FIG-0104 / 人物・神格(Figure) / 実在の王・大王
敏達天皇
Emperor Bidatsu
確度 A学術的定説
別名:沼名倉太玉敷命、渟中倉太珠敷天皇、訳語田天皇、他田天皇
古事記
沼名倉太玉敷命
日本書紀
渟中倉太珠敷天皇
欽明天皇と石姫の子で、百済大井宮、のちに訳語田幸玉宮に都したと伝えられる。仏法を信じず、物部守屋と中臣勝海の排仏に同調して寺塔を焼かせたと日本書紀は記す一方、蘇我馬子は仏法を修め続ける。皇后の額田部皇女はのちに推古天皇として即位し、その周辺の系統が7世紀の皇統をかたちづくる。崇仏と排仏の対立が王権の内部で並存した段階を示す治世である。
実在性の評価 実在が有力
668年の紀年をもつ船王後墓誌が「乎娑陀宮治天下天皇」と記し、これを敏達の訳語田幸玉宮に当てるのが通説で、近接時期の金石文が治世の実在を裏づける。島根県岡田山1号墳出土の鉄刀銘「額田部臣」も6世紀後半における部民制の存在を示し、敏達朝前後の王権の姿と整合する。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
祭祀と受容
陵は大阪府太子町の河内磯長中尾陵に治定され、磯長谷古墳群のなかに置かれる。用明・推古・孝徳の陵とされる古墳や聖徳太子の磯長墓が同じ谷に集まり、近世以来この一帯は王陵の谷と呼ばれてきた。天皇自身を祭神とする社は乏しい。