FIG-0163 / 人物・神格(Figure) / 皇族・王族
丹波道主命
Tanba no Michinushi no Mikoto
別名:丹波比古多多須美知能宇斯王、旦波比古多多須美知宇斯王、丹波道主王、道主王
日本書紀は崇神天皇10年9月条で、大彦命(北陸)・武渟川別(東海)・吉備津彦命(西道)とともに丹波へ派遣された将軍とし、後世これを四道将軍と総称する。古事記は丹波比古多多須美知能宇斯王と表記し、丹波之河上之摩須郎女との間の娘たちが垂仁天皇の后妃となったと記す。日葉酢媛命が皇后として景行天皇と倭姫命を生んだとされ、討伐の主体である日子坐王の子が、そのまま婚姻の供給元になるという構成をとる。日本書紀が父を彦湯産隅王とする別伝を併記する点は、丹波と王権を結ぶ系譜が一本化されていなかったことを示す。
古事記は日子坐王と息長水依比売の子とし、日本書紀は崇神天皇10年条で丹波に派遣された将軍とするが、垂仁紀には父を彦湯産隅王とする別伝も併記される。丹後には弥生後期から大規模な墳丘墓と玉作工房が存在し、大陸との交易を持つ勢力があったことが確認されるが、記紀の個々の人物と遺跡を結びつける手段はない。
この評価は、その存在が歴史的に実在したかについての学説の分布を示すものである。 実在しないことは、その物語が果たしてきた働きを少しも減じない。
京丹後市久美浜の神谷太刀宮神社が祭神とし、国見の剣を祀ったとの伝承を伝えるが、神社の祭祀伝承は古墳の被葬者を確定する資料にはならない。丹後の大型前方後円墳である蛭子山1号墳・網野銚子山古墳・神明山古墳をこの人物に結びつける言説があるが、被葬者を示す銘文や墓誌は出土しておらず、宮内庁の陵墓治定も及んでいない。築造年代である4世紀中頃から5世紀初頭と、崇神・垂仁朝という説話上の位置づけとの間に大まかな重なりを見出せるにとどまる。