽書研究の主流は、偽書もまた、それが作られた時代の史料であるという視点をとる。 偽史の創作は、それが作成される社会と時代における時代精神を反映する。 誰が何を求めてその文書を作り、誰が何を求めてそれを信じたのかを問うことで、 成立時代の欲求・不安・自己像が読み取れるという立場である。

この視点に立つと、古史古伝は時代ごとに異なる需要に応えた文書として並ぶ。 江戸期のものは、国学が漢意以前の純粋な日本を求めた志向のなかで生まれた。 近代のものは、国家の起源をめぐる欲求と国家神道の枠組みへの緊張のもとに現れた。 戦後のものは、中央史観に対する周縁の対抗史観への希求に応えた。 いずれの場合も、記紀という公認された起源譚が覆っていない領域に、別の起源を書き入れる作業が行われている。

もう一つの共通する構造は、公的権威の獲得である。 『上記』は明治期に教部省が翻訳事業を進め、『九鬼文書』は華族の家伝という由緒と教団組織を回路として流通し、 『東日流外三郡誌』は『市浦村史 資料編』として自治体史に収録されることで信用を得た。 自治体という公的権威が検証なしに与えた信用は、東日流外三郡誌の受容の広がりを説明する要因の一つとして指摘される。 中央に対して「われわれにも独自の歴史があった」と語ろうとする地域の欲求に、この文書が応えた点も同様である。

国家の側もまた、記紀の物語をどう語るかを管理していた。 1892年、久米邦武は論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題視され、 帝国大学教授職と臨時編年史編纂委員の職を辞している。 津田左右吉は1940年2月に著書4冊が発禁処分を受け、同年3月に出版法違反で起訴、 1942年5月に禁錮3か月・執行猶予2年の判決を受けた(1944年に時効により免訴)。 同じ時期、竹内巨麿は不敬罪で摘発されている。 記紀の物語について「過少」に語ることも「過剰」に語ることも禁じられていたという点で、この二つの事件は対をなす。

したがって偽書研究の重心は、真偽の判定から、なぜ生まれ、なぜ受け入れられたのかの分析へ移っている。 原田実は、文字による記録は歴史の真実を後世に伝える手段であるとともに 虚偽を広める手段ともなりえたという立場から、偽書を生んだ時代の欲求を分析し、 偽史運動と陰謀論・カルトとの接続点にも注意を促している。 ホツマツタヱの整った韻文体系と一貫した文字体系のように、 偽書がしばしば相当の学識と労力の産物であることも、この分析の前提となる事実である。

他の物語との関係

記紀が語る建国の物語は、日本に固有の現象ではない。 データベースに登録された他の建国神話と並べると、いくつかの共通した構造が見える。

物語発生年代特徴
日本の建国神話(記紀と万世一系)8世紀(記紀の成立)/前660年(神武即位の伝承年)『古事記』『日本書紀』の編纂により王権の由来譚が文字化され、中世の神道言説、近世の国学を経て再解釈された。幕末から明治期には教育制度・儀礼・祝祭日を通じて国民規模で共有された
中華と天命前11世紀(西周初期)天命の授受によって支配の正統性を説明する。データベースでは記紀の対抗物語として登録されている
ローマ建国神話前753年(建国の伝承年)/前1世紀(ウェルギリウス・リウィウスによる文学的定式化)伝承上の建国年と、それを文学として定式化した年代とが大きく隔たる
檀君神話と韓民族の物語1281年頃(『三国遺事』への記録)/前2333年(伝承上の建国年)/20世紀初頭(近代的な再文脈化)記録された年代、伝承上の建国年、近代に国民の物語として読み直された年代の3層をもつ
ロシアの物語(第三のローマ/ルーシ起源)988年(ルーシの受洗)/16世紀初頭(修道士フィロフェイの書簡における「第三のローマ」)既存の帝国の後継を名乗ることで正統性を接続する

第一に、伝承上の建国年と、それが文字として定式化された年代とが大きく隔たる。 神武即位の伝承年は前660年、記紀の成立は8世紀である。 ローマ建国の伝承年は前753年、ウェルギリウスとリウィウスによる文学的定式化は前1世紀である。 檀君神話の伝承上の建国年は前2333年、『三国遺事』への記録は1281年頃である。 起源は常に、それを必要とする後代の側から書かれる。

第二に、中核となる概念が重なる。記紀の物語は主権国民を、 中華の物語は天命を軸に据え、ローマ建国神話と檀君神話はその両方を含む。 支配の正統性を、人間が定めた取り決めではなく、それに先立つ由来によって根拠づけるという形式は共通する。

第三に、近代における再文脈化がある。檀君神話は20世紀初頭に国民の物語として読み直され、 ロシアの物語は16世紀初頭の「第三のローマ」の観念を経由して帝国の後継という位置を主張した。 記紀の物語も、幕末から明治期に教育制度・儀礼・祝祭日を通じて国民規模で共有されている。 伝統の創造は、この過程を扱う概念である。 古史古伝は、こうして固まった中央の起源譚に対して周縁から差し出された対抗史であり、 データベースでは記紀の建国神話と古史古伝が相互に対抗物語として登録されている。

物語どうしの派生・対立・習合・輸入翻訳の関係は系統樹で時間軸に沿って通覧できる。 このページで触れた文献・人物・概念の各レコードはデータベースにあり、 それぞれの成立年代・関与した物語・確度を確認できる。