応答責任の連鎖
機械に内面があるかを問う代わりに、出力の責任が誰から誰へ渡るのかを記述する物語である。
AIをめぐる語りは、道具か人格かの二択に収束しやすい。道具の物語は帰結を使用者だけに帰し、人格の物語は責任の所在を機械の内面という検証しにくい場所へ移す。いずれも、開発、学習データ、運用、利用が別々の主体に分かれている現在の構造を記述できない。空白は、内面の有無を判定しないまま責任を配分する語彙の側にある。
提案する物語は、機械を主体でも道具でもなく、責任が通過する結節点として描く。1つの出力について、学習データの提供者、モデルの設計者、運用者、利用者のあいだで責任がどう分割され、どこで切れているかを、筋の骨格そのものに書き込む。中心の問いは「それは考えているか」ではなく「誰が引き受けるか」に置き換わる。
会社(NAR-0043)は、内面を持たない存在に法人格を与え、責任の帰属先として運用してきた先行例である。ハラウェイの「サイボーグ宣言」に始まるポストヒューマニズム(NAR-0081)は人格の範囲を問い直し、AI共生の物語(NAR-0055)は安全性と労働の語彙を供給した。製造物責任の法理と供給網の監査実務も断片として使える。
普及の経路は、事故調査と保険の実務である。責任配分の記述が業務上必要になる場面から語彙は定着する。障害は2つ。責任の分割が免責の分散に転化し、誰も引き受けない状態を生む可能性と、機械の道徳的地位をめぐる論争が再び焦点を奪う可能性である。事故報告書が依然として「AIの判断」で記述を終えるなら、この物語は機能していない。